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夜の終わり


 今度は地面に落とされることはなかった。

 カザリン、アドルフ、マティアスの三姉弟、そしてアルと縄で縛られた蛇顔の呪法士は、気がつくと大きな平らな岩の上にいた。

 まるで劇の舞台のような白い岩は、緩やかな斜面にしっかりと根付いてびくともしない。

うっすらと空が白じんでいる。夜明けだ。

「……ここ、どこだ?」

「スンドラーの近くだな。ほら、あそこに町と城が見えるだろ。葡萄畑に囲まれてるやつ。あれがスンドラーだ」

 アルが指差した麓の方を見ると、確かに大きな石造りの城と、その周りに広がる茅葺に煉瓦造りの建物、そして町の規模に不釣合いなほど大きな倉が連なる町があった。

 スンドラーは葡萄酒の一大産地だ。聖教会総本山が供物に用いるほどの高級品を造っている。ゆえに町の外は葡萄畑が延々と広がり、内には倉が建ち並ぶのだ。

 ベリソルズとは違う家の造り。ベリソルズとは違う、黒味の強い土。

「…レアンゴーに、来たんだ…」

 我知らず呟くと、アルはそっけなく頷いた。

 手にはいつも荷棒として使っている棍を持ち、蛇顔の背中にどかりと座っている。

 呪法らしい呪法を目の当たりにしたのは、あの彫像の部屋が初めてだった。とてつもなかった。あれはどんなに大変なことなのだろうか。

 しかしアルは、顔に多少疲労の色があるが、何事もなかったかのように平然としている。

(……本当に、こいつに会えてよかった)

 柄にもなくそんなことを思ってアルを見ていると、アルが「何だ?」と聞いてきた。

 礼を言わなければと思って口を開いたのに、肺の空気が口から出る頃には別の言葉に摩り替わっていた。

「……そいつ、起きない?」

「当分は大丈夫だ。呪法で眠らせてある」

 呪法士は気絶していたが、これも呪法だったらしい。ますますとんでもない。

 ふいに大勢の人間が動く気配が、すぐ近くでした。アドルフは咄嗟に弟を後ろに庇い、身構える。だがアルは微動だにしない。今までなら即座に反応していたのに。

 ざっざっと足音高く藪の向こうから現れたのは、紫の軍服に鈍い鉄の軽鎧だけを身につけた兵士の一隊だった。ざっと三十人ほどが、手に手に長い槍を持っている。その軍服に見覚えがあった。

(レアンゴーの軍?!)

 なぜこんな夜も明けきらぬ時間に、こんな辺鄙な場所に、こんなに大勢のレアンゴー国の軍の兵士がいるのだ。わけがわからず、三姉弟の顔から血の気が引く。

 パンパン、と手を叩く音がした。ざっと兵士達が左右に分かれ、道ができる。

 その道を、兵と同じく紫色の、ゆったりとした袖と長い裾が特徴的なレアンゴー貴族の外套をまとった細身の男が歩いてきた。顔も細く頬がこけているが、重い一重瞼の下の黒い目は強い光を放っている。

 男が兵士を引き連れながら石舞台のすぐ前までやってくると、あろうことか、アルが蛇顔の上から腰を上げて石舞台から飛び降り、膝をついて拝礼した。三姉弟はそれを信じられないものを見る目で見る。

 紫の服の男は、驚いたように声をかけた。

「アルベール・ハイン。お主からの伝言を受けて子ども達を迎えに来てみれば、お主までいようとは。ベリソルズに残ったのではなかったのか?」

「はっ。フィッシャー様、暗い洞窟より這い出てまず一番にご尊顔を拝見し、至極光栄にございます。うっかりこの子ども達と共に遺跡に入れられてしまい、死に物狂いで脱出してまいりました」

「そうだったのか。重ね重ねご苦労であったな。よう帰ってきた」

「ありがたいお言葉、勿体なく存じます」

 フィッシャーといえばこのスンドラーの領主一族の性だ。建国の頃に、既に葡萄酒作りが盛んだったこの地の守護を任された、初代国王の末息子の子孫である。年齢や態度からみて、この男が領主であることは間違いない。

「よいよい。して、その子らが例の証人か?」

 鷹揚に手を振って笑い、フィッシャーと呼ばれた貴族の男は三姉弟に目をやった。

 なぜだかわからない。だがフィッシャーの視線を受けた瞬間、アドルフの背筋を氷の手が撫ぜた。カザリンとマティアスも同様で、二人とも身体を小さく縮める。

「そうです。彼らが今回協力してくれた、イエナ三姉弟です」

「うむ。その縛られている男は?」

「敵の手の者です。無謀にも私に呪法で挑んできましたので、眠らせて連れて来ました。ご訊問なさいますか」

「当然だ。証拠があるにせよ、仔細はこやつから聞き出す必要がある」

 フィッシャーがまた手を叩いた。兵士が四人、こちらへ近付いてきて、素早く蛇顔を担ぎ上げて人垣の向こうへ消えていく。

「しかしアルベール・ハインよ、本当に証拠を掴んだんだな?」

「ええ、ものすっごい苦労しましたよ。上積みしてもらわなきゃ割に合いません」

「本物であれば、喜んで更なる報酬を出そう。そうだな、金貨を三十枚でどうだ?」

「さすがはフィッシャー様。ありがたき幸せに存じます」

「このくらい当然だ。だがまずは証拠が本物か、確かめなければならん」

「…どういうことだ?」

 思わずアドルフは口を挟んだ。フィッシャーにではない。アルに訊きたかった。

 協力、敵の手の者、訊問、証拠、報酬、本物。何の話をしているのだろう。

 アルはなりゆきで自分達が巻き込んでしまって、ここまで来た。そのはずだ。なぜこんなわけのわからない話を、よりによって貴族なんかとしているのだ。

 無表情のアルよりも先に、領主であるフィッシャー家当主が答えた。

「我が領土、ひいては大陸の中で最も古く最も神聖なるレアンゴー国に侵犯しようと考えている輩がベリソルズにおって、その正体もほぼわかっていたのだが、証拠がどうして掴めなくてな。ゆえに在野の呪法士として名高いアルベール・ハインに依頼したのだ。奴らの企みを告発するため、証拠を掴んでくれと」

