遺跡の主
空間の奥には、またもや石組みの入口があった。
先程の『鬼ごっこ』のことがあるので少々おっかなびっくり入口をくぐると、なんとも奇妙な光景が広がっていた。
磨き上げられた石の床の部屋だ。人間が五十人は入れそうなほど広い。どこかの貴族の館の広間のようだ。壁と天井は洞窟のままだが。
その壁に沿って、ぐるりと大小様々な立像がざっと二十ほど置かれている。全て動物だ。
獅子、トラ、アザラシ、イルカ、カラス、タカ、イノシシ、タヌキ、ゾウなど、大陸中の様々な動物が石に彫刻され、陳列されている。
「…すごいねぇ」
マティアスが感動の声を漏らした。さすがにこれは壮観だ。
誰が制作したのかはわからないが、本物と見紛うほどである。大した腕だ。
「…しかし、どうすりゃいいんだ?」
思わずアルが呟くと、カザリンが困惑しながら後を受ける。
「次の節は『熊と兎と狼が 仲良く遊ぶ お穴で遊ぶ 黒も加わり 楽しいな だけど狼 恋しがる 明るい太陽 恋しがる』……最後は外に出た後のことだから、関係ないですよね…」
「…ま、とりあえず、片っ端から調べてみるか」
不思議な声が語りかけてくる気配もないので、アルは号令をかけた。こういうときはとにかく動いてみるしかない。
それぞれ四隅から調べるよう割り当てて、アルは右奥の像へ向かった。オオカミだった。
さっと確認すると、ウサギとクマはそれぞれ入口から見て右手の辺の中央と、真正面に鎮座している。
(熊、兎、狼、ね……結局これは何の暗示なんだ?)
オオカミの彫像を念入りに調べながら、アルは思考を巡らせた。
(俺の知る限りこれらが一緒に出てくる話はない。この辺りの昔話では、兎は竜の生贄、狼は無謀な谷越えで死に、熊は頭を使って難問を乗り越える……。一般的には兎は無垢か無知、狼は野蛮か勇猛、熊は力か働き者を象徴するが……駄目だ、材料が足りん)
全く繋がりが見えない。アルは隣のアヒルに移りながら、がりがり頭を掻いた。
そもそもなぜオオカミが一人で外に出るのだろう。一人だけが生き残ったということなのか、ウサギとクマが何かの理由で穴に残ったので別れたのか。
順々に何か隠されたものはないか見て回りながら、これまでの道のりに手がかりになりそうなものはあっただろうかと考えていると、短い悲鳴が耳朶を打った。
(しまった!)
慌てて振り返ってアルは舌打ちした。
ここまで他の人間と遭遇するということがなかったので、完全に油断していた。
「しばらくぶりだな、在野の呪法士」
カバの像の影から現れたのは、蛇顔の呪法士だった。マティアスを片手で抱え込んで首筋に短刀を当てながら、にやりと下品に嗤う。
「待ちくたびれたぞ。まずは荷物は全てこっちに放ってもらおう」
「……弟を放せ」
アドルフが低く唸るが、蛇顔は鼻であしらった。当然だ。
一番近いカザリンでさえ、二人のところに辿り着くには五歩かかる。それもアルの脚でだ。近寄る間に首を掻き切れる。状況は蛇顔に圧倒的に優位だった。
アルは大仰に嘆息し、荷物の紐を棍から外し、双方を蛇顔の方へ投げた。カザリンとアドルフも渋々それに倣う。
降参だというふうにアルは両手を挙げた。
「こっちもできるだけ早く進んだんだがな。なんであんたそんなに早く着いてるんだ」
「俺も童謡を子守唄に育ったんでな」
「…へえ、ってことは、スンドラー育ちか」
蛇顔が目を細めた。ほとんど瞳孔が見えなくなる。
「……ほう、よくわかったな」
「耳はいい方でね。お前さんの言葉には、若干のレアンゴー訛りがある。レアンゴー北西部の独特の抑揚がな」
「それだけでスンドラーと見抜くとは、大した耳だな」
「長いし覚えるのが面倒な、あの童謡がそんな広まるとは思えない。需要がありそうなのはヘンジとレアンゴーくらいだろ」
「なるほど。さすがに世界一と名高いレアンゴー国王直属の諜報部隊から逃げ回っているだけあるな」
唇を歪める蛇顔に、アルは片眉を上げた。
