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リラティヴ・アブソリュート  作者: ヒノミサキ
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第五章 ダルセーニョ

第五章 ダルセーニョ



-1-



 1月。世間では正月気分が抜けないまま、怠惰な日々が流れていた。いつもなら僕もだらしなくその流れに身を預けたいところだが、とてもそんな気分にはなれなかった。僕は何度も時枝の夢にうなされた。

「時枝っ!!......夢......か......」

「また、あの人の夢ですか?」

 目をさますと、七海が僕の傍らに座っていた。

「ああ。あの後どうなったのか......絶対世界のことが頭から離れない」

「今はゆっくり休んだ方がいいですよ」

「捕まっていたとき、何もされなかったか?」

「監禁はされました。けど、特に非道い目には合ってません。でも、あそこにいたときは正直言って絶望しかけて......和帆さん?」

「そ、そうか......よかっ......た」

 意識が遠のいていった。

 次に目覚めたときは夕方だった。

 


「ほら、ぼーっとしてないで、食べなよ」

 真魚が夕食を促す。僕が伏せってから、食事時は真魚も七海も僕の部屋に居座るようになった。

「ああ、うん」

「そのさ、なんというか、時枝のことはとりあえず忘れてさ......」

「そういうわけには......」

「和帆にはあたしらがいるでしょ? ね? 七海姉ェ」

 急に話をふられて、七海はむせた。

「そ、そうですよ。選べる立場にいるんですよ?」

「何を言ってるんだ?」

「鈍いなぁ、もう。ライバル宣言だよ」

 真魚は七海に向かって拳を突き出した。

「は?」

「私、負けませんよ」

 七海も両手で拳を構えた。

 僕は指先から力が抜けてしまい、箸を皿の上に落とした。

「あのねぇ......普通、本人を前にしてそういうことやらないだろ?」

「あたしらの勝手だもんねー」「ねー」

 真魚と七海がにこやかに腕を組む。

「バカなこと言ってないで、現場復帰のことでも考えてろよ」

「アハハハ、元気出たみたいだよ?」

「よかった......」

 真魚、七海、気を遣わせてすまない......本当に感謝してる。もしいつの日か、また誰かが襲ってきたら、今度こそおまえたちを渡さない。絶対にだ。



 数日後、僕らはエグザムの二人、時枝とスペイシオに襲われたときの、団地の廃墟に行った。あるものを探すためだ。絶対世界の手がかりはもうそれしかない。脱出のとき僕らを救った時空転移装置は、こちらの世界に到着してすぐ動かなくなった。

 僕は、再び絶対世界に渡り、教授やゲルテルを僕らの世界へ救い出すという、無謀とも思われる計画を真魚と七海に提案した。エグザムとの接触は避けられないだろう。危険は承知の上だった。彼らは僕らを助けるために命を賭けてくれたけれど、それでも恩人の危機は放ってはおけなかった。そして......時枝の最後の姿が僕の脳裏から離れることは決してなかった。

(もし、もし生きていてくれたなら、知りたいことが幾つか、ある......)

 でも、今ここで時枝のことを口に出すのは止めておこう。

 二人は僕の計画に反対する素振りすら見せず、快諾してくれた。



「寒いよぅ」

 真魚が震えながら言った。

「文句言ってないで掘れ。誠心誠意、僕に尽くすんじゃなかったのか?」

「そこまで言った覚えはないんだけど......」

 僕らは雪深い団地の廃墟でひたすら雪を掘っていた。

 作りかけのマンション群は3階部分まで埋まっていた。春まで待っても良かったが、準備は早いに越したことはない。1日差で運命を変えられなかった、なんてのはゴメンだ。

「あっ、ありましたよ〜」

 七海が遠くで叫んだ。雪の縦穴の中にいるので姿は見えない。

「ほんとか!?」

 僕と真魚は深い雪に足を取られながら、七海の方へ向かった。

「な、七海姉ェ......」

 真魚はうなだれた。

「視力検査、行った方がいいかもな」

「す、すいません......」

 七海が拾ったのは、重機に使われていたテールランプの赤いカバーだった。


 それから三日間廃墟に通ったが収穫はなかった。広大な雪原の中からあんな小さなものを見つけ出すなんて土台無理な話だ。僕は一旦あきらめて、大学の研究室に籠もった。三人寄ればなんとやら......真魚と七海も連れてきた。

 僕はしばらく熱力学の資料をネットから漁っていたが、どれも決め手に欠けた。ため息をついてPCをスリープさせたとき、真魚が言った。

「あのさぁ、教授を独房から助けるとき、お互いの義手が反応したってやつ。それって和帆一人でもどうにかならないの?」

「どうにかって......あれは偉大なるドライシュタイン教授が作ったものだよ。底辺研究員の僕にわかるわけ......」

 そのとき僕は、学生のころ実験が上手くいかずに悩んでいたときの教授の言葉を思い出した。

(やってみもせずに文句を言うな。無理に違いないだって? ちゃんちゃらおかしいね。今日はうちに帰ってご都合主義ゲームでもやっていたまえ!)

「ふぅ......今のことを話したらまた怒られるな」僕は頭を掻いた。「これから言うものをスーパーと薬屋で買ってきてくれ。他は適当に選んでいい」

「ラジャー。買い出し部隊、準備できております!」

 真魚が笑顔で敬礼した。

 こいつめ......はじめからそのつもりだったのか?

「めっ、メモ、メモ用紙はっ!?」

 紙が見つからずうろたえる七海。

 今何世紀だと持ってるんだ。君のその携帯端末は文鎮にでも使うのか?