「こちらが、その証拠にございます」

 アルが懐から何かを取り出し、うやうやしく差し出した。三姉弟があっと息を呑む。

 それはカザリンがホーエン家の当主から掏り取った、あの小さな真鍮の文書筒だった。知り合いが開けてエルギン達の罪を証明してくれるというから、預けたものだ。

(つまり、この貴族がアルの知り合い…?)

 だが何かが釈然としない。胸の中に凝るものがある。なぜかはわからないが、嫌な方向に進んでいる気がしてならない。頭の奥で警鐘ががんがん鳴っている。

 フィッシャーは革紐のついた文書筒を摘み上げ、しげしげと眺めた。

「こんなに小さなものとは…」

「それには先程の呪法士にしか開けられない封印が施してあります。本来なら私が何とかしようと思っておりましたが、ちょうどよいですので、その男にやらすのがよろしいかと」

「中は見ておらぬのか」

「下手に開けると二度と見られなくなる、そういう仕掛けが施してありましたので」

「…おいアル! どういうことだ!」

 堪えきれずにアドルフは石舞台を飛び降り、襟首を掴んだ。

 だがアルはぞんざいにアドルフを突き放すと、冷たく言い放った。

「言っただろ? スンドラーに知り合いがいるってことと、その中身を確認して然るべきところへ提出し、間違いなくあの貴族どもの罪は証明してやる、って」

 訊きたいのはそんなことではない。アドルフは半ば叫んでいた。

「お前はホーエン家のメイドの女に夜這いをかけにきて、それで俺達と出会ったんじゃないのか?!」

「ほう、そんなことをしておったのか」

 面白がるフィッシャーに、アルは肩を竦めた。

「貴族の屋敷に忍び込むのに、一番手っ取り早い手段ですので。屋敷の手薄なところは、屋敷の者が最もよく知っているものです。女はこの顔で甘い言葉を囁けば、すぐに騙されてくれるので、俺にとっては最も確実でやり慣れた手です」

「そんな…ひどい…」

「言っとくが、俺を脅して巻き込んだのはそっちだ。俺が屋敷にいた本当の理由が証拠探しのためだからって、裏切られたなんて思う資格が、お前らにあるのか?」

 青ざめたカザリンが呟くと、アルは即座に冷徹に切り返した。ざっくりと心を切り裂かれた。

 反論は、できない。彼の言葉は正しい。

 だがアドルフの体の中で、感情が煮えくり返ってのたうち回る。

 なぜアルはこんな男にへこへこしているのだ。意味がわからない。エルギン達や遺跡の主にだって全く物怖じしなかったアルが、金を積まれた程度で貴族にへつらうのか。

(お前はその程度の男だったのか?!)

 アルの態度はアドルフにとって、最上級の侮辱だった。殺気を込めてアルを睨みつけるが、アルは腕を組んだまま全く表情を動かさない。お前の憤りなど塵より軽いとでも言いたげに。溶岩のような熱く冥い怒りが腹の底から沸き起こった。

 パンパン、とみたび誰かが手を叩いた。

 ひゅっと仄白いものが一斉に空気を切った。

 兵士達が長槍の穂先を、アルと三姉弟に突きつけた。針山のような数の槍の穂先が、四方八方から四人の喉元にぴたりと狙いを定めている。

 いつの間に移動したのか、フィッシャーは兵士の人垣の後ろにいた。虫でも見るような目でこちらを睥睨している。

「さて、お前達は用済みだ。消えてもらおう」

「なっ…?!」

「動くなよ、在野の呪法士。呪法の最大の欠点は、発動までに詠唱時間が必要なことだ。お前の詠唱が完成するよりも、我が配下の刃が子どもの喉に食い込む方が早いな。まあ、彼らがどうなってもいいというなら、別だが」

「……そりゃ困った」

 アルが降参だと示すように、両手を挙げた。満足げにフィッシャーが満足げに頷く。

 次々と変わっていく展開に、アドルフは必死についていこうとした。用済みとは、どういうことだ。

「血筋を誇ることしか能のない、おつむの弱いゲートリッヒ・ホーエンがその文書筒を失くしたと聞いたときには本当に肝が冷えた。この中には、ホーエンとエルギンと、私の署名入りの血判書が入っているのだよ」

「お前の…署名…?!」

「レアンゴーは世界最強の軍を持つ。だが国王は専守防衛しか頭にない、鶏のような臆病者だ。ならば初代国王の血を引く私が王座に立ち、この大陸を手に入れよう。そう決意したのはいつのことだったか…」

 遠い目をしたフィッシャーが、夢を見るような口調で回想する。

「だが王座を手に入れるためには、力が必要だ。そこで思いついたのだ。遺跡の主を利用すればよい、と。あの遺跡には強大な力を持つ精霊が眠っているのは、古くからの伝承でわかっていた。差し出す供物もわかっていた。しかし供物の呪法士がいない。そこで」

「俺に目をつけたってわけね」

 フィッシャーの言葉を、アルが遮った。フィッシャーがいっそ優しげに微笑む。

 先程までのへりくだった態度ではなく、常通りのふてぶてしい言葉遣いでアルが腰に手を当てて片足立ちになった。無数の穂先が命を狙っているというのに、そんなことは全く意に介せず、平然としているように見える。

