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リラティヴ・アブソリュート  作者: ヒノミサキ
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第二章 トライアド

第二章 トライアド



-1-



 3月。

 僕は二人を部屋に入れる前に、名前の区別を明確にすることを考えた。面倒なので陰で使っていた名前をそのまま適用することにする。抵抗にあうのは承知の上だ。

「なんで勝手に決めんのよぉ」「中途半端はイヤです......」

「そうだ、漢字にしよう」

 僕は何もない空間を指でなぞった。

『妹:真魚(マナ)、姉:七海(ナミ)

 人の顔くらいある大きな光る文字が虚空に現れた。文字入力に手を使うことはずいぶん廃れてしまったが、こういうパフォーマンスには空間スクリーンは使えると思う。

「なによぉ、この磯臭い名前は」「姉妹というのはちょっと違う気が......」

「便宜的に区別しなきゃならないんだから、仕方ないだろ?」

「あたしは麻......でいいの」「私は......波でいいですよ」

「同時にしゃべらない!」

「だってぇ」「だって......」

「だってじゃない。麻波で通すんなら1号2号で呼ぶことになるけど、いいのか?」

「号だけは勘弁して......」「七海でいいです......」

 かくして、僕と二人のマナミの奇妙な生活が始まった。

 


 僕は大学の近くにある2DK賃貸マンションに住んでいる。70階建ての36階。大学職員は教授クラスを除けば今も昔も薄給だが、人間、環境が大事だ。社会人として標準的な部屋にこだわった。10畳のリビングと6畳の物置代わりの部屋。僕は今まで通りリビングで過ごすつもりでいた。

「こーんな可愛い女の子二人に対して窮屈な思いをさせるわけ?」

 真魚が噛みついてきた。

「居候なんだから贅沢言うなよ。戸籍も仕事もないのに、住めるだけでもマシだと思わないのか?」

「サイテー男。アンタ一生紳士にはなれないよ」

「そりゃ結構。イギリスで暮らすつもりはないからね」

「ムカツクムカツク!」

「あのぅ......」

 気づくと上目遣いの七海の顔が目の前にあった。

「うわっ! いきなり近づくなっ」

「先ほどからずっと呼んでいたんですけど......」

「あ、あそう......それで何か?」

「このまま水掛け論を続けていても解決しませんよ。ここは民主主義的に決めませんか?」

「それだと僕の負けは初めから決まってるじゃないか」

「ですから、私たちがリビングに住むということで」

 強引な理屈を笑顔でさらっと場に流し込んできたな。大人しい人だと思っていたんだが、やはり麻波は麻波ということか。



 女二人相手に口論で勝てるわけもなく、僕は捨て損ねた物でいっぱいの狭苦しい新たな自室の掃除に疲れてふてくされていた。

 開けっ放しのドアの向こうから23時のニュースの音楽が聞こえてきた。部屋の床のあちこちに何か小さなものが見えるが、見なかったことにしよう。

 洗面所でいつものように6秒以内で服を脱ぎ、洗濯物カゴに放り込む。すすぎを開始した洗濯機が横でうなりをあげる。洗濯機という家電がなぜ進化の流れに乗れなかったのかわからないが、大昔からシステムがそれほど変わっていない。

 仕切カーテンの向こうは脱衣所だ。一応麻波のために作ったスペースだが、仲が深まるに連れ存在意義が薄れていった。麻波が消えてしまったなんて今でも信じられない。カーテンを開ければ「どうしたの? 寒いから早く入ろうよ」と僕の手を取る麻波がいて......?

「うーん......あと2キロかなぁ」

 そこにはあられもない姿の麻波......いや、真魚が両手を腰に当てて体重計と睨めっこしていた。

 気配に気づいた真魚が顔を上げ、目が合う。

「バカー! ヘンタイ! 出てけー!」

 真魚はどこを隠していいのかわからず混乱していたが、ようやく背中を向ければいいことに気づいた。

「いつも一緒に入っていたからどうってことはないよ」

 僕は横の壁に向かって言った。

「アンタのカノジョと一緒にするなっ!」

「育った環境が違うとこうも性格が荒くなってくるものなのか......」

 腕組みする僕の頬に硬い物体が直撃した。真魚の足元にあったスプレー缶だ。麻波の身体を見慣れている僕は、どうも重要な感覚が鈍っていたらしい。

 