 

 

-2-



 2月。窓の外を眺めると粉雪が降り続いている。去年の()()()と同じだ。違うのは麻波がどこかへいなくなり、入れ替わりに真魚と七海がやってきてしまったこと。

 世の中にはときにどうしようもないことが幾つかある、と教授がときどきぼやいていたのを思い出した。この先何があろうと麻波の記憶が僕から消えることはないだろう。でも、今は手が届きそうな可能性に全力を挙げることだけ考えている。


 僕の両手の義手を詳しく調べてみると、不思議な機能が二三見つかった。教授を助けたときに発動した力は、条件さえ整えば単独でも出せるようだ。

 その条件とは......。


『リラティヴ・マテリアルが半径9.8メートル以内に二つとも存在すること。ただし、この力をむやみに使ってはならない。最悪の場合、時空間が崩壊する恐れがある』

 

 義手に埋め込まれていたマイクロチップ。そこに記録されたプログラムを解析していたときに見つかった暗号。解読に2週間を要したが、どうにか読むことができた。

 僕は立ち上がった。

「真魚、七海。行くぞ」



 ひと月ぶりに廃墟の団地に来た。多少雪が増えたくらいで荒涼とした感じは何も変わっていない。僕は記憶を頼りに、真っ白な雪原のあるポイントに立った。雪に埋まり先端しか見えていないクレーンに強靭な軽量ファイバーの命綱をくくりつけ、さらに三人をロープで結んで一塊にした。

「いいかい?」

「オッケー」「はい」

 僕は左義手の親指と人差し指の間を強く押し、全意識を雪に集中した。

 風が止んだ。音もなく雪が消えていく。溶けるのではない、消えていくのだ。命綱の張りが徐々に増していく。綱が完全に張り、足が宙に浮いた。クレーンの高さを計算に入れたつもりだったが、少し足りなかった。とはいえ、ここで綱を切っても足を折ることはないだろう。

 感覚的には十数秒だったと思う。廃墟団地の周りを埋め尽くしていた全ての雪がどこかに消えた。

 僕らは乾いた土の地面に降り立ち、二つのペンダントを探した。僕の記憶に間違いはなかった。ここでエグザムの巨躯の男、スペイシオにやられたんだ。砂漠のように広い雪原で特定の雪玉を一つ見つけるようなものだと思っていたが、やってみればできるものだ。

 真魚と七海は、赤と青、それぞれ自分のペンダントを取り戻し、首から提げた。

「これは絶対世界に反発する力、リラティヴ・マテリアルという物質の結晶だよ。真魚と七海はこれのおかげで時空管理局の奴らから護られていたんだ。でも、僕が油断したせいであんな目に......」

 その先は言葉にならなかった。

「でも、和帆さんは助けに来てくれたじゃないですか」

 七海は僕の手を取った。

「あたし、あの日のことは絶対忘れないよ」

 真魚が二人の手をさらに両手で包んだ。

「ありがとう......」

 それからの沈黙をかき消すように、冷たい風が吹き、砂埃が舞った。

 


『臨時ニュースです。乾期のサハラ砂漠に異常気象が起こっています。記録的集中豪雨が発生し、オアシスの住民に避難命令が下されました。軍の迅速な救助活動により被害者は今のところなく......』


 テレビの前で、僕は口に収まっていた歯ブラシを吐き出した。

「やっば〜。あれが東京とかニューヨークだったら大変だったね」

 ロングソファに寝そべる真魚は、なんだか楽しそうだ。

「まさか昨日の()()が、この世界のどこかに行ってたなんて。危なかったですね」

 七海は握った手を顎に当てたまま、映像に食いついている。

「質量保存の法則、ってやつかな?」

 僕はのそのそと歯ブラシを拾いつつ、ティッシュで床をふいた。

「二人を助けるために二千人殺しちゃうんじゃあ、まずいよねぇ」

 真魚は横目で僕を見た。

「面目ない」

 この力をむやみに使ってはならない。教授の説明書の通りだった。



-3-



 リラティヴ・マテリアルを回収したあの日から、ちょうど1年経った。

 僕は骨身を削って赤と青の石の研究をしたが、わかったことはほんの僅かだった。幸いなことに、僕らが脱出時に乗ってきた時空転移装置は、動きはしないが健在だった。回収にこないということは、時空管理局はまだ何かに手こずっているいうことだろう。

 もしくは、時枝の力で本当に絶対世界(あちら)側の時空間が完全に閉じられてしまったのか? だとすれば、今やっていることは全くの無駄ということになるが。

 リラティヴ・マテリアル......絶対世界に反発する力......これをどうにか利用できないものか。時枝は絶対世界の住人だ。もし彼女の結界が有効なら、このままではおそらくその壁に跳ね返されてしまうだろう。

 僕は悩みに悩んだが、答えは出なかった。

「ああーっ、くそっ!」

「まぁまぁ、落ち着いて」

 七海が言った。

「落ち着いていられるか。もし時空間が閉じていなくて、管理局の奴らがこっちにきて機体を回収してしまったら、本当におしまいなんだぞ?」

「そうですけど......焦って間違った結論を出しても同じことだと思いますよ」

「......」

 僕は何も言い返せなかった。

「何かいい方法ないかな?」

「うーん、そうですね......『かかるときは()が大事』という言葉がありますが......」

「り?」

「ええ。大昔の中国の言葉だったと思います。あまり詳しくはないので深い意味についてはちょっと......」

 七海は常備しているメモ用紙に『離』という漢字を書いた。

「離か......」

 僕は腕組みをし首をかしげる。そういえば、もう1年もこんなことをやっているんだった。

 僕は言った。

「ちょっと、出かけようか」



 僕と七海は大学近くの街をぶらついたあと、郊外にある『少年科学博物館』を訪れた。結局、科学からは離れられなかったが、初心に返るという意味では悪くない場所に思えた。普段は大人しい七海が、ときどき子供に交じってアトラクションを楽しむのを、僕はしばらく眺めていた。

 この館の目玉である、実物展示の宇宙船の内部を見終えたあと、七海は言った。

「懐かしいなぁ......」

「昔のこと、覚えてるのか?」

「なんとなくですけどね。この世界に飛ばされて、だいぶ記憶を失ってしまったけど」

「すまない......」

「いいんですよ。昔の記憶も大事だけど、もっと大事なのは今です。今が充実してなければ、素敵な未来なんてありえませんよ。今の私はとっても幸せです。だから、気にしないでください」