 その仕草になぜかほっとしてしまい、アドルフは違うだろと自分を叱り飛ばした。

「そうだ。お前に偽の依頼をし、エルギンとホーエンに探りを入れさせたところで二人に自主的にお前を捕らえさせようとしたが、お前はさすがに手ごわかったな。あの二人はお前に探られていることすら気付きもしなかった。馬鹿を使ってやるのも大変だ」

 嘆息したフィッシャーに、アドルフはようやく、エルギンもホーエンもこの男に利用されていただけなのだと気付いた。

 二人は自分が主役だと思い込んでいただけの、操り人形だったのだ。

 全ての黒幕は、この男なのだ。

「どうしたものかと頭を悩ませていたとき、お前がホーエン家に入り込んで、煙のように屋敷どころか町から消え失せ、しかも同時にエルギンの息子とその姉兄も行方不明だと聞き、私は歓喜に震えたよ。生贄の呪法士と乙女が、自ら遺跡に近付いてきてくれるのだからな。私は早速、在野の呪法士の情報をエルギンに流し、ヘンジに網を張った。…お前達姉弟に、あいつらの密談を聞かせてやっておいて、本当によかった」

「……なんだと…?」

 怒りで赤くなっていたアドルフは、ざっと血の気が下がる音を聞いた。

 道を教えてくれた下男仲間を思い出す。働き者だが物静かな、普通の男だった。そいつが本当は、こいつの手下だった?

「彼は私の腹心なのだ」

 蛇顔が、フィッシャーの後ろでにやりと笑っていた。拘束を解かれ、呪法の眠りから覚めた蛇顔は、腕をさすっている。

 傍らにもう一人、黒い頭巾つきの外套で顔を隠した大柄な女と、ひょろりとした男がいる。彼らも呪法士らしいが、どうやら蛇顔の下についている者のようだ。

 アルは蛇顔を見て片眉を上げたが、それだけだった。

「色々と大変な作業を、うまくやってのけてくれた。特にあのエルギンを臨機応変にうまく操縦してくれた。本当によくやってくれたな。礼を言う」

「ダルフォント様、そんな、礼などと……わたくしは、あなた様のためならば何でも成し遂げる覚悟でございましたし、現にそうしてきました。しかしながら魔物を手にすること叶わず…死して詫びねばならぬ程の失態でございます。どうぞいかようにも御処分を」