 二週間後、三人暮らしの生活がようやく落ち着いてきた。

 日曜日の夜、僕は自室で海外学術雑誌向けの投稿論文の仕上げに入っていた。ドライシュタイン教授が休職扱いとなっている今、他の先生方に難点をご指摘いただかなくてはならないのが判っているだけに非常に気が滅入る。当然、こき下ろされる。ドライシュタイン教授の助手というだけの理由で。それでも、内容はともかく投稿論文としての体裁くらいは恥ずかしくないものにしておかなければならない。締め切り日から逆算すると、明日から原稿の見直しを始めなければ間に合わない。

「きゃははー、七海()ェって天然すぎー!」

「そ、そんなことないよぉ」

 籠もった二人の声が壁越しに聞こえる。建築資材の発達で近隣の騒音トラブルは激減したはずだが、一人暮らし向け賃貸のリビングと寝室間の壁については、昔からあまり変わっていないようだ。

「ねぇねぇ、あのタレントって誰かに似てない?」

「そうねぇ、和帆君......とか?」

「あんな奴呼び捨てにすればいいのにー」

 あんな奴とは何だ、あんな奴とは。誰が保護したと思ってるんだ。

「あーっ! 代表負けちゃったよー! 最終戦勝たないとワールドカップ行けなくなっちゃう」

「しかもエースが負傷なんて、厳しいね」

 何を言っているのやら。最後の相手はランキング150位の超格下じゃないか。海外組が一人抜けたくらいで負けるか、ドシロウトめ。

「なんだなんだぁ? あの面で二股かよぉ! 信じらんない!」

「顔だけで判断するのはどうかと思うけど」

「まーったまたぁ。面食いのくせにぃ」

「そりゃあ、好みくらいはあるけど......」

「バ和帆に見慣れるとさー、みんなカッコよく見えちゃうんだよねぇ」

「ちょ、ちょっと、聞こえたらまずいよ」

 ブチッ!......どこかの何かが切れる音が聞こえた気がした。僕はリビングに通じる開きかけのドアを蹴り開けた。

「いい加減にしてくれ!」

「なんでだよー! 近所......になるほど大騒......んかしてないよ」「すみません。つい声が......きくなってしまって......」

 また同時にしゃべっている。高校時代にクラスにいた双子以上に疲れる。

「僕は論文を書かなきゃならないんだ。ちっとも集中できない」

「どーせ、三文研究者のくせに......」

 真魚はポテトチップを頬張りながら、ボタン式の懐古的な端末でテレビのチャンネルを次々と変えだした。

「ま、真魚ちゃんそれを言っては......」

 七海はおそるおそる僕の顔を伺っている。

「勉強も仕事もしないでゴロゴロしてるんじゃない!」

「あっ......」「あ......」

 ようやく自分の立場に気づいたか。戸籍や個人履歴程度なら、ドライシュタイン教授が持っている謎めいた人工知能の力を持ってすれば、この国の甘々なセキュリティーを超えて情報をでっち上げてもらうことは可能だ。

 真魚は4月から高校3年、住む世界が違えばカリキュラムも違うだろう。この世界の教育レベルになじむための対策くらいはやっておくべきだ。七海だって自分の小遣いくらいは自分で稼いでもらいたい。


 二人は次の晩から大人しくなった。僕の正論攻撃が功を奏したに違いない。そう思っていたのだが、なんのことはない。昼間の活動で疲れ、自然と早く寝るようになっただけだった。

 

 

-2-



 4月。真魚は近所の普通高校に3年生として転入、七海はこの下宿から30キロほど北にある北洋工科大学の図書館で司書のバイトを始めた。

 二ヶ月前の事故が嘘であったかのように、平穏な日々が過ぎていく。ドライシュタイン教授からの報告はまだない。

 たとえ別世界の人間といえども麻波と同じ顔を毎日眺めている僕は、思っていたよりも不安がっていないことに気づいた。このままでいいのだろうか? 失恋の傷を時間が解決していくのとは訳が違う。どこへ行ってしまったんだ......麻波。



 5月。北国の春は遅い。と言えば聞こえはいいが、実際は世界気象機構(WWO)が立案した地球気象正常化計画の度重なる失敗によるものだ。南日本あたりでは花見で盛り上がっている時季だが、こっちはそれどころじゃない。ここから一番近い観測所の積雪量は未だに8メートルもある。街全体に張り巡らされた高熱ロードヒーティングがフルタイム稼働していなければ、慢性運動不足の市民たちは休日を全て雪かきに奪われ、腰を痛めてダウンしているところだろう。いや、それ以前にマンションのエントランスを突き破った雪の下敷きで病院送りになっているかもしれない。雪の重さというのは結構ばかにできない。そう何度も南九州理科大の連中に話したのだが、同情を得られたことは一度もなかった。