「七海......」

「あっ、あれ、面白そう」

 僕は何か言葉を返そうとしたが、七海は小走りで先に行ってしまった。

「とてもアラサーとは思えないね」

 元々童顔だから、見た目は24、5歳くらいにしか見えないど......。

 僕は独り小さく笑うと、そばにある小さな実験装置を眺めた。

「ふーん、磁石か......小学生の頃はけっこう遊んだな」

 あの頃は不思議で仕方なかった。同じ極同士はどうして反発するのか。違う極同士はどうしてくっつくのか。特に大きな磁石で同極同士を合わせようとするときには、かなりの力を使った記憶がある。

「N極とS極、N極とN極、S極と......ん!? そうか!」

 急に大声を出した僕は、周りにいた親子から奇異の視線を浴びてしまったが、そんなことは構うもんか。

 僕は人混みをかき分け博物館の出口に走った。外に出て駐車場へ向かおうとしたときだった。

 あれ? 何か忘れてる気がする。

「ハァハァ......もぅ、いきなり帰っちゃうなんてひどいですよー」

 七海が息を切らして出口から飛び出してきた。

「あー、悪いね」

 僕は頭をかいた。

「何かいいこと、あったんですね?」

 七海は嬉しそうに僕の顔を見上げる。

 見つめられて、僕はちょっと顔が熱くなった気がした。

「磁石とは理論が違うけど、ヒントにはなったかもね」

 僕たちは手を繋いで駐車場まで走った。



 リラティヴ・マテリアルが絶対世界の力と反発することは以前から判っている。もしその性質を逆にすることが出来れば、道は開けるかもしれない。開けるかもしれないが、それ以前にどうやって性質を変えればいいのかがわからない。

「うーん、うーん......頭痛い」

 また暗礁に乗り上げた。

「考えすぎだよ」

 コーヒーを運んできた真魚が僕の肩を叩いた。家事はまるでダメだが、真魚が入れたコーヒーだけは、なぜかとびきり美味い。

「ハァ......」

 ため息しか出てこない。

「もっと単純に行こうよ」

「単純にって言ったってなぁ」

「じっと見ててもしょうがないでしょ? 叩いてみたら何か変わるかもよ?」

「壊れたテレビじゃないんだから......」

 そういえば、僕が助手になりたての頃、教授はこんなことを話していた。


(君も知っていると思うが、反物質だけで構成される反世界というものがある。実はな、それとは別に、我々の世界とは鏡のように逆の性質を持つ、逆世界というのもあるんだ。例えば、地球の自転は逆、時間の概念も逆。太陽は西から昇るし、早く進もうとすればするほど歩みは遅くなる......まるで童話だ。しかしな、その世界はどこかにちゃんと存在しているのだ)


 確か......時空管理局が僕らを襲ったとき、スペイシオという大男はこう言っていた。『時空の力が逆流している』と。時枝が僕の記憶を奪おうとしたとき、それは起こった。原因は教授が作った義手の仕掛けだと、僕は確信している。

 僕はマテリアルのことだけにこだわりすぎていた。真魚の乱暴なやり方はどうかと思うが、外から力を加えれば何か変化が起きるかもしれない。僕の義手をもっと詳しく調べるべきだったんだ。


 それから5日間、自室に籠もって徹夜した。目の下には隈ができていた。朦朧とした意識の中で、僕はバグだらけのプログラムを書いてしまった。

「あーあ、こんなにミスってる。そもそも根本から間違ってるんじゃないのか? 削除削除」

 僕はデリートキーを押したつもりだった。それなのに、なぜかプログラムが立ち上がっている。ああもう! キーの見分けもできなくなってるし!

「な、なんだこれ!? こんなの書いたつもりは......」

「えー? どうしたのー?」

 真魚はそう言うと、プラグのついた太いコードを僕の右手に差し込んだ。

「うわっ! バカ! 何やってんだ!?」

「だってさっき、プログラム立ち上がったら差してって言ったよ?」

「そうだっけ?」

「んもう、徹夜しすぎてボケちゃった?......あれ? ちょっと何!?」

 真魚は僕の右手を指さした。

 大声を聞いて七海が駆けつけてきた。

「何だ......この手の中にある暗闇は」

 僕は窓の外を見た。今日は天気がいいし部屋も明るい。僕の手には、窓から差し込んだ日光が当たっている。

 現実にはあり得ないことが起きている。光が闇に。光が......闇?

「真魚!! ペンダントよこせ! 七海もだ!」

 僕は右手に二つのペンダントを乗せた。鎖の一部は掌からこぼれているせいかしっかり見えているが、赤と青の石は暗闇に包まれて何も見えない。

 やがてプログラムの暴走は知らないうちに収まり、右手の暗闇も徐々に消えていった。後に残ったのは......。

「あ、あああ、石、白くなっちゃったよ!?」「鎖が白く光って......」

 真魚と七海は同時に言った。



 世紀の大発見はときにとんでもない凡ミスから生まれる、という話を本で読んだことがある。それは偶然ではなく必然だったと言う人もいる。僕の意図せぬプログラムミスと不思議な現象、これは果たして偶然だったのだろうか。

 僕は白くなってしまった二つの石を近づけてみた。二つの石はお互いにゆっくりと引き合い、くっついたかと思うと溶け合うかのように重なり、一つの純白の石になった。

 石の性質を調べてみると、あらゆる観点で以前の二つの石とは完全に反対の結果が出た。僕はこの石を絶対世界と親和する物質としてAbsolute(アブソリュート) Material(マテリアル)、AM-マナミウムと名付けた。

 一方、僕の掌の暗闇に触れていた一部分が蛍光白色に変わってしまったペンダントの鎖......これはどこかで見たことがあった。埋蔵量が世界で1グラムしかないという、あの超希少物質だ。重量にして6.3グラム、これだけあれば充分に時空転移装置を動かすことができる。