「いや、お前は遺跡から帰ってくることができたのだ。だからまた挑むことができる。この生贄となる男と娘を連れてな。それで問題ない」

「なんとおやさしい……ダルフォント様、ありがたき幸せにございます……」

 蛇顔が今にも昇天しそうな顔で頭を下げた。それほどまでに傾倒し、力を尽くすほどの男なのかこれは。

 アドルフにはどうもそうは思えなかった。

 確かに頭は切れるのだろう。だが本当に優れた男なら、文書筒を取り上げた時点で即座にアルと三姉弟の命を取るのではないか。アドルフならそうする。

 盛大な盛大なため息が、感動の空気を押し流した。

「わざわざ俺を探し出してまで会いに来た時点で面倒くせーことになりそうな予感はしてたが、そこまで阿呆なことを考えてたとはな。さすがの俺も呆れるぜ」

「何とでも言え。これを手に入れた今、証拠はもう何一つない。お前達を消しさえすればな。―――やれ」

 蛇顔が地面に手をついた。何やら手元に白い粉で模様が描かれている。よく見ると、石舞台を取り囲むように紋陣が描かれていることに、アドルフはようやく気付いた。

 勝ち誇った表情でこちらを見た蛇顔が詠唱を始めようとしたまさにそのとき、飄々とした声が機先を制した。

「俺、実は嘘ついたんだよなー」

「……何だと?」

フィッシャーと蛇顔が怪訝に眉を顰める。アルはにやりと笑った。

「色々胡散臭いなーって感じしてたから、保険、かけさせてもらったんだ。俺の身の保障のためにな。まさかこの俺が本当に、そんな筒くらい開けられないと思ったかい?」

 現にアルは三姉弟にもそう言ったし、実際今の今まで開けたところは見ていない。そもそも文書筒を取り出したことすらない。

 カザリンが文書筒を渡したのは遺跡に入る直前だし、遺跡に入ってからはずっと共に行動していたから、三姉弟にはそれがわかる。

 だがフィッシャーと蛇顔はそんなことを知らない。みるみるうちに青ざめていく。

「………おい、まさか…」

「その筒、もうとっくに開けちゃって、中身抜いてあるんだ。そんで俺を殺しちゃうと、永遠に見つからないようにしちゃった」

「そんな馬鹿な! それは俺の力にしか応じない!」

「おやおや、俺を誰だと思ってるんだ? 世界最強のレアンゴーの軍と諜報部隊から逃げ続けてる武人にして呪法士、アルベール・ハインだぜ?」

「…確かめろ!」

 フィッシャーの色をなくした命令に、蛇顔が慌てて文書筒を手にぶつぶつと何事か唱え始めた。

 真鍮にはめ込まれた石が光を放ち、次いで模様に沿って光が広がっていく。

 光が収まるとフィッシャーが筒を取り上げ、もどかしそうに小さな蓋を開けた。中に入っていた、丸めた羊皮紙をぞんざいに引っ張り出す。

「……………なっ…!」

「おお、ようやく開いた。助かったよ」

 アルが朗らかに言って、口笛をヒュっと吹いた。

 その瞬間、文書筒についていた革紐が長く伸びた。革紐はひとりでに、蛇顔とフィッシャーの首にあっという間に巻きつく。

「ぐっ…、うぐ…!」

「ぐはっ…!」

 ひとりでに動く革紐に締め上げられて苦しむ蛇顔とフィッシャーに気を取られ、兵士達が構える槍の穂先が下がった。

 それをアルが見逃すはずがなかった。さっと身を屈めて地に両手をついて怒号する。

地よ(テッレ)、|我が敵の精気を吸い尽くせ(エンネミヴィグエウルレスピレル)!」

 兵士達は何もすることのできないほどの素早い動きだった。

 声に応じるように大地が光を放つ。屈強な男達が揃いも揃って白目を剥き、昏倒してどさりと地面に崩れ落ちた。

 再びアルが口笛を吹く。革紐は既に倒れている蛇顔とフィッシャーの首から離れ、フィッシャーの手から羊皮紙を奪ってふよふよと漂い、アルの手の中にぽとりとそれを落とした。

「…確かに三人の血判書だな。裏切ると呪法で死に至る仕組みか。よくやる」

 馬鹿にしきったようにアルが呟いた。

 そのとき、ぱちぱちぱちと拍手が木陰から起こった。身構えながら素早く振り向いたアルの目が据わる。

「見事の手並みだった。さすがはアルベール・ハインだな」

 一人の男が微笑みを浮かべて立っていた。




 三姉弟は混乱したまま、その男をぼうっと眺めた。

 アルと同じく、男性としては小柄な男だ。アルより少しばかり背は高いようだが、どんぐりの背比べというところか。歳は五十前後とみえる。

 しかしその体格に見合わぬ迫力というか、こちらを圧倒するような空気を纏っている。

 身なりは質素だが、その素材は光沢を放って美しく、一目で高級品とわかる。一つだけ身につけた大振りの真鍮の指輪が、いつの間にか昇っていた朝日に鈍く輝いた。

 男を睨みつけながら、アルが氷点下の声で問う。

「………なんであんたがここにいる」

 しかし男は呆れたように笑うだけだ。

「相変わらず粗野な男だな。この私にそんな口をきくのはお前くらいだ。しかし、さすが我が目我が耳から十年間逃げ回っている男だな。最後のはったりは特に見事だったぞ」

「質問に答えろ」

「まあそう急くな、アルベール」

「余裕で笑ってんじゃねぇよ! なんであんたがここにいるかって聞いてんだ、ユーグリッド!」

「ははは、七世も陛下もつけずに名前だけを呼ばれたのは久方ぶりだな」

 敵と駆け引きしているときとはまた違う、苛立ちを露にしたアルとにこやかな男のやりとりをただ聞いていた三姉弟も、さすがにその名に息を呑んだ。

 ユーグリッド七世。それは、まさか。

 畏れおののくアドルフの口から、我知らず確かめる言葉が零れ落ちる。

「レアンゴーの、国王陛下…?!」

「いかにも。私がレアンゴー王国第百二十五代国王、ユーグリッド七世だ」

「………しっ、失礼いたしました!」

 反射的にアドルフは正座して頭を下げた。勢い余って地面と額が激突する。

 さすが姉弟、姉と弟も同じことをしたらしく、石舞台からゴツンと痛そうな音が二つとマティアスの「いたっ」という涙声が聞こえてきた。

 世界の盟主であるレアンゴー王国国王、ユーグリッド七世は鷹揚に笑った。

「よいよい。苦しゅうない、面を上げよ。今日はお忍びなのでな、かしこまられると寂しいのだよ」

 寂しい、という単語に背中を押され、三姉弟はおずおずと顔を上げる。三人を安心させるようににっこりと笑いかけて、ユーグリッド七世は憮然と腕を組むアルに言った。

「アルベール、これが正しい反応だぞ。少しはこの子ども達を見習わんか」

「んなこたどーでもいい。あんた、いつからそこにいやがった」

「お前の使いを受け取ってすぐに首都を出た」

「…つまり最初っから高みの見物してやがったんだな! 見てたんだったらさっさと助けろ! ちょっと死ぬとこだったぞ!」

「お前が死んだら子ども達は助けてやろうと思っていたさ」

「うっわー、相変わらず嫌な男だな。人格者だと信じている国民がかわいそうだ」

「お前も相変わらず無礼極まりないが、今日はお前の手柄によって許してやろう」

「へーへー、どーもありがとーございますー」

 耳の穴に小指を突っ込み、視線をあさっての方へやりながらアルが礼を言ったが、どう見ても感謝している態度ではない。

(な、何がどうなって…?)

 遺跡を出てから次々に襲い掛かる急展開に継ぐ急展開に、アドルフは完全に混乱していた。

スンドラーの領主だけでも衝撃だったのに、更に大陸の盟主レアンゴー国王が出てきて、しかも世界で一番偉いといっても過言ではないその人に対してアルは不敬極まりない態度を取る。全くついていけない。

 口も目も開けるだけ開いて唖然としていると、ふいにアルがこちらを見て盛大に吹き出した。

「おい、どんだけ呆けてんだ。顔ひどいぞ」

「…だっ、なっ、そっ…!」

 こんがらがってうまく言葉が出ないアドルフに、アルが腹を抱えて笑う。

 こんなに笑い転げているアルを見たのは初めてだ。いつも険しい顔か呆れた表情で、こんな自然な笑顔は見たとがない。

 どうしてだろうと思わず考え、その答えはすぐに閃いた。

(…笑う余裕もなかったのか)

 今更ながら、とんでもなく彼が気を張り詰めていたことを思い知る。

 口でどんなことを言っていても、アルは常に全力で三姉弟を守ってくれた。出会った場所にいた理由がどんなことであろうと、その事実は揺ぎ無い。

 先程裏切ったと思ってしまった自分が恥ずかしくなった。

(いやでもあれはたぶん、あのフィッシャーって領主に協力してて、しかもなんか変にへりくだっちゃってるから、なんか無性に腹が立っただけで……)