 祝祭日均等分配法案の可決により影が薄くなってしまったが、かつてゴールデンウィークと呼ばれていた上旬の頃から真魚の欠席が続いていた。急激な環境変化の影響が今頃になって現れてきたのかもしれない。明るくふるまってはいるがまだまだ子供、今まで相当な無理をしてきたのだろう。七海の方は人生経験豊富なせいなのか特に変わった様子は見られず、日々バイトに精を出している。


 僕は大学を休んで真魚の様子をしばらく見守ることにした。無気力人間を部屋に置き去りにすれば、心身共に栄養失調になるだけだ。

「今どき五月病とはね。安定剤は忘れずに飲んでおけよ」

「それでも心配してるつもりなわけ?」

 普段ならここから悪態サブマシンガン攻撃で蜂の巣にされるところなのだが、真魚は精神安定剤のチュアブル錠を飲んだきり布団を被ってしまった。重症かもしれない。手持ち無沙汰になった僕は、溜まっていた英語文献を紙のように薄い端末で読み耽っていた。ちょうど三冊目にかかるところで、布が擦れる音がした。

「そんなに休んじゃっていいの?」

 布団に潜っていた真魚が顔だけ出した。

「ん? ああ、授業を受け持つほど偉い立場じゃないからね。一週間くらいなら問題ないよ」

「そうなんだ......」

「真魚は頭いいんだから、ちょっとくらい勉強が遅れても平気だろ?」

「なんとかね」

「そろそろ薬が効いてきた頃だろう。少し寝たほうがいい」

「あ、あのさ......」

「早く復帰したいんなら、病欠してるときくらい夜更かしは控えるんだな」

「あ、はい......えっと、その......」

「どうした? 何か言いたそうだな」

「なんでもない」

 真魚はそう言ってまた布団の中に潜ってしまった。

 そういえば麻波との間にも似たような場面がしばしばあった。自分から話を持ち出したくせに、結局「ううん、なんでもない」で話が終わってしまう。女という生き物は量子論よりずっと難解だ。

  


 5日後の朝、完全復活した真魚は元気よく登校していった。続いて、僕も出勤しようと玄関で靴をはいたとき、左足に違和感を感じた。靴を脱いでみると、中に紙切れが一枚入っていた。

 

 Thanks a lot!! by Mana(mi)



               *  *  *



 某所の密室。


「本当に貴様一人でやれるのか?」

「見損なってもらっては困ります。これでもエグザムの一員ですから」

「フン、半人前のくせによく言う。なんなら、手を貸してやってもいいんだぞ?」

「あなたの大きすぎる力では、何もしなくてもあの街が壊れてしまいます。シンは余計な干渉を望んではいません」

「チッ。リミットは半年だ。それ以上は待てん」

「わかっています」



-3-



 6月。平均気温が一気に20℃も上がり、辺りの雪は一掃された。50年前、世界各地のダムが決壊して大騒ぎになったと聞くが、世界気象機構(WWO)の失敗に端を発した高度に政治的な責任問題は未だに解決されていない。過去のことはいいとして、問題はこの雨だ。空梅雨の理想郷の名を欲しいままにしてきたこの地の名声も今では影も形もなかった。

 


 僕はドライシュタイン教授の依頼で、北洋工科大学、つまり七海がバイトしている図書館に通うことになった。

 自宅近所のバッテリースタンドに車を止め、ふと灰白の空を見つめる。ここ数日ワイパーを途中で止めた記憶がない。ソーラーパワーはアテにならず、充電代がかさんでいくばかりだ。生温い月曜日の小雨は不快指数を何倍にも跳ね上げる効果があると思う。

 もし麻波が生きていたらこう言うだろう。

(やってられないよね。サボろっか?)