 僕らは早速、装置が安置されている自宅マンションの屋上に向かった。

 

 

-4-



 絶対世界から帰ってきたあの日、静止した時空転移装置のハッチを開けると、見覚えがあるマンションの屋上だった。元いた研究室に出現するとばかり思っていたのだが。きっと教授は慌てていて座標設定を間違えたのだろう。もし数メートル右の空中にずれていたらと思うと吐き気がする。

 僕が住むマンションの屋上は、オーナーの方針で原則立ち入り禁止になっているが、それが幸いした。あんな物騒なものを住人に見られたら、通報されるに決まっている。

 屋上には積雪防止用のヒーターが完備されている。帰ってきたあの日も、まっさらな樹脂製の床があるだけで、表面に水滴がぽつぽつとあるだけだった。

「見つかったら、やっぱ追い出されちゃうよねぇ」

 真魚は楽しそうに僕の手先を見ている。

「他人事みたいに言うなよ」

 僕は教授室から漁ってきた『コードクラッシャー2.1』を、屋上出入口のドア横の端末に当てた。外観は昔の電卓にしか見えないが、民間レベルの暗号解読ならこれで充分だ。数秒でロックは外れ、ドアハンドルを引いた。

「え、嘘?」

 七海は両手を頬に当てた。

「埋まってるし......」

 がっくりと床に手を突く真魚。

 ヒーターは一部壊れているようだった。出入口の周りだけ雪は除かれているが、時空転移装置の方は見事なまでに縦横数メートルの雪塊の中だった。

 発掘作業は難航した。ブレインワーク系の僕と七海はすぐにへばってしまった。真魚に励まされ尻を蹴られ雪玉をぶつけられ、ようやく装置のハッチが見えた。やった、発見!......ちょっとだけ遺跡発掘現場の気分を味わった。

 ハッチは開かなかった。装置をここに置き去りにするとき、ロックをかけるか議論になったが、到着したのとほぼ時を同じくして制御システムが死んでしまったので、電子鍵などかけようがなかった。ただし、内側からなら手動で開けられる。

 物理的に錆びついてしまったのではないか、という七海の推測が最もあり得そうな話だった。

 僕らは雪かきで疲れていた。ハッチは後でどうにかこじ開けることにして、休憩がてらに会議をはじめた。

「さて、どうしたものか」

 僕は腕組みした。

「このままだと、こちらの世界からは操作できないんでしたよね?」

 七海は言った。

「ああ。でも、アブソリュート号の暴走直前までのデータはバックアップしてあるから、改造すれば何とかなりそうだ」

「何言ってんの。これをどうやって大学まで運ぶのよ」

 発掘作業の半分を一人で担った筋肉派の真魚は、できあがった雪山の上に大の字になっていた。

「しまった。そこまで考えてなかった......」

「バカー! ヘタレ! この三文学士!」

 真魚の罵声で耳が痛い。ここから大学まではほんの数キロなのだが、これほど重量があってかさばるものを地上71階から運ぶには、大型クレーンかヘリを使うしかない。だが、事を大袈裟にするわけにはいかない。かといって、バラバラに解体して運んで組み立て直したとしたら、完成まで何年かかるかわかったものじゃない。

「まいったな。どうすればいいんだよ......」

「これを使ったらどう?」

 どこかから聞き慣れた女の声がした。

「何か言ったか? 真魚? 七海? どっち?」

「あたしじゃないよ」「何も言ってませんが」

「確かに今どっちかの声が......あーっ!! ま、ままままま......」

 僕は時空転移装置のハッチから出てきた女を指をさしたまま、顎がおかしくなってしまった。

「ゆ、幽霊じゃない、よな?」

「幽霊? 私はグリーンランド理工学研究所から来た磯崎麻波です。はじめまして」

「は、はじめまして?」

「ええ、はじめましてですけど。どこかで会ったこと、ありましたっけ?」

「そ、そんな......そんなことって......」

 彼女は確かに、正真正銘、紛う方なき、磯崎麻波だった。忘れるわけがない。話し方は少々堅苦しいが、声質も表情の作り方も前髪を気にする癖も何もかもが麻波だった。1年間、彼女とほとんどそっくりな人間を二人も見てきたので、僕にとっては違いが歴然だった。

 ただし、彼女の記憶の中には僕が存在していないようだった。

 記憶喪失だ。そうに決まってる。僕は自分に言い聞かせた。

 記憶喪失の人間に過去の出来事を無理に訊くと脳に相当な負担がかかるといわれているが、それでも、どうしても訊きたいことがあった。

「あのときの事故のこと、覚えてるかい?」

「事故?......ごめんなさい。私、ここ数年間の記憶がないの」

 やはりそうか。僕は少しだけ安堵した。

「じゃあ大学に入ってからのことは何も?」

「ええ。高校を卒業した辺りまでは何とか......私、グリーンランドの雪原に倒れてたらしいの。凍死寸前だったところを助けられたみたいで。気が付いたら病院のカプセルの中だった......」