 心の中でごちゃごちゃと言い訳を重ねていると、ユーグリッド七世が微笑んだ。

「ようやくお前が二十三歳に見えたよ」

「……うるさい」

 ぴたりと笑いを収めて、アルがまたふてくされたような仏頂面になった。そしてふいに斜面の下に顔を向けた。遅れて国王、続いて三姉弟が同じように下を見る。

 倒れている兵士と同じような服装をした男達が、整然と列をなして山道を登ってくる。紫の服に鉄の鎧は同じだが、こちらは完全鎧だ。しかも胸に刻印された紋章が違う。

 大地の女神エオルザを模したレアンゴー王国の国章が、くっきりと刻み込まれている。

 先頭を歩いていた精悍な男が号令をかけて行進を止め、兜を脱いで片膝をつき、頭を垂れる。ざっと百人ほどいる後ろの兵士達も、先頭の男に倣った。

「ユーグリッド陛下! ご連絡を受け、逆賊を捕らえに参りました!」

「ご苦労。この辺りに転がっているのが反逆を企てた罪人、ダルフォント・D・フィッシャーとその配下だ。精気を全て抜き取られて昏倒しているから、しばらくは目覚めぬはずだが、慎重に運んでくれ」

「はっ、かしこまりました!」

 深く礼をし、部隊長らしい男が後ろの兵卒達に大声で指示を出し、あっという間にフィッシャー一味を運び出した。作業が終ると部隊長が再び膝をついて報告し、ユーグリッド七世はまた「ご苦労」と彼らを帰した。

 いくら気絶しているとはいえ、敵の男達がごろごろ転がっている中を動けなかったカザリンとマティアスが、ようやく石舞台から降りてきた。

 腕を組んで目を閉じ、軍が消えるのを待っていたアルに、カザリンが遠慮がちに尋ねる。

「あの…アルさんは、本当はどうしてあのとき、あの場所にいたんですか?」

「…さっき言った通りだ。ただし、依頼主がそこのおっさんだってことは訂正が必要だが」

「おっさんか。初めて言われたな。せめておじさまにならんか」

「黙れ」

 面白そうに口を挟む国王を切り捨て、アルは嘆息して説明する。

「このふざけたおっさんが、フィッシャーがベリソルズの貴族と結託してよからぬ事を企んでるのを掴んだ。が、フィッシャーは万が一に備え、自分の身の回りに一切証拠となりそうなものを置いてなかった」

「あれでも初代国王の血を引く、建国時から続く貴族なのでな。罪を告発するためには、確実な証拠が必要となる。だが私の立場からして、他国の貴族を私の手の者に探らせるのは大変まずい。ゆえに在野の呪法士に協力を依頼したというわけだ」

「協力ね、よく言うよ。断れば始末するっつったくせに」

 右手を腰に当ててアルはじと目で五十がらみの国王を睨んだ。言葉に驚いて三姉弟も思わず国王を見やる。

 ユーグリッド七世は深い紫の双眸を細めた。すっと空気が冷える。

「恩赦と特別手形で手打ちをした者の言い草かな」

「そのために俺はマジで命がけだったんすけどねー。ほんと死にかけたんすけどねー」

「君以外なら間違いなくどこかで野垂れ死ぬことになっただろうな」

 軽い口調で国王は続けた。

「私の呪法の師にして先代の国軍呪法士部隊の総司令、アンリ・ハインを育ての親とし、我が軍を退役した精鋭達と山野に鍛え上げられ、我が目我が耳から十三のときから逃げ続ける在野の呪法士、アルベール・ハイン。君でなければな」

 何度目になるかわからないが、三姉弟はまたもやぽかんとしてアルを振り仰いだ。

 レアンゴー国が最強の軍を保持していることは、フィッシャーが言っていた。普通に考えて、その軍の呪法士も最高の者達が集っているに違いない。その先代総司令は、呪法士としても名高い現国王の師。

しかもその呪法士部隊の先代総司令の友人ともなれば、軍を退役する前にそれなりの地位であったことは容易に想像がつく。

アルが育ての親に引き取られたことも聞いていたが、まさかそんな環境で育ったとは。

 マティアスがきらきらした瞳で感嘆の声を上げた。

「アルお兄ちゃん、ほんとにすごかったんだねー! すごーい! すごーい!」

「お前、わかって言ってんのか?」

「ほう、アルお兄ちゃんか。なかなかいい響きじゃないか。かわいい弟分ができて良かったな。この際、君も育ての親になって定住生活を始めてみてはどうかな?」

「まだ二十三で三人の子持ちとか、絶対ごめんだ。女にもてなくなる」

「その顔なら子持ちでも大丈夫だろう。事情を話せば更に惚れる女も出るぞ?」

「結構だ。俺はまだまだ自由に遊びたい」

 呆れたようにマティアスに返すアルに、国王が茶々を入れる。アドルフはため息をついた。

(…そりゃとんでもなく強いわけだ)