徴兵逃れと不法出国で故国の軍に追われているのは調べればすぐにわかることだ。しかしアルのために諜報部隊が出動いていることまで知っているとは。諜報部隊の動きは極秘中の極秘で、他国が容易に知ることができるものではない。
(……もしかして…)
一つの仮説がアルの頭の中に浮かんだ。確かめなければならない。
わざとらしく、アルは「あれ?」と首を傾げた。
「そういえば、そいつの父親達は?」
「知らん。俺は最初から一人だ。どうやら別の入口だったらしいな。おそらく野垂れ死にだろう。いい気味だ」
「冷たいねぇ。お前の主人じゃねぇの?」
「はっ、あんな男を主人とした記憶はないな。俺は俺のために動いているだけだ」
「……ふぅん、なるほどねぇ。そういうことか」
「…何が言いたい?」
眉根を寄せて蛇顔がアルを睨む。アルは「べっつにぃ? 何でもないさ」と挑発的に答える。視線がぶつかり火花が散る。
だが蛇顔は冷静だった。一つ息を吐いて切り替えると、アルに命令を下した。
「こいつの命が惜しければ、ウサギの像を動かしてもらおう」
「もう解けてんのか?」
素で驚いて問うと、蛇顔はまたもやにやりと笑った。余裕が見て取れる。
「そちらには童謡は正しく伝わっていないのだ。詳しく言えば、最後から二節目が間違っている」
「…あー、どうりで解けないわけだ」
納得してアルは半眼になる。ヘンジには最後の最後の鍵が伝わっていなかったのだ。いや、伝えなかったのか。
とにかく今は考えても仕方がない。「早くしろ」とせっつく蛇顔をいなしつつ、アルは入口右手の壁の中央に位置する、ウサギの像へ向かった。
「どう動かせばいいんだ?」
「自分で考えろ」
「へいへい」
つまり蛇顔もそこは知らないということだ。横柄に返事をし、アルは膝ほどの高さの石のウサギをまずはぐっと引いてみた。びくともしない。床に固定されているらしい。当然だが何も起こらない。
押す、左に動かす、と試してから、アルは像を右に引っ張った。
がこん、と何かがはまるような音と共に、像が斜めに傾く。
ゴゴゴ…と地が唸るように動き、部屋が振動し始めた。
入口の真正面にあった熊の彫刻が、ひとりでに後ろに動き始めた。やがて壁に衝突し、大破する。硬い壁にぽっかりと穴が開く。
同時に熊の像があったところの床が、ゆっくりとせり上がってくる。
(…祭壇か!)
やがて振動が収まると、大人二人が悠々と寝そべることができそうな、大きな長方形の祭壇が現れた。縁に細かな文様が浮き彫りされた祭壇の天板は、中央がへこんでいる。まるで血受けのように。
祭壇後ろの、熊の像が開けた穴の奥は光も届かぬ漆黒の闇に満ちている。
蛇顔はマティアスの首に短刀の切っ先を向けながら、顎をしゃくった。
「お前達、祭壇へ上がってもらおう。魔物への正しき供物―――生贄としてな」
「え、俺も? 変だな、生贄は純潔の乙女か子どもってのが相場じゃねぇの?」
ぎょっとして三姉弟がアルを見るが、飄々とアルは腰に手を当てて佇んでいる。もちろんここまで守ってきてやった三人を、今更見捨てる気はさらさらない。時間稼ぎだ。
どうやら蛇顔は、さほど武器の扱いには慣れていないらしい。わかっている人間なら、人質に刃物を向けるときはいつでも撫でるように血の管を掻き切れるよう、首筋に刃を添える。切っ先を向けるのは素人の証だ。
そもそも人質の抱え方からして、なっていない。いくら相手が子どもでも、胴に手を回して抱え上げるなど、疲れるだけではないか。玄人なら人質は自分の足で立たせ、首に腕を絡めてがっちりと固める。
アルは呪法士の顔から視線を下にずらした。短刀を向けられているマティアスが、まっすぐにこちらを見つめ返す。
七つとは思えないほどの落ち着きだ。アルは舌を巻いた。
(隙さえあれば、マティアスは何とかして逃げ出す。だがその前にできるだけ情報を引き出さねぇと…)
すぐにできる身を守る術は、一通り叩き込んでやった。そこは心配ない。
だがここから先への手がかりがなければ、遺跡を抜け出すことはできない。