 僕は少しの間、真魚と七海に席を外してもらうことにした。

 二人は黙ったまま寂しそうな顔でドアを開け、屋内に消えた。

 僕は気持ちを抑えられなかった。今までの僕たちのことを麻波に全部話した。

「僕と麻波は、恋人だったんだよ。プロポーズもしたし、その年に結婚することになってたんだ」

「そう......」

 麻波は嬉しそうにも迷惑そうにもせず、しばらく俯いていた。

「麻波?」

「私、結婚してるんだ......おととしの秋に、ね」

 麻波は左の薬指のリングを僕に見せた。

「......」

 全てが終わってしまった。

 一瞬そう思えたが、脳裏に希望めいたイメージが浮かんだ。そうさ、こんなとき映画だったら、何かのショックで記憶を取り戻して、女は先約だった方の男になびくはず。

「私の記憶......もう戻らないんだって」

 麻波の言葉に、僕は耳を疑った。

「え? だって、現代の脳科学をもってすれば......」

「普通は思い出せないだけで、記憶自体は消えないものらしいんだけど、私の場合は原因が特殊すぎて、解明は事実上不可能だって......」

「そんなことない! 望みを捨てなければきっと何か手はあるって!」

「ごめんなさい......たとえ記憶が戻ったとしても、私は夫を愛していくと思う」

 麻波は夫の話をした。彼は麻波を救助した後、記憶の空白を埋められずに苦しんでいた彼女をずっと側で見守っていてくれたようだ。

 こればかりはどうしようもない。運命の綾というやつさ。

 そう口にするのは簡単だ。こういう場合の気持ちを整理するには、いったいどれほどの年月が要るのだろう。

 僕はため息を押し殺し、言った。

「お幸せに」

「ありがとう......」

 しばらくの間、気まずい沈黙があった。

 ここから立ち去るきっかけを探していると、麻波が何か小物を手にしていることに気づいた。

「その小さな箱は?」

「ああ、これ? 時空交換機っていうの。まだまだテスト段階だけど、この程度の質量なら問題ない。この妙な物体をどこかへ飛ばしたいんでしょ?」

 詳しく話を聞くと、原理的には時空転移装置や僕の義手と似ている部分が多いとわかった。今いる場所と、設定した座標の時空間を、無限小の時の間だけ取り替えてしまうというものだ。まさか、ドライシュタイン教授以外にこんな偉業をやってのける人がいたとは......。

「これって一体誰が?」

「私が作ったの......でも、どこからこういうアイデアが出てきたのかは覚えてない」

 あの事故が無関係だったとは思えない。この技術はどう考えても100年以上先か、もしくは絶対世界固有のものだ。

 短い間にいろいろありすぎて頭が混乱していたが、それが少し落ち着いてくると、ふと疑問が湧いた。

「そういえば、なぜグリーンランドの人がここに?」

「えっ? それは......何というか、このへんで時空間の異常があったから、調査に来たのよ。所長の命令でね」

「そっか......」

「じゃあ私、もう時間ないから......はいこれ」

 麻波は時空交換機を僕に手渡した。

「あ、ありがとう。でも、いいのか?」

「所長には、適当にごまかしておくよ。とにかく......がんばってね」

「ああ」

「じゃあ、さよなら」

 麻波は僕の頬に口づけをすると、ドアの向こうに姿を消した。

 そういえば、昔の外国の歌でこんなのがあったっけ。

 No time is a good time for goodbyes.

 あんなに好きだったのに、涙を流す時間さえ与えてもらえなかったな。



 僕は時空交換機の使用法をマスターするため、36階の自宅へ下りた。

 真魚と七海にも装置を見せようとリビングに寄ったが誰もいなかった。ということは僕の部屋か。

「なんだよ、二人して僕のベッド占領して」

 真魚と七海は並んでそこに座っている。表情は暗い。

「これ時空交換機っていうんだけど、二人にも使い方説明したいから......」

「あの人のところへ行っちゃうの?」

 真魚は言った。

「もし麻波さんの記憶が戻ってしまったら私たちは......」

 七海は言った。

「残念だったな」

「?」「?」

 二人は小首を傾げた。

 残念だったな、か。なぜそう口にしてしまったのか、自分でもよくわからない。

「見事にフラれました。記憶は二度と戻らないし、おまけに旦那までいたよ」

 苦笑いでもしてみようかと思ったが、声が出なかった。

「そ、そうなんだ?」

 真魚の口もとがかすかに緩んだ。

「なんと言っていいのか、私......」

 七海はホッとため息をついた。

「僕は......今まで何のためにがんばってきたんだろうな」

 不思議と涙が出てこない。その理由は、本当はわかっている気がした。

「......」「......」

「これからどうすりゃいいんだ。教えてくれよ、真魚、七海」

 素直に言えない自分がもどかしい。

「......」「......」

「何だよ、去年の正月のときみたいに言ってくれないのか?」

「去年の?」「正月?」

 二人は顔を見合わせると、ハッとした顔をした。

「言ってくれないのか?」

 堪えきれなくなった。カーペットの床に暗い色のシミが増えていく。

「和帆には......」

 真魚は言った。

「......私たちがいるわ」

 七海は言った。

 二人は僕の手を取り、抱き寄せた。

 本当はわかってたんだ。

 


-5-



 麻波にもらった時空交換機は見事に機能した。自宅マンション屋上の時空転移装置は跡形もなく消え、真魚と七海が待つ実験室に出現した。座標の誤差は1億分の1%、床への衝撃でガラスの実験器具が幾つか割れた程度、ほぼ完璧だ。


 それから半年間、僕は研究室に籠もりきりで時空転移装置を改造していった。事実上の2号機は、教授らの名前をとって『ゲルシュタイン号』と名付けた。

 教授がいない分、作業がはかどらなかったが、基礎的な部分は真魚と七海にも協力してもらい、どうにか完成の目処がついた。七海はともかく真魚があれほど真剣に勉強してくれるとは思わなかった。その代わり、菓子代が随分かさんでいたような気はするが......。

 


 真夏のある暑い日、ゲルシュタイン号は完成した。最後に僕は、機体の前部に絶対世界と親和する物質、AM-マナミウムの純結晶をはめ込んだ。

「さて、心の準備はいいかい?」

「2時間で5回もトイレに行ってる人がよく言うよ」

 真魚は僕の腹をつついた。

「ま、待ってますから。気がすむまでどうぞ」

 七海は顔を赤らめる。

「だ、大丈夫だって!」

 僕はそそくさとハッチを開け、機体内部に入った。

 真魚と七海は並んで座席につき、シートベルトを締めた。

 動力部はすでに臨界状態になっている。あとは出発のコマンドを入力するだけだ。

『Go to absolute world』

 動力部が唸りをあげ、計器類が全てMAX値を示す。ゲルシュタイン号は元々絶対世界製だから目的地の設定に関しては問題ない。あとは時枝が閉じてしまったであろう、時空間の結界壁を抜けられるかどうかだ。