 むしろその環境で強くならない方が不思議である。もちろんアルにも素質はあったのだろうが。

 アルが国王と丁々発止のやりとりをしながら、例の文書筒を手で弄っていた。アドルフは思いついて質問する。

「そういえば、いつの間に革紐にあんな仕掛けしてたんだ?」

「お前らが精霊に会ってるときさ。あの呪法士、あんな悪役顔なのに大したことなくてな。お前らが精霊をどうにかするまで暇だったんで、先のこと考えてやっといた」

「ほう。なぜ筒ではなく革紐に?」

「筒は呪法避けしてあったからできなかったんだよ。下手に突くより、他に仕掛けた方が手っ取り早いし確実だ」

「なるほどな。…では、まずその証拠を渡してもらおう」

 国王がすっと態度を改めた。威厳に満ちた光を放つ双眸が、他の者を圧倒する。自然と三姉弟の背筋が伸びる。

 アルだけはだるだると、嫌そうにフィッシャー達の血判状を片手で差し出した。

 ユーグリッド七世はそれを受け取り、文面を確かめて一つ頷いた。

「確かに受け取った。これはベリソルズの国王にも通告し、件のエルギンとホーエンという貴族が罪を問われるよう、私からも働きかけよう」

 後半は三姉弟に向かって、国王が深みのある声で告げた。

「あー、エルギンのやつは遺跡に入ってたな、そういや。さ迷ってると思うが」

「そうなのか。自業自得だな。とにかく通告は間違いなく行うし、君達は証人として我が国が責任を持って保護する」

「……えっ? あの、私たち、不法入国にあたるんじゃ…」

「こんな素晴らしいものを手に入れてくれた者の罪を問うほど、私は愚かではない」

 ひらひらと文書を泳がせ、ユーグリッド七世は鷹揚に笑った。

 カザリンの瞳からぽろりと涙が零れ落ちる。アドルフは唇を噛み締め、マティアスの頭に手を置いて一緒に腰を深く折った。

「ありがとうございます…!」

「ご恩は一生忘れません!」

「よいよい。こちらこそ礼を言わねばならんほどだからな」

「そんな…」

「おーい、俺のこと忘れんな」

 感動に溺れる三姉弟とユーグリッド七世とのやり取りを、半眼のアルがぞんざいに遮った。国王は片眉を上げる。

「おいおい、邪魔をするな。折角素直に私を尊敬してくれる子ども達に感動していたのに」

「あんたがそれくらいで心動かすタマか。それよか、約束のものはちゃんと用意してあるんだろうな」

「当然だ。―――あれを」

 若干引っかかる言葉があったが、突然現れた黒い影に驚いてそんなものは意識の外に放り出された。

 黒ずくめの身体に沿う服を身に纏い、頭巾と口布で顔を隠しているその影は、明らかに女性であった。小柄だが胸と腰の曲線が美しく、足の線もきれいだ。だがその身体に不似合いなほど、大きな刀を腰に佩いている。

 彼女は懐から取り出したものを、うやうやしく国王陛下に掲げた。

 だがユーグリッド七世が受け取ろうとした瞬間、アルがさっと横から掠め取った。女性が素早く剣の柄に手をかけたが、ユーグリッド七世が手振りでそれを制した。女性は黙礼し、さっと木陰に紛れる。

「もう少し行儀良くできんのか」

「野育ちなもんでね」

 国王がたしなめたが全く意に介さず、アルは奪った書状にざっと目を通してにやりと笑った。

「恩赦状に特別手形。確かに受け取ったぜ」

 先程までフィッシャー達の血判状が入っていた真鍮の文書筒に書状を丸めて押し込み、ぶつぶつとアルが口の中で何事か唱えると、埋め込まれた石が光ってそこから筒全体が光り、やがてふっと掻き消えた。

 国王が残念そうに首を振る。

「惜しいな。そのまま懐に入れただけなら、後で回収できるようにしてあったのに」

「そんなこったろーと思った。あんたのしそうなことはお見通しだ」

「やれやれ、ますます惜しい人材だな。いくら今回のことが背に腹はかえられない事態だったとしても、恩赦などするのではなかった。今からでも遅くはない。国軍に入らんか? 総司令はさすがに無理だが、隊長くらいにはしてやるぞ?」

「死んでも嫌だね」

「ねぇ、それなぁに?」

 吐き真似をするアルの裾を引き、マティアスが尋ねる。しかしアルよりも先に、ユーグリッド七世が説明した。

「今までの徴兵逃れと不法出国、その他諸々の罪をなかったことにして、これからはどの国でもレアンゴー王国の名において身元を保証し、行き来の許可を求める通行手形だよ。ちなみに今の女性が我が目我が耳の一人だ。今も陰から私の護衛をしてくれている」

 カザリンとアドルフは顔を見合わせた。

 アルは罪人でなくなったし、これからも自由に旅をするだけなら、罪人にはなりえない。それをなしたのが、カザリンが掏ったあの文書筒だったのだ。

 あのときカザリンは考えて行動したわけではなかったし、あれがどんな意味を持つかなど全く知らなかった。だがあれは三姉弟の運命を変えただけでなく、アルの罪を消すことのできる唯一のものだったのだ。

 なんという偶然。―――いや、これはもはや必然だったのではないか?

「では私が君と交わした血判状は、破棄してくれるな?」

ユーグリッド七世が威厳のある態度で問いかけた。マティアスが首を傾げる。

「けっぱんじょう? さっきのじゃなくて?」

「あれはフィッシャー、エルギン、ホーエンのものだ。私とアルベールと交わしたものがあるんだよ。私の依頼を間違いなくやり遂げたとき、恩赦状と特別手形を発行すると宣誓した血判状が。あれが世に出ると、ベリソルズとの関係が悪化する。それは困るのでな」

 道理である。だが、アルは余裕の笑みでそれを受けた。

「それは嫌だね。破棄して、忘れた頃にぐさっとやられて、闇に葬られたくないからな」

「ほう、私がそんなことをすると思っているのか?」

「思っているから言ってるんだ。あんたは俺が放浪してるときにうっかり他国に捕まっちまうかもしれないと、いつも疑って監視してるだろ。俺は有能な武人で呪法士だ。そんな奴を他国に渡すくらいなら、その前にあんたは俺を殺すな。あんたはレアンゴーのためなら暗殺だろうが何だろうが平気でする人間だ」