 ......生きていたら? 何を考えてるんだ、僕は。生きてるに決まってるじゃないか。

『6850円頂戴いたします』

 機械的な女性の声で僕の沈思は中断された。カーナビのパネルに触れて口座の残高を確認したが10円足りなかった。

「ハァ......」

 仕方ないので別の口座で払おうと携帯端末のスリープを解除した。背景画像のおどけた麻波と目が合う。

「ほんと、麻波なしじゃやってられないよ」

 


 図書館は閑散としていた。今どき、紙の資料を漁りにここにやってくる学生などまずいない。ネットには世界中の国会図書館を1つにしたようなVR(仮想現実)の巨大図書館があり、それで事足りるというわけだ。

「あれ? 和帆君? 大学の方はお休みですか?」

 百科事典の背表紙のような地味な色合いの服。完璧な保護色で景色に染まっている。七海だ。最近目が悪くなったといって眼鏡をかけている。コンタクトレンズもだいぶ進化して安全になったはずなのだが、そんな時代でも目薬さえ怖くてさせないヘタレは結構いるのだった。

「ここにしかない資料があってね。教授の仕事には欠かせないんだ。まったく、いい加減電子化すればいいのに。コピー禁止だし、持ち出し禁止だし、先が思いやられるよ」

「でも、本の匂いってなんか好きだな......」

「インク臭いだけだよ。七海は変わってるなぁ」

「そうでしょうか?」

 七海が微笑む。

 僕は一瞬胸が苦しくなった。なんだこれは? 記憶の彼方に置き去りにされてきた、ある感覚。

 そのとき、正午を伝えるクラシック音楽が流れた。僕は七海の案内で学食へ向かった。


「ここの学食、結構イケるんですよ」

 僕らの中でまともに食事を作ることができるのは七海だけだ。しかも結構イケる。そんな彼女が言うことだから間違いないだろう。

 こうして七海を見ていると、静と動を兼ね備えた麻波の静の部分が強く出ているように思える。麻波はもともと行動派でときには無茶もするが、人前では何かとわきまえており落ち着いた一面も見せていた。家事の方も電気の消し忘れ以外は文句のつけようがなかった。

 僕は苦笑いした。

「なんだか麻波の二つの顔を極端にして、君ら二人に振り分けたみたいな感じがしているよ。育った環境によってこうも性格が違ってくるとはね」

 僕の笑いはたぶん今月の天気のように湿っていたのだろう。

 七海は眉を八の字にして僕の顔をのぞき込んだ。

「つらくは......ないですか?」

「そりゃあつらいさ。でも麻波はどこか他の世界でもっとつらい目に遭ってるかもしれない。だから僕は麻波が帰ってきたときに包んであげられるだけの男になっていなきゃならない。今は自分にできることをやるだけだよ」

「強いんですね」

「それはきっと、僕が今、孤独じゃないからだよ」

「和帆君......」



-4-



 7月。早めに梅雨が明けるのはいいが、この気温が9月末まで続くと思うと積極的に引きこもりたくなってくる。33℃......一日の平均気温でこれだ。世界気象機構(WWO)の連中め、北日本を新たな熱帯雨林地域として地勢図に加えるつもりか? エアコンがなければ今頃は蒸し殺されてるところだ。

 夏に入り、真魚と七海は遠くからでも区別できるようになった。先日ばっさりショートにし栗色に染めた真魚、美しい長髪がいっそう目立ってきた七海。今日は珍しく二人が生息しているリビングに招待された。

「ねぇねぇ、花火行こうよ。はーなーびー」

 そんな古いものを一体どこから調達してきたのか『YOSAKOI 2145』と筆記体で書かれた団扇を僕に見せる真魚。

「暑苦しい人混みの中で1時間も立っている気はない。クラスメイトと行ってくればいいじゃないか」

「ちぇっ、ゴロゴロしてるとすぐにビールっ腹になっちゃうんだからね!」

 真魚はあぐらをかいて座り込み、ふてくされている。

「あ、あの......ではプールへ行きませんか? 今日は花火大会の影響で夕方あたりから空いてくると思いますよ」

 お次は七海か。涼しげなお誘いだが、本当にそれだけは勘弁してもらいたい。

「ごめん、実はカナヅチなんだ」

「大丈夫ですよ。競泳用じゃなくて浅瀬をシミュレートした万人向けですから」

「いやその、顔さえ水につけられないんだよね......」

「うう、そんな......」

「軟弱者!」

 すっかりしょげてしまった七海、風船のように膨れっ面の真魚。

 爽やかに晴れわたった休日の午後が無駄に過ぎていく。最悪の空気だった。

「わかったよ、もう。花火とプールは却下だけど『アークティック・ブリーズ』でディナー、それなら納得か?」

「マジ!?」「ホントですか!?」

 このときの二人の目の輝きといったらない。少女マンガのヒロインそのものだ。身内が喜ぶ顔を見るのは悪くない気分なのだが、携帯端末の画面にうつった口座の残高を見て僕は後悔した。今月の昼食は給料日まで菓子パン1個だけになりそうだ。