「一般と個々は違うものだ。ここの主は、純潔の乙女と力のある呪法士を欲している。ついでにガキも一匹つければ文句なしだろう」
「てことは兎は純潔の乙女で、熊ってのが呪法士だっていうのか? 兎はわからんくもないが、なんだって熊が呪法士なんだ? てか狼は何なんだ?」
「…無駄口の多い男だな」
「気になることは追求しないと気が済まない性質でな。どうせあと少しの命だ。冥土の土産に教えてくれねぇか?」
のっぺりとした細面をしかめた蛇顔に、アルが肩を竦める。蛇顔は無表情で間を取ったが、淡々としたそぶりで口を開いた。
「この辺りには説話ではない、二つの昔話がある。一つは暴れる竜を鎮めるために嫁入りした兎の話。竜のせいで地が揺れて困った動物どもが若い白の雌兎を差し出すと、竜は大人しくなった。つまり竜に比喩される崖山脈の下に眠るものが暴れ、生贄の少女によって納まったということだ」
これはカザリンからも聞いているし、アルも同じ解釈をした。問題は次だ。
「もう一つは、子どものために珍しい薬草を手に入れようとした狼と熊の話だ。谷川を挟んだ向かいの崖の上にある薬草を採りたいが、渡る手段がない。狼は無謀にも飛び移ろうとして落ちたが、熊が水の精霊に働きかけて助けた」
「えっ?」
「狼は谷川に落ちて死んだんじゃなかったのか?」
三姉弟が驚いて素っ頓狂な声を上げた。つまり、これもヘンジでは正しく伝わっていない部分なのだ。
蛇顔は隠し切れない優越感を漂わせながら話を続ける。
「そして熊は土の精霊に願い、岩の橋をかけてもらった。だが熊は精根尽き果て、狼に薬草を子どもに届けてくれるよう頼んで、死んだ」
「あー、そういうことな」
「つまり熊は呪法士の暗喩だ。この二つの話はヘンジとスンドラー以外伝わっていない。ということは童謡と合わせて考えれば、狼は兎と熊、つまり純潔の乙女と呪法士を奉げ、狼は『手に入れた』のだ。世界中を飛び回る―――『力』を」
唇の端を吊り上げ、蛇顔は「さて」と短刀を握り直した。
「もういいだろう。祭壇に上がれ。こいつの血を見たくなければな」
「やめろ!」
「やめて!」
ぐっと切っ先をマティアスに近づけた蛇顔に、アドルフが怒鳴ってカザリンが悲鳴のように叫んだ。蛇顔はただ嗤笑し、待っている。
やがてカザリンが根負けしたように、真っ青になって震えながら祭壇へ近付いた。アドルフもぎりぎりと奥歯を噛み締めながら、姉に続く。だがアルは動かなかった。
腑に落ちないところが一つあった。
(狼だけが、浮いてる)
兎と熊は蛇顔が説明した。それで筋が通る。
だが狼だけは曖昧な存在のままだ。狼は、何なのだ?
(つーか、生贄が欲しいだけなら、あんなしち面倒くさい試練を用意する意味がわからん)
前半の正しい道を選ぶところまでなら、一度作ってしまえば後は使い回せばいいからさしたる労力は必要ない。だが後半はどうだ。こちらの反応を見ながらいちいち色々と仕掛けなければならない。
(…遺跡の主は、俺達を試してる)
アルは確信を持っていた。遺跡の主は、血を欲し、見境のなくなった魔物ではない。
こちらを冷静に厳正に見極めようとする、精霊だ。
精霊は生き物が生きているときに発する精気を吸って生きる。魔物は負の感情と、生き物が死すときの魂そのものを喰らう。精霊ならば死して役目を成す生贄など一切必要としない。ゆえに生贄が遺跡の主への『正しき供物』であるはずがない。
ならば、正しき供物とは、何だ。
カザリンとアドルフが祭壇によじ登り、振り返った。蛇顔が顎をしゃくる。
「おい在野の呪法士。後はお前だけだ。さっさと動け」
仕方がないのでできる限りゆっくりと、アルは祭壇へ歩み寄っていく。必死で考えているが、何かが足りない。祭壇が手の届くところに近付いても、脳裏に閃くものはない。
焦るアルの視界に、祭壇の縁の文様が映り込んだ。件の熊と狼の昔話が題材の、美しい彫刻だった。
何気なく眺め、アルは目を瞠った。
(これは……狼と水の精霊が、話してる? 狼も呪法士だってのか!)