 すっとユーグリッド七世が目を細めた。

 この国王は眼差し一つで場を支配し、空気を変える力を持っている。朗らかな明るい空気、おふざけの楽しい空気、そして冷徹な王としての空気。

 今は彼から滲み出すのは、人臣の上に立つ、王の空気。

「レアンゴー国が世界の背骨であることを私は身を以って知っている。私が、我が国が揺らげば、世界はたちまち無秩序な大戦争状態に陥るだろう。レアンゴーは絶対安泰でなければならぬ。そのために払う犠牲は、世界のためにも必要なものだ」

 戦の絶えぬサントゥラール大陸において、古来より不侵犯不進攻を掲げる中立国、レアンゴー。この国の価値は、世界の行方を左右するほどに、重い。

 それを支える国王は、優しいだけでは務まらない。

「…まあ、破棄してやらなくもないぜ。この血判状」

 くるりとアルが手のひらを返すと、いつの間にかまた新しい羊皮紙がひらひらしている。国王と交わした血判状らしい。

 ユーグリッド七世が口元だけでうすく笑った。

「…何が望みだ?」

「そうだな、俺のことを監視するのをやめて、そんで、この三姉弟が望むような里親を責任持って探して、ちゃんとやってるか時々俺に便りを持たせてくれるなら、破棄してやってもいいぜ?」

 アルが何を言ったのか、アドルフは一瞬理解できなかった。カザリンとマティアスも目を丸くしてアルを眺めている。

 レアンゴー国王は目尻を下げた。心からの笑みだった。

「…なんとも君らしいことだな。いや、君の育ての親に似たのか?」

「知らねぇよ。で、答えは」

「是だ。我が国の恩人でもあるこの三人の面倒を、きちんと見てくれる里親を探そう」

「ちゃんと三人の希望通りの奴を探せよ」

「当然だ。私は百二十五人の王の中で最も民の声に耳を傾けている、庶民派の王だぞ」

「さいですか」

 投げやりに返すアルに、マティアスが飛びついた。

「アルお兄ちゃん! ありがとう! ありがとう!」

「うわっ、鼻水! ちょっ、こらマティアス、離れろ!」

「うわーん!」

「ああもう泣くなー!」

 ぐちゃぐちゃの顔でアルの腰辺りにしがみつき、マティアスは決して離れようとはしなかった。だが泣いているのは、マティアスだけではなかった。

 言葉にならない感情が、カザリンの目から雫として零れ落ちた。アドルフはその肩を抱きながら、自分も涙ぐんでいた。

(………カッコよすぎだろ、おい)

 男としては小柄な体格。土色の冴えないぼさぼさの髪。日に焼けた肌。目鼻立ちが独特に整った造作。その中で一際目を引く、光の加減で黒とも緑とも見える色の双眸。

 この男に会えてよかった。

 偶然でも必然でも、あの日あの時、弟を連れて逃げる覚悟を姉と決めて、行動して本当によかった。

 大泣きに泣くマティアスをあやしながらふとこちらに視線をやったアルは、やはり泣いている二人に顔を顰め、憮然として言い放った。

「泣くな。別に俺がお前らと鉢合わせたのはたまたまだ。感謝も謝罪も贖罪もされる覚えはねぇよ」

 照れ隠しなのか本音なのか、アドルフには見分けがつかないほどそっけない台詞だった。だがそれでも自分達を本当に思いやってくれているのは、感じた。

なんと答えていいかわからず、アドルフはただ頷いた。だが涙を止めることはできなかった。




「ほんとに、もういっちゃうの?」

 太陽の色が赤から白に変わり、空に輝く頃、アルは雪狼の背の上にいた。この方が早いという理由で、また指笛で、今度は群れではなく一匹だけ呼んだのだ。

 また涙ぐんで問いかけるマティアスに、ぶっきらぼうに答える。

「ベリソルズをまだ味わいつくしてねぇのに、レアンゴーに戻ってきちまったんだ。またあっちに行って、しばらくのんびりするさ」

「行っても大丈夫なんですか?」

「俺を誰だと思ってるんだ?」

 カザリンが心配そうに見つめるが、アルはにやりと返す。マティアスが喜んで答える。

「ざいやのじゅほうし、アルベール・ハイン!」

「そうそう。忘れんなよ」

「ぜったいわすれないよ! わすれるわけないもん!」

 マティアスがむくれると、アルはからりと笑った。わかっていて言ったのだ。

「そのうち手紙でもくれ。返せるかはわかんねぇけどな」

「もちろんです。すぐに書きます」

「いや、別に季節の便りくらいでいい」

「こんなかわいらしいお嬢さんからの手紙をたまにでいいとは、贅沢なことを言うな」

「筆不精なもんで」

 ユーグリッド七世のからかいをさらりとかわすアルに、カザリンが僅かに肩を落としたのをアドルフは見逃さなかった。思わず口笛を吹く。

 男を見る目があるのかないのかは、微妙なところか。捕まえきれる男ではないから。

 アドルフは言葉に迷ったが、最後なので思い切って素直に気持ちを声にした。

「…色々、助かった。礼を言う」

「こちらこそ」

 アルはすまして答えた。最後まで余裕ぶった男だ。

それが様になるのが癪に障る。

「じゃあな」

「またねー!」

「おう」

 短い挨拶を残し、風のように駆けていく雪狼に乗ったアルはすぐに森の中に見えなくなってしまった。旅慣れた彼らしい、さらりとした別れ際だった。

「さて、下に馬車を待たせてある。行こうか」

「はーい!」

 無邪気にはしゃぐマティアスが、先を歩き始めたユーグリッド七世の後を嬉々としてついていく。世界の盟主に庶民の息子がこの懐き具合。いいのだろうか。

 若干心配になったが、アドルフはまあいいかと苦笑した。空に輝く太陽を見上げ、手をかざす。

 空は快晴。夏らしい水色に澄んでいて、雲ひとつない。

(…母さん、見ててよ。俺たち、自由になったよ。新しい人生を始めるよ)