 僕はドアを閉めきった自室で出かける準備をしていた。二人は急かすが、こっちにもいろいろと事情があるのだ。10分くらい待てないものか。というか、普通は女の子の方が待たせるものだと思うんだが。

「お化粧でもしてるんですかー?」

 ドア越しに籠もった七海の声が聞こえる。

「そんなわけないだろう。もう少しだから」

「はいっちゃうぞー!」

 突然ドアが開き、真魚が入ってきた。

「わ! バカ! 見るな!」

 僕は慌てて背中を向ける。

「え!?......和帆......その手......」

 口が半開きのまま固まる真魚。

「どうしたんですか? ハッ!......」

 両手で口を押さえる七海。

「見つかってしまったか......しょうがないな。でも、今まで気づかなかったろ?」

 僕は光沢のある金属がむき出しになった両手を二人に見せた。僕の手首から先は作り物......精巧な義手で出来ている。普段はコーティング素材のおかげで、見た目上もそうだが、ちょっと触ったくらいでは誰にも気づかれない。

 こんなグロテスクな姿を見られて、避けられるのが怖かった。思った通り、二人とも僕から視線をそらしている。

「せっかくの雰囲気を壊して悪かったな。駐車場で待っててくれないか」

 二人は無言のままうなずき、部屋を出て行った。


 

 郊外へ向けてどこまでも真っ直ぐ続く高速道路。遙か向こうに336階建ての高級ホテル『アークティック・ブリーズ』が微かに見える。僕はオートパイロットのスイッチを押してシートに身を深く沈めた。

 ルームミラーには、終始黙ったまま下を向く二人がうつっている。

 僕は話を切り出した。

「この両手はね、ドライシュタイン教授に作ってもらったんだ」

 二人が同時に顔を上げる。やはり話しておくべきか。

 


 あれは、大学2年の春だった。科学計算のプログラミング実習があったときのことだ。それまでの僕の義手は生活には困らなかったが、キータイプのような複雑で素早い動きはかなり苦手だった。僕を除いた全員が教室を出た後になっても作業は半分も終わっていなかった。そんなときは決まって過去の忌まわしい記憶が脳裏を渦巻き、集中力を欠いた。当時担当講師だったドライシュタイン教授は、毎回全ての作業が終わるまで僕と一緒に居残ってくれていたが、ついに見かねたようで、言葉をかけてきた。

「鱒井君......ちょっと手を見せてもらえるか」

 僕の義手は最新型とはいえないまでも、それなりの性能はあった。だが、ここ数年徐々に調子が悪くなってきていた。

「むう、この義手は君には合っていない。このままでは神経細胞がダメになってしまう。ちょっと教授室まで一緒に来なさい」

 僕はそれから毎日教授の所へ通った。教授は膨大な量の神経細胞一つ一つを丹念に調べ、新しい義手ができあがっていった。

 一ヶ月後、僕は市販では最も難易度の高いタイピングソフトを使い最終動作テストをやった。結果は正確性99.8%、速度は一般上級レベルだった。僕は驚きを隠せなかった。これなら生身の手と何ら変わりがない。かえって良くなった気さえする。でも、たかが一学生のために、貴重な研究予算の一部を割くなんて僕には信じられなかった。

 そんなある日、僕は教授に尋ねた。

「教授は何故ここまで僕のために?」

「ん? そうだな......私はやるべきことを最後まで放り出さずにやり遂げる人間が好きなのかもしれない」

「でも、毎回あんなにみんなから遅れてしまっては......」

「速さなど問題ではない。学生のうちは特にな。最後まで正確にやることが大事なんだ。ほら、この学生のプログラムなんかバグだらけで使い物にならん」

「アハハハ」

 僕はその日から、毎日のように研究室に顔を出し教授の助手を進んで務めるようになった。そしてそれは今でも続いている。



「そう......だったんですか......」

「あー、その、いきなりだったからびっくりしちゃってさ......」

 話を聞き終えた七海と真魚は釈然としない顔色を見せつつも、いつも通りの感じでふるまった。

 僕は肝心な話をしていない。手を失った原因だ。

 いつもなら質問攻めにしてくる二人が黙ったまま。僕はこんな二人とならこの先も上手くやっていける気がした。



 小高い丘の上にある最終インターチェンジを抜け、眼下に夕暮れの日本海が広がる。海岸沿いに立ち並ぶビル群の中でも一際目立つ超高層ホテル『アークティック・ブリーズ』は、氷河や氷柱をモチーフにした涼しげな造りで、新興港湾都市のシンボル的存在となっていた。