 誰もこの機体を回収しに来なかった。ということは、全知といわれるシンですら結界を壊す方法を思いつかなかった可能性が高い。でも、それって全知っていうのか? 余計なことを考えるのはそこまでにしておこう。あくまでもそれは、僕らが予想したストーリーの1つにすぎないのだから。


 絶対世界とそれを取り巻く無数の世界、その隙間には『何もない場所』があるという。

 時空の狭間、今、そこにいる。モニターの数値がそう示しているに過ぎないのだが。

 どんな景色か見てみたい。好奇心が疼いた。しかし「直視した場合、重度の精神障害を負ってしまうだろう」と以前教授が言っていたのを思い出し、歯嚙みして控えることにした。教授のことだから、たぶん何かを隠すためのハッタリだろうと思うけど、万が一本当だったら救出どころではなくなる。

『ピー!』

 システムの警戒信号がけたたましく鳴った。やはり時空間は閉じているようだ。どう進めばAM-マナミウムが機能するのか。なにしろ初めての試みだから、結果がどうなるのか全くわからない。

『Go or Return ?』

 人があれこれ考えているのに二者択一を迫るとは、コンピューターのくせに生意気な。僕はコマンドを入力せずに待機することに......。

「あーっ! なんてことを!」

「ん? どうせ行くんでしょ?」

 パリッ! ポテトチップで脂だらけになった手で真魚はすでに『Go』と入力していた。

 こうなったら仕方ない。今できることは、手を合わせる、それだけ。

「うわっ!」

 轟音と共に機体が揺れ出した。

 おそらく結界壁面(面であるかどうかはわからないが)に接触したのだろう。 

 僕はシートベルトの緩みを直すと、コンソールの画面を見た。機体周囲の時空エネルギーがすごい勢いでゼロに近づいている!?

「この断面グラフ......まるで台風の目の中にいるみたいですね」

 ついさっきまで、舌を噛まないようにとしかめっ面だった七海の顔に、いつもの柔らかさが戻っていた。

 激しい揺れはどこかへ行ってしまった。七海の言うとおり、ゲルシュタイン号が存在する位置だけ結界壁にぽっかりと穴が開いている。別のグラフを見ると、機体が通り過ぎた後の亜空間が徐々に閉じていくのがわかる。僕らが調べた通りだった。AM-マナミウムは絶対世界の力と親和する作用がある。油は油で溶かせということか。


 ゲルシュタイン号は時空結界壁を抜けた。

 見覚えのある景色。どこまでも真っ白な空。その下に広がる、草も木も土もないのっぺらぼうな土地。

 ハッチを開けて、僕らは外に出た。

 辺りには誰もいない。僕らがいきなり絶対世界の住人に指差されるということはなかった。人口密度は低そうな世界だが北方の原野というほどではない。このときばかりは本当に運が良かったとしか言いようがない。プログラムを調整して時空管理局の近くには出ないようにしたものの、僕の力量ではそれ以上のことはできなかった。

 サイコロのように完璧な立方体の建物が散見されるが、それにしても人の気配がない。

「ま、まさか、滅びちゃったのかな?」

 真魚は言った。

「そ、そんな......教授やゲルテルさんたちまで......」

 七海は今にも泣きだしそうな顔で僕の手を握る。

「いや、あっちだ」

 僕は右前方を指さした。絶対世界には東西南北という概念がなく、こういう表現しかできない。

「わかるの?」

 真魚は遠くを見る目を細めた。

「なんとなくね。これのせいかも」

 僕は自分の義手を指さした。

 テレパシーは、22世紀末の現代科学においてもまだ充分には解明されていなかった。非科学的とまではいえないが確実でもない、そういうものはあまり信じたくないが、他に理由が見つからない。

 義手が発している微細な波動、それが何かと共鳴している。僕には教授が潜んでいる場所がわかる。


 僕らはしばらく歩いた。太陽がないのに永久白夜ともいえるこの世界では、腕時計だけが頼りだ。僕の頭がおかしくなっていなければ、アナログ表示の長針が2周したと思う。疎らにしか立っていない建物が進路を邪魔することはなかった。道無き道を歩いても清潔な地面が靴を汚すことはなかった。僕らはただひたすら真っ直ぐ歩いた。

「もう、飽きたよー」

 真魚は僕のすぐ後ろを歩いていた。

 僕は立ち止まった。

「もがっ!......」真魚は鼻をぶつけた。「いきなり止まるなっ!」

「あれだ」

 僕は円柱形の建物を指さした。

「病院、ですね」

 七海は言った。

 近づいてみると、職員や患者の気配はなく、すでに放棄されているように思えた。

「トラップがあるかもしれない。二人とも僕の後についてきてくれ」

「や、やめようよぉ」

 真魚は逃げ腰だ。

「なんだ? 怖いのか?」

「そ、そそそんなことはないさ!」

 顔を引きつらせて強がる真魚。

 フフン、そんな弱点があったとはな。

「廃墟の病院か。そういえばこんな実話があったな。ある隔離病棟の女性患者が窓から......」

「うるさいうるさいうるさい! 行くならさっさと行ってよ!」

 真魚は耳をふさいで大騒ぎした。

「わかったわかった」

 僕は笑いをこらえるのに必死だった。


 僕らは周りに誰か隠れていないか目を配りながら、病院のエントランスからロビーに入った。やはり中は誰もいない。入ってすぐ左手にエレベーターを見つけたが電源は落ちていた。

 義手の共鳴が強くなってきた。感じるのは100階より少し上の辺りだ。階段......で行くしかないのか?