 心の中で語りかけ、アドルフは山を下るために一歩踏み出した。








* * *




拝啓 在野の呪法士 アルベール・ハイン様


 アルさん、お久しぶりです。お元気ですか。カザリン・イエナです。

 元気か聞いておきながら、病気をしているあなたは想像がつきません。きっと元気に旅を続けているでしょう。

 レアンゴーはもうすっかり秋です。山に囲まれたレアンゴーはベリソルズより朝晩が冷えるので、お腹を出して眠っていたアドルフが風邪を引いてしまいました。あの子はしっかりしているくせに、なぜかこういうときはうっかりしているんです。

 アルには絶対言うなよ、と言っていましたが、書いてしまいました。男の面子がどうのと言っています。おもしろいですね。

 里親になってくださった首都レアンの小麦商人の夫婦は、相変わらずとてもやさしいです。商人としても立派な方なので、いつかあの方たちの後を継げるように、今一生懸命いろいろなことを学んでいます。

 私は帳簿をつけたり、裏方の方が向いているので、少しずつ勉強しています。アドルフはお店を仕切ることに興味があるみたいです。マティアスはもうお店の看板息子になっています。常連さんにも初めての方にも、とてもかわいがられています。

 ご夫婦は時には厳しいこともおっしゃいますが、私たちのためだってわかるから、それもうれしいです。

 なんだか怒られるたびに、アルさんを思い出します。アルさんもやさしいから、心配して怒ってくださったんですよね。だったらうれしいな。

 レアンゴーは十五歳未満の子どもは全員学校に通えるので、私たちは毎日学校に通っています。今まで独学だったので大変なこともありますが、とても充実しています。

 マティアスは毎日友達と泥だらけになって遊んでいます。アドルフもときどきやんちゃなことをして、驚かせてくれます。私もお友達とおしゃべりしたり、お裁縫をしたりするのがとても楽しいです。


 正直、この生活がときどき信じられないことがあります。

 だって私たちはベリソルズの生まれで、貴族につかえて生活していて、それがずっと続くと思っていたのに、今レアンゴーでこうして自由に暮らしているのですから。

 あのとき、あなたに出会えなければ、今の私たちはいません。

 アルさんにとっては私たちとの旅はとても大変だったと思います。巻き込んでしまって、申し訳なかったです。でも、アルさんでなければこんな結末には絶対になりませんでした。それだけはまちがいなく言えます。

 今新しい生活に慣れてきたからこそ、あなたと出会えてほんとうによかったと、心から思います。

いまさらですが、改めてお礼を言います。

 私たちを助けてくださって、ほんとうに、ありがとうございました。

 さて、あなたは今どこを旅しているのでしょうか。よかったらお返事で、どんな旅をしているのか教えてください。

 あ、国王様が、もう捕まることもないんだから、たまには帰って来いとおっしゃっていました。自分が捕まえようとしていたのに、その言い方がおもしろかったです。

 私たちもあなたに会えたら、うれしいです。よかったら、年越しは一緒に祝いませんか。


 長くなりましたが、どうぞ無事に旅を続けてください。神々と精霊のご加護がありますように。って、呪法士のあなたに言うのも変でしょうか。でもいつわりない気持ちです。

 秋の深まりゆくレアンで、お便りをお待ちしています。


  尊敬と感謝をこめて カザリン・イエナ



* * *




「…別に俺の名前の枕詞に『在野の呪法士』はいらねぇっての」

 読んでいた手紙から顔を上げ、アルは半眼で呟いた。

 だが取り繕っていても、隠し切れないよろこびの色が彼の顔に浮かんでいる。

 今アルは大陸の東の辺りを旅している。今は港町にいるのだが、海風が段々冷たくなってきたので、そろそろもう少し南に行って、暖かいところで冬を越そうと思っていた。

 しかしこんな誘いを受けてしまったら、断れないではないか。

「ま、年越しはしばらく先だし、土産話を増やしに行くか」

 間に合いそうになければ、山の動物の助けを借りればいいだけの話だ。問題ない。

 手紙などもらう生活は、実は人生で初めてだ。

 届けてくれるのがアルの様子を窺う役目も兼ねたレアンゴー王国諜報部隊、王の言う『我が目我が耳』なのがかなり特殊な状況ではあるが、最近は襲われることもなくなって仲良くなってきたので、たまに顔を合わせるのも楽しくなってきている。

 アルもあのとき、自分のことで必死だった。

 旅暮らしは楽しかったが、いつどこで襲われるかわからない不安が常に付きまとっていた。だから王の難しい依頼も、うっかり受けてしまった。取り組み始めてからその困難さに気付き、ものすごく後悔したものだ。

 その上あれよあれよという間に三人の子どもと共に逃亡生活を送ることになり、人生の中でも最高に神経をすり減らした五日間だった。怒鳴らなくてもいい場面で怒鳴ったことも多々あった。子ども相手に八つ当たりしたこともあった。大人気なかった。

 しかしそれでもその逃避行が、こんな楽しいおまけをもたらしてくれるなんて、夢にも思わなかった。

 アルは手紙を丁寧に封筒に入れ、荷物の中の手紙入れにしている箱にしまった。

「さて、行くか。南へ」

 赤と緑の入り混じった並木道を、アルは足取り軽く歩き出した。


‐了‐


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