一、始まりの兄弟喧嘩
「__誠に、誠に申し訳ございませんでした!」
だだっ広い空間に若い男の叫びが木霊していた。周りには等間隔で立ち並ぶ柱と、壇上に据えられた玉座くらいしか無い広間なので、声がとても良く響く。
声の主はそんな広間の真ん中に平伏しながら、玉座に鎮座する人物に向かってひたすら声高らかに謝り続けている……そんな、傍目には少々異様な光景だった。
「……ですので、この度の俺、いや私のやってしまったあれ、所業については、それはもう深く深く反省しておりまして、であるからして姉上におかれましては本日はお日柄も良く__いや違う。ええと……」
先程からずっとこんな調子だったからか、謝るための語彙も無くなってきたのがよく分かる。残念ながら段々と謝罪の体を為していない。そんな様子を遂に見かねてか、姉上と呼ばれた人物は吐息を一つ落とすと、呆れ顔で玉座から降りてきた。そうして、平伏している弟の正面で立ち止まる。
「__火雅智、立ちなさい」
「はい、佳月姉上」
素直に立ち上がった火雅智の目に、麗しい姉の顔が飛び込んできた。満ち満ちた月の光を思わせる穏やかで優しい顔立ちも、今は弟に対する静かな怒りが浮かんでいる。
ひっ、と小さな音が情けなく喉から漏れるのと同時に、火雅智の顔や背中に冷や汗が幾筋も流れ出す。いつの間にか姉の身長を抜かしていた火雅智だったが、どうしてか今は自分よりも姉の方がずっと大きく見える。
「本当に反省しているのですか?」
「それはもう、はい! もちろんです!」
いつも寛容で優しい姉が激怒した所は見たことがない。それだけに怖い。
漂ってきた仄かな怒気を感じ取ったのか、火雅智は勢いよく何度も首を縦に振る。その動きに合わせて赤茶色の髪が顔の横でぴょんぴょん跳ねていた。__機嫌がよろしくない時の姉上は、普通に優しく喋っているだけでどうしてこんなに恐怖を感じるのだろう、というのが火雅智の永遠の疑問だ。
「それならば、夕刻までに貴方が壊した桃泉宮の屋根を元通り修繕なさい。お掃除も忘れずにね」
「俺だけでですか? あれは兄上も__」
「火雅智?」
「……はい」
こういう時の姉は有無を言わせてくれない。それに元を辿れば悪いのは自分……それはよく分かっている。
不承不承頷く弟の頭に、佳月はぽんと手を置いた。そのまま宥める様に軽く触れる。
「貴方だけが悪いのではないことは分かっています。ですが、桃泉宮は一刻も早く直してしまわなければなりません。今宵の宴に間に合わなくなっては、私達皆が父上に顔向けできないでしょう」
「それは、心得てます。夕刻までには必ず直します」
さすがに事の大きさは分かっているのか、今度は真面目な顔で火雅智が頷く。それには佳月も微笑みを返すと、「さあ」と弟を促した。
「では姉上、失礼致します」
最近は礼の所作も見違えるほど上達していると、佳月は心の内でしみじみと感じ入る。弟の成長を密かに喜んではいたものの__。
「火雅智、横着をしてはなりません」
残念なことに、今にも回廊から中庭を突っ切ろうとしていた弟が目に入ってしまった。近道したい気持ちは分からなくもないが、彼は今しがた叱られたばかりである。諫められた火雅智はきまりが悪そうに身を縮めながら、そそくさと小走りで渡り廊下を去って行った。
「全く火雅智は……もちろん、貴方もですよ。兄上様」
やれやれと額に手を当てる佳月は、今度は広間の隅の方を見据えて声を掛けた。すると、何もない薄暗がりから一人の青年が現れる。佳月が兄上様と呼んだ通り、歳の頃は火雅智や彼女よりも幾らか年上に見えた。彼が歩く度に揺れる金糸の様な髪が、陽の光を弾いてきらめく。わざとらしく心外そうな表情を作って開いた口元からは、低く耳に心地好い声が響いた。
「__私が? 悪いのはあの愚弟であろうに」
「火雅智を煽ったのは貴方でしょう。陽之栄兄上」
「特に何か言った覚えはないのだがなあ」
陽之栄は耀かんばかりの美しい面立ちに苦笑を浮かべる。並みの女性達が相手であればそれで事をいなせても、妹の佳月には通用しない。その反応を少しつまらなく思ったのか、白く長い指先に佳月の美しいぬばたまの黒髪をくるりと絡ませた。
佳月は特に嫌がる素振りは見せなかったが、兄に対しての毅然とした態度は崩さない。
「では他に何が?」
「何も無い。……強いて言うならば、お前が火雅智にばかり構うものだから」
「兄上……」
佳月は呆れた様に兄の顔を見上げる。冗談めかして告げたその言葉が、混じり気無しの本気なのだと分かるからだ。陽之栄は佳月の呆れ顔に少し困った様に柳眉をひそめた。一応少しくらいは罪悪感も湧いているらしい。
「後は少し退屈だったのもある。しかし、宮を壊す意図は全くなかったのだ、すまないな」
「謝るのでしたら火雅智にも」
「それは嫌だ」
即答。まるで子供みたいに顔を背けて言う様は、いっそ清々しいくらいだ。陽之栄とて心の底から火雅智を嫌っている訳ではなさそうなのだが。
「……火雅智と一緒に掃除をなさってきてはいかがですか?」
「止めてくれ、他の者に示しがつかないだろう」
「それが分かっているなら、もう迂闊な事はなさらないで下さいませね……」
貴方は私達の兄上であり長子なのですから、と佳月は目で訴える。
「分かっている。桃泉宮の修繕には配下の者を遣わす。父上がお戻りになられる前には問題なく片付くだろう」
「ならば結構です。私も他の準備がありますので、そちらはお任せして宜しいのですね?」
「ああ。必ず間に合わせよう……あの父上ならば、笑って許してくれそうな気もするのだがなあ」
「兄上! 例えその可能性があったとしても__」
確かにあの父は寛容なお方であるから、大抵の事は鷹揚に笑って許される場合が多い。今回の件もそうなるかもしれない。しかしだからこそ、"きっと許してくれるだろうから"で済ませてはいけない事は、この世に沢山あるのだ。
その様に声を上げかけた佳月を、陽之栄はひらひらを手を振りながら制す。
「冗談だよ。何せあの宮は父上も気に入っておられるからな」
「はあ……くれぐれもお願いいたしますね。それでは兄上、私もこれにて」
礼を取って立ち去ろうとする妹の肩を陽之栄は微笑みと共に軽く叩いた。そして、自身も宮の外に向けて踵を返す。彼もまたやらなければならない事があるからだ。
今日は彼らの父神である大神が、地上の中津国から天上界の天津国へお戻りになる日だった。そして、帰還の宴が大神の住まう宮殿の一画、桃泉宮にて催されるのである。