「ぜーはーぜーはー......も、もうだめ」

 階段しかなかった。三人とも同じセリフしか出てこない。

 僕らはちょうど50階のところで一度休憩した。大きな窓から下界の景色がよく見える。色のない世界。本当にここの住人たちの主が、他の世界全てを統治しているのだろうか? 目をこらすと遠くの方で人らしき動きがある。やはり滅びたわけではなさそうだ。

 僕に一つの考えが浮かんだ。絶対世界に戻ってきてからここに来るまで、無人の建物しか見かけていない。そしてそのどれもが完璧さを失っていた。ところどころ破損していたのだ。シンはそれを許さず他の土地へ移住させたのかもしれない。何かが矛盾している。完全性を求めるがために廃墟を量産するのだとすれば、シンは断じて神ではない。グラヴィッツという男が言っていた通り、所詮はただの狂ったコンピューターだ。


 正確に30分休んだ。普段は時間に縛られるのが嫌で時計を見ることなんて滅多にないが、ここまで感覚を麻痺させられる世界では、行動を時間で管理しなければやってられない。あと50階とちょっと、二度目の腹時計が鳴るまでには何とかたどり着きたい。味方に出会うまでは食料は貴重品だ。

 64階、見えない壁にぶち当たった。なぜだかわからないがそこから上に行くことができない。仕方なく廊下をしばらく歩いて別の階段を見つけた。

 80階、またしても見えない壁。廊下を行くと、今度は歩いても歩いても先へ進めない通路に出くわした。いや、ほんのわずかに進んではいる。1歩踏み出しても1センチがやっとだ。これでは100m進むのに何時間かかるかわからない。

「戻ろう」

 僕は言った。

「え、でも、あっちは見えない壁が......」

 七海は言った。

「僕に考えがある」

 予感は的中した。見えない壁に義手を当てると、あっさり通れるようになった。あの人の仕業だ。


 96階の手前、階段の踊り場で僕は立ち止まった。嫌な予感がした。

「真魚、アスパラの食い残しがあったよな」

「な、なんで知ってるのよ」

 真魚はたじろいだ。

「サバイバルになるかもしれないから、嫌いでもガマンしろって言ったよな?」

「なによ、こんなところでお説教?」

 そうだった。僕は真魚の背嚢の中にあったアスパラ1本を受け取った。

 それを手前に放り投げる。みるみるうちにしなびていき、散り散りの屑なった。

「うわ、ヤバ......」

 真魚は僕の腕にしがみついた。

「細胞が加速度的に劣化するトラップでしょうか?」

 七海の推測はいい線いっているように思えた。


 95階に降りて廊下を行こうとしたが、すぐにとりやめた。あの人の考えそうなことだ。

「88階にしよう」

 僕は言った。

 教授がこの数字が好きなことを知っているのは僕だけだった。ああ見えても彼は、僕の世界の仏教にちょっとかぶれていて、散歩がてらによくミニ八十八ヶ所巡りをやっていたものだった。

 僕の直感は当たり、トラップに遭遇したのはそこまでだった。それにしても、あれほどえげつない罠をかいくぐれると、あの人は本気で考えたのだろうか。僕はずいぶんと評価されたものだ。


 107階。たぶんここだ。やっと着いた。運動不足の足腰はもう自由が利かない。だが休んでいるヒマはない。

 このドアの向こう、病室の中に彼が隠れて......。

「誰だ!」

「うわっ!」

 心臓が止まるかと思った。

 開けようとしたドアが突然開き、僕ら三人は皆、腰を抜かしてしまった。

 呆然と白髪の老人を見上げる。

「ま、鱒井君かっ!? 真魚君七海君まで。なぜ戻ってきた!?」

「な、なぜって......僕が来ることも計算に入ってたんでしょう?」

「何を言っている。もしやあのトラップ、全部見破ったのか?」

「全部というか、うまく回避したというか。あれ? 僕にだけは判るようにしてくれてたんじゃ......」

「信じられん......そこまでは考えていなかった......」

 ドライシュタイン教授は元気そうだった。70過ぎであの大声が出せるなら心配は無用かもしれない。

 僕らは彼のアジトである病室の中に通された。そこにいたのはゲルテルと、そして......。

「時枝......」

 僕は思わず駆け出し、部屋の中心にある医療カプセルに両手をついた。透きとおった容器の中には、一糸まとわぬ姿で半透明の液体に浸された時枝が眠っている。

「生きていて......くれたのか」

 様々な想いがこみ上げてくる。それが愛情なのか憎悪なのかは区別がつかない。だけど、僕は時枝から目が離せない。あの時、僕らを助けるために命を賭けたのは、僕らを陥れたはずの時枝だった。どうしてあんなことを......。

 ゲルテルは言った。

「今は危険な状態だ。本当なら力を使い果たして死んでしまっていたところだが、一縷の迷いがあったのだろう。そうでなければ、君らはあの完璧に閉じたはずの結界壁をすり抜けることなど、できるはずがない」

 時枝は昏睡状態が続いていた。彼女は脳に重度の酸欠状態が続いたため、たとえ意識が戻っても植物人間かそれに近い状態だろう、ということだった。

 僕は言った。

「あの......教授、ゲルテルさん。話して、くれますよね?」

「まあ、座りなさい」

 教授は言った。



-6-



 僕と真魚と七海が絶対世界を脱出した後、力尽きて倒れた時枝にグラヴィッツが迫った。奴は怒りに我を忘れ、狂気の超重力攻撃で時枝にとどめを刺そうとした。ゲルテルはそこを見逃さなかった。奴の注意が時枝に集中したところを見計らい、ゲルテルは背後から例の謎の銃で奴を気絶させた。

 ゲルテルは時枝を背負い、教授と共に時空管理局を後にした。時枝は衰弱が激しく、手を施さなければ明日をも知れない命だった。ゲルテルと教授はそれから半日歩き回り、ようやく廃墟となっていた病院を見つけた。