 僕らはホテルの正面玄関前で車を降り、高速エレベーターで最上階のスカイラウンジへ向かった。

「すごいや! こっちに来て正解だったかも!」

「わぁ! 花火を見下ろせるなんてなかなかできない体験ですね!」

 会場からは少し距離があったが、それでも地上1400メートルから下界の光る花々を眺めていると、天上人にでもなったような気分だ。お熱いカップルたちの冷ややかな視線などまるで気にすることもなく、幼稚園児のように無邪気にはしゃぐ真魚と七海。僕の懐は寂しくなってしまったが、そんなことはどうでもよくなってきた。


 食事を終えデザートを堪能しているとき、ふと腕時計の画面を見た。ドライシュタイン教授からの音声メッセージが入っている。

 僕は誰にも聞かれないよう、肘をつくフリをして、さりげなく耳のそばの骨に腕時計を当てた。

『......鱒井君、時間がないから手短に伝える。何も聞かず、教授室に一人で来てくれ。そこで受け取って欲しいものがある。真魚君と七海君の命に関わることだ。私は今、ある者に追われている。いずれ捕まるだろう。君も無関係ではないから気をつけ......ピー!』

 メッセージは45分前、ちょうどメインディッシュにとりかかっていた頃か。なんて迂闊なんだ! 録音時間は目一杯使われてはいなかった。自分で切ったかあるいは『ある者』に切られたか。いずれにせよここでのんびりしている場合ではない。

 僕は席から立ち上がり、テーブルに背を向けた。

「ひょっと、ろこ行くの?」

 真魚はメロンの切れ端を口にくわえながら言った。

「教授に呼び出されちゃってさ」

「ええーっ、せっかくみんなでまったりしてたのにー」

「真魚ちゃん、和帆君は少ない休日を私たちのために使ってくれたの。充分楽しんだし、これ以上の我がままはやめておきましょう」

 腰を浮かせていた真魚を七海が制する。

「う......ん......わかったよ」

「悪いね。たぶん徹夜になると思うから、先に寝てていいよ」

 僕は真魚の頭にそっと手を置いた。



-5-



 大学の正門、警備のアンドロイドがいる詰所でIDチェックを済ませたときには、既に午後10時を過ぎていた。構内は所々灯りが点っている。大学院生たちが居残りで精力的に実験を行っているのだろう。僕は早速ドライシュタインの教授室に足を運んだ。

 部屋に人の気配はなく真っ暗闇だ。電気を点けた。荒らされた形跡はない。ということは、教授は陽動を兼ねて別の場所から電話をかけてきたのかもしれない。

 僕は教授のパソコンを起動、小さなカメラを見つめて虹彩認証し、24桁のパスワードを打ち込んだ。不肖ながら教授の右腕である僕は、プライベート領域以外は全てのアクセス権を持っている。

「あれ?」

 だが、今回はいきなり全てのプロテクトが外れ、自動的に教授のビデオメッセージが流れ始めた。僕のアクセスを予期してプログラムしておいたに違いない。

『鱒井君、話をする前に一言だけ言っておく。君はこれから私が何を言っても正気を保つことを約束して欲しい』

 僕は生唾を飲み込んだ。

『私は今、絶対世界の時空管理局に追われている。君がこのメッセージを見る頃には私は拉致され、絶対世界の監獄にいることだろう』

 僕は小首を傾げた。

『絶対世界とは何か? 以前にも講義したと思うが、世界は一つではない。我々の世界、真魚君の世界、七海君の世界......世界は無数に存在する。それらはどれも等価の力を持っていて、よほどのことがなければ干渉し合うことはない。だが、たった一つだけ特別な世界が存在する』

「特別な?」

『古典化学の原子モデルを想像して欲しい。我々の無数の世界を電子とすると、原子核にあたるものが絶対世界。全ての世界を統べる一つの世界が実在するということを覚えておくのだ』

「絶対世界だって?」

 僕は両手で頭を抱えた。

 確かに世界を構成している要素は、原子と電子、衛星と惑星、惑星と恒星、恒星と銀河系中心部などは、フラクタル構造(部分が全体と相似となるような図形)を取っていると言えるだろう。一つの主と周りの従者たち。それが宇宙全体にも適用されるということなのだろうか?