 予備の自家発電が一応生きていたが、エレベーターはなぜか107階を示したところで止まってしまった。医療機器は多少劣化していたが、どうにか使えそうだった。時枝の看病は交代で、物資の調達はゲルテル、院内のトラップ配備は教授が担当した。ゲルテル半径は大いに活躍し、数日間でそれなりの医療体制は整った。時枝は命を取り留めた。だが、意識が戻ることはなかった。

 

「とにかくここに長居はできない。あのトラップくらいで足止めできるとは思わないほうがいい。エグザムの連中が集まれば、ひとたまりもない」

 ゲルテルは言った。

「もっと強力な防御方法を考えないとな」

 教授は言った。

「守ってばかりじゃいずれやられます。こっちから仕掛けましょう」

 僕は言った。

「こんな状況で何が......ハッ!?」

 ゲルテルがドアの方を向いた。僕もつられてそっちを向く。

「あと10秒だけ話していいぜ。辞世の句ぐらいは(うた)わせてやるよ」

「グラヴィッツ!!......ス、スペイシオまで!?」

 ゲルテルが叫んだ。

 長髪の男と赤髪の大男が戸口に立っていた。

 直前まで気配がなかった。チートすぎる超人戦士からは、やはり逃げ切れないのか。

「さすがに最後のトラップには欠伸2回ほど手こずったがな。しょせん老いぼれの知恵などそんなものだ」

 スペイシオは言った。

「クッ......無念」

 教授はうなだれた。

「さて、反逆者と危険分子、どっちから始末しようか?」

 グラヴィッツは口元を緩ませ、僕らと時枝を見比べている。

「フン、くだらん時間を過ごしているヒマはない。さっさと()るぞ」

 スペイシオはそう言ったが、楽しみを奪われ不機嫌になったグラヴィッツの小言をねじ伏せるのに少々苦労している。二人がこちらを見たときが最後だ。スペイシオのスピードは常軌を逸している。

 僕は決断した。

「真魚、七海......アレを試すときだ」

 僕は二人に片手ずつ出させ、懐から取り出した純白の石を握らせた。二人は黙って頷き、グラヴィッツとスペイシオの方へ歩み出した。

「な、何の真似だ! 二人とも! やめんか!」

 教授が叫ぶ。

「ほほぅ、囮というわけかい? 二人が殺られる隙に逃げてくれと? 健気だ......ね......な!? バカな! 体が......!?」

 グラヴィッツの体は半分透けていた。

 グラヴィッツとスペイシオは、近づいてくる二人から飛びのいて距離を取った。必死に攻撃を仕掛けようとしたが、まったく効果が出なかった。

「力が......入らぬ」

 2メートルの巨躯が片膝をつく。

「くあっ......い、イレギュラーごときに......」

 グラヴィッツはもうほとんど透けていた。スペイシオも消えかかっている。

「シンがイレギュラーを恐れた本当の理由がそれだ! 完全なる絶対世界の力が不完全なる者に支配されている。これがどういうことがわかるか!」

 僕はスペイシオに向かって言った。

「キサマ......」

 スペイシオは力なく腕を振るうが、真魚と七海には届かない。

「シンは将来、絶対世界の人間を滅ぼしてしまうであろうイレギュラーの能力の覚醒を恐れた。おまえらの仕事は、シンを守護する者らが滅亡する可能性の排除だった。エグザムでさえシンの小道具に過ぎなかったってことさ!」

「そうか......そう、だったのか......フフ、フフフ......才能に溺れ真実を見極められなかったとは、何と愚かな......」スペイシオは消えゆく体で言った。「最後に、いいことを教えてやろう......遠くて近し......見た目に騙され......る......な......」

 スペイシオはグラヴィッツと共に消え去った。

 真魚と七海は僕に向かって駆け戻り、胸にしがみついて泣いた。この作戦を思いついたとき一番怖がっていたのはたぶん僕だったはずなのに......。

 気づくと僕は二人の頭をそっと撫でていた。

「鱒井君......い、今のは......」

 教授は腰を抜かしていた。

「麻波にフラれてからは、朝も夜も死ぬ気で勉強しましたから」

 僕は麻波との再会とその後の話を、かいつまんで教授とゲルテルに話した。

「もう教えることなど、何もないわ」

 教授は力なく笑った。

「そんなことはないでしょう」

「おお、一つあった。女をたらすという最終にして究極の課題が残って......んがっ!」

 真魚と七海の靴が同時に教授の顔に当たった。



「長かった......これでようやく我々の戦いが終わるかもしれない」

 教授はシンとの決戦の準備を進めている僕らとは離れて、時枝の医療カプセルの傍らに座っていた。

「教授は行かないんですか?」

「歳だからね。行っても足手まといになるだけだろう。それに、時枝君の面倒は誰が見るのかね?」

「それは......でも、シンを倒すプログラムは教授の頭の中にしかないのでは?」

「ハッハ、前にも言ったが、実に簡単なのだ」

 教授は僕を手招きし、そっと耳打ちした。

「そ、それだけ?」

「うむ。だが、全世界の中心と言われているコードの入力場所にたどり着くまでが大変だ。絶対世界の歴史上、そこに入れた者は今まで一人もいない」

「防御兵器とかたくさんありそうですね」

「いや、シンは自らの手で人を殺しはしない。ただ、諦めさせるだけだ」

「......」

「選りすぐられた勇者たちが近づくことすら叶わねばそれは伝説となり、誰しもがかつて抱いていた疑問は代を重ねる毎に薄まった血統の彼方に押しやられ、人々は生まれたときから与えられた常識しか知らない」

「僕らにできるでしょうか?」

「わからん。だが、君には絶対世界人にないものを持っているはずだ。エグザムの二人を葬った時の発想といい......」

「ごちゃごちゃ言ってたってしょうがないでしょ? そんなこと現地で考えればいいのよ」

 荷造りを終えた真魚は、教授の頬を思い切りつねった。

「ほれもほうらな」

 僕は言った。

「行こう。世界の中心へ」

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