『我々が作った時空転移装置の事故で、真魚君と七海君をこちらの世界に引き込み、麻波君を行方不明にさせてしまった。真魚君と七海君は我々の世界において、二人それぞれの世界の流れのまま不完全な存在『イレギュラー』として過ごしている。全ての世界を統べる絶対世界の主シンは不完全を嫌う。故に私はイレギュラーを生みだした罪を時空管理局に問われておるというわけだ。

 だが、私のことなど取るに足らん。彼らの本当の目的は不完全なるイレギュラーの消去なのだ。殺す殺さないというのではない、消去だ。時空管理局は人の存在そのものを無に返してしまう恐ろしい技術を持っている。残念ながら一度生まれてしまったイレギュラーを元の世界に戻すことは誰にもできん。つまり、消してしまうしかないということだ』

 これで僕に正気を保てというのか? と言いたいところだが、麻波が目の前で消えてしまった事実を考えると、常識とはいったい何なのか再考せざるをえない。職業柄、エネルギー保存則がどうのという疑問が湧いたが、今そんなことはどうでもいい。

『それだけは何としても阻止したい。私のせいで麻波君だけでなく、真魚君や七海君まで君から奪うわけには......む!? もうここを嗅ぎつけたか』


 ビデオはそこで終わっていた。教授が慌てて携帯端末をつかもうとする場面で動画が停止している。

 教授のせいじゃない。注意を怠って起動ボタンを押したのは麻波だ。いやそれよりも僕の説明不足だ。教授が責任を感じる事はないのに。

「そういえば......」

 教授は僕に何かを託そうとしていた。研究室に来るようになってから4年、勝手はわかっている。彼が何かを隠すとすればあそこしかない。

 僕が予定外の時間に研究室に入ろうとすると、教授はよく旧時代のUSBメモリをさっとしまうのだった。鍵がかかる一番上の引き出しに。データの内容はわかっている。20世紀ものの如何わしい動画だった。帰ったフリをして、物陰にこっそり隠れて見たことがある。

 不用心、というわけではない。教授のことだから、もちろんそのスペースだけは普通の素材ではない。フランスの怪盗が来ようがミサイルが撃ち込まれようが、絶対に本人にしか開けられないそうだが......。

「あ、開いた......」

 わざとなのか不注意なのかは知らないが、肝心のロックがかかっていなかった。

 妖しげなタイトルがサインペンで書かれた色とりどりのUSBメモリの海を漁る。なんなんだこの数は。埒があかないのでいったん全部外に出す。

 妄想資源ゴミを選り分けていくと、氷のキューブのような色形のケースに入った、赤と青、涙の形をした二つの石を見つけた。

「ペンダント......とは言えないか」

 アクセサリーはよくわからない。鎖がついてないのでそうは呼ばないのだろう。

 それともう一つ、くしゃくしゃになった紙切れも見つけた。


『絶対世界と反発する力を持った物質を発見した。我々はそれをリラティヴ・マテリアル——RMと名付ける。赤い方をRM-ドライシュタニウム、青い方をRM-ゲルテリウムとする。これらは二つで一つ、同じ世界に存在してこそ威力を発揮する』

 

 ドライシュタニウム......か。教授が僕に託そうとしたのはおそらくこのリラティヴ・マテリアルというやつなのだろう。真魚と七海の命に関わると言っていた。教授の話を素直に解釈すれば、この二つの石を二人に持たせればいいということか。教授は夢みたいなことばかり言っている子供のような人だと思っていたが、もしかしたらとてつもなく重要な地位にいる人なのかもしれない。

 僕は二つの石をカバンに入れ急いで家に帰ろうとした。

 そのとき......。

 何もなかった空間の一部が突然長方形に切り取られ、見慣れた顔が映し出された。

「きょ、教授!?」

『おお、鱒井君、無事だったか。全てを理解しろとは言わんが、今は私を信じてほしい。二つの石は受け取ってくれたな?』

「はい......それより、今どこにいるんですか!」

『時空管理局のトイレ。永久独房にぶち込まれる前の、最後の晩餐ならぬ晩便というわけだ』

 普段はくだらないジョークに仕方なくつきあう僕でも、さすがに今は笑えなかった。

「この通信はいったいどういう仕組みで......」

『細かいことは後にしよう。私のことは心配いらない。絶対世界は原則的に極刑は存在しないのでね』

「はぁ」

『それに奴らは、私だけが知っている親友の居所をつかむまでは......おっと時間がない。二つの石は真魚君と七海君に持たせるのだ。肌身離さずな。もし管理局の奴らが襲ってきたら、君は体のどこを犠牲にしてでも自分の頭だけは護るんだ。全てを失いたくなければな。それと、二人には時機が来るまでは絶対に話さないでもらいたい。では、また』

「あっ! ちょっと! 教授!?」

 教授の姿は消え、いつもの雑然とした研究室の風景に戻った。

 真魚と七海はイレギュラーと呼ばれる不完全な存在で、教授は絶対世界という別世界の連中に捕まった。それだけは解った。それ以上のことは理解に苦しむばかりだ。いやいや、今は考えこんでいる場合じゃない。

 僕は二つの石をカバンから出してファスナー付きの胸ポケットにしまい直し、急いで大学を出た。すでに夜が明けようとしていた。

 

 

               *  *  *



 某所の密室。


「ゲルテルはどこだっ!」

「さぁね。シンなら知っているだろう?」

「クッ......奴の遮蔽術は神業に近いのだ」

「ハッハ」

「何がおかしい」

「ゲルテルごとき人の業が、神に限りなく近いというシンの知力を凌駕するのかね? こりゃおかしい」

「シンは個々の人間には干渉しないのだ」

「個々なくして全体はあり得んよ。ゲルテル君のような傑物が百人もいればこの世界はひっくり返せるのだぞ? シンはただの置物なのかね?」

「だまれジジイ! おいっ、自白剤を用意しろっ」

「無駄だよ。私が向こうに渡る前、すでにゲルテル君が私の体に対抗処置を施してくれているからね」

「チッ! 永久独房に放り込んでおけ! そのうち吐かせてやるからな!」

「楽しみにしているよ」



-6-



 8月。今月は火星で時空学シンポジウムがある。僕はドライシュタイン教授の代理で出席することになっていた。助教授クラスならまだわかる話だが、授業すら受け持っていない一助手なんかを差し向けるとは......我が大学のお歴々はこの最新分野を軽視しすぎているんじゃないのか?

 自室で外出の準備をしていると、真魚が近寄ってきた。赤い石のペンダントが胸元で輝いている。

「えへへへ〜」

「なんだよ」

「あたしたちも連れてって」

「何をバカなことを。遊びで行くんじゃないんだぞ?」

「だってぇ、緊張しすぎて失神したら誰が和帆の介助をするわけ?」

 真魚め、極力考えないようにしていたことを......。

 僕の体は初期のロボットのようにぎこちない動きになった。

「そ、そこまで、ひ、ひ、ひどくはならないさささ......」

「想像しただけで極限状態になってますね。やはり一人にはしておけません」

 洗濯を終えた七海も部屋に入ってきた。青の石のペンダントがよく似合っている。

「出席者以外には旅費は出ないんだぞ?」

「ふーん、じゃあ一人っきりで練習すればぁ? 学生の前でさえ講義したことないのに、いきなり大御所たちの前じゃねぇ」

 真魚は意地悪そうに目を細めた。

「教授の名前にこれ以上傷がつかなければいいのですが。ああでも、旅費は出ないんですよねぇ......」

 遠い目をした七海が続ける。

「ハァ......僕の負けだ」

「やったー!」「やりましたね!」



 シンポジウムの方は無難にこなした。僕ごときの地位では誰も耳を傾けないだろうが、その方がかえっていい。ボロは出さなかったと思う。真魚と七海は火星に着いてから開催直前まで終始くだらない話や冗談を絶やさず、僕をリラックスさせてくれた。二人がいなければ今ごろ、病院の処置室で恥をかいていただろう。


「さて、帰ろうか」

 僕が宇宙港へ向かおうとすると両腕が後ろに引っ張られ、転びそうになった。

「な、なんだよ?」

 二人は満面に笑みを浮かべて山の方を指さした。太陽系最大の山マース・オリンポス山のことだろう。火星ではベタすぎるほど定番の観光スポットだ。

「じょ、冗談言うなよ。これ以上の出費は......」

「あれぇ、発表原稿の致命的な欠点を指摘したのって七海姉ェだよね〜」

 真魚がわざとらしく僕の肩にもたれかかる。

「ある程度国語ができる人なら誰でも気づくと思ったのですが......」

 上目遣いで過去をえぐる七海。うう、今はそんな目で見ないでくれ。

「わかった。わかりましたよ。山でも温泉でもどこへでも連れてけよ」

 親指を突き出し合う真魚と七海。

 今月に入ってからは2戦2敗だ。なんとかしなければ、家賃すら危うい。

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