更に先を見ると、水の精霊が狼を崖の上へ押し上げ、薬草と採っている。
そして土の精霊が登場し、崖が伸びて狼は悠々と元も場所へ戻っている。熊は切り倒した巨木を抱え、目を丸めてそれを眺めているのが最後の場面だった。
アルは思わず口を手で覆った。笑いを必死で堪える。
(………口伝には一つ大きな欠点があったな)
いつの間にか話が変わっていくことが往々にしてある、ということだ。
レアンゴーにおいて、狼は害獣だ。人間や家畜を襲う、汚らわしい野蛮な獣だ。一方で熊は小さく大人しい種類しか棲息していないため、人里に下りてくることは皆無である。熊が歩いた跡を辿れば果物などが見つかることから、山の友とも呼ばれることがあるくらいだ。
そのレアンゴーで、狼が呪法士で熊が愚か者などという話が、正しく伝わるものか。
答えは―――否。
「……どうした。さっさと祭壇に上れ。こいつがどうなってもいいのか」
祭壇の前で立ち止まったアルを、蛇顔が苛立ったように脅しつける。
顔を上げ、アルはカザリンとアドルフをまっすぐに見た。二人はその強い眼光に驚き、そして、こっくりと頷いた。
アルはくるりと振り返り、腕をだらりと伸ばして蛇顔に言った。
「なあ、憐れな生贄の冥土の土産に、もう一つだけ教えてくれねぇか? その、ヘンジには伝わってない童謡の一節ってやつをさ」
「…そんなに気になるか」
「そりゃもう。そのために俺は死ななくちゃならねぇんだから。頼むよ、この通り」
拝むように手を合わせ、アルは頭を下げた。
急に下手に出たアルに眉根を寄せ、蛇顔は怪訝そうに品定めするように睥睨する。やがて余裕のため息をつき、「いいだろう」と答えて歌い始めた。少々高いが、意外といい声だ。
熊と兎が取り組んで 兎が熊に土つける
狼だけが 差し出した
黒のお穴に まごころを 熊と兎に さようなら
くくく、と喉の奥から笑いが込み上げてきた。押さえきれず、声が漏れる。
蛇顔が不気味そうに眉を顰めた。
「何がおかしい。死が恐ろしくて気が狂ったか」
見当違いな言葉に更なる笑いが込み上げてくる。まったく、何が幸いするかわからないとはまさにこのことだ。
一頻り笑った後、アルは両手を広げた。
「馬鹿だなー、お前。俺を祭壇に近づけたなんて」
「何だと?」
「あと思い込み激しいのと、相手を侮るのは呪法士として駄目だぞ。それから武術もちゃんとやった方がいいな。要するに、お前は半人前だってこった」
「…きっさま…黙って聞いていれば!」
「―――マティアス、来い!」
罵倒で頭に血が昇って人質から注意が逸れた瞬間、アルは叫んだ。
マティアスは自分を掴んでいる呪法士の左手の小指を、両手で思いっきり引っ張った。
人間の指の中で、最も筋力が弱いのは小指だ。そして手の構造上、小指を外側に反らされると、力が緩む。
痛みで拘束が甘くなった隙を衝いて、マティアスはするりと腕から抜けて駆け出した。
蛇顔が焦ってマティアスの背に短刀を持った右手を伸ばすが、もう遅い。
豹のようにしなやかに素早く距離を詰めたアルが、途中で拾い上げた棍を手に蛇顔に迫っていた。短刀を弾き飛ばし、鳩尾を狙って棍を突き出す。蛇顔が必死に身体を捻る。
アルの棍は蛇顔の脇腹を痛打した。ごろごろと蛇顔が床に転がる。普通ならこのまま悶絶する。
しかし蛇顔も只者ではなかった。
「―――空気よ、|我が仇を黒い穴へ叩き込め(エンネミアノイルフォッセポウッセル)!」
片手で脇腹を押さえながら、右手を掲げて蛇顔が詠唱した。空気の塊が突風となってアル達に襲い掛かる。
(ここは呪法が使えるのか?!)
驚愕しながらも、さすがにアルも百戦錬磨の猛者。反射的に唱える。
「空気よ、我が壁となれ!」
目に見えない真空の壁がアルの前に立ち昇る。突風は風の壁に衝突し、霧散する。だがすぐに蛇顔は次の一手を打った。
「聖なる光よ、|網となって生贄を捉えよ(フィレトコンポセルサイシル)!」
「ぐっ……!」
祭壇を囲むように織り成された風の壁を、蛇顔のなした光の網が圧迫する。アルが苦しげに呻く。
「アルさん!」
「アルお兄ちゃん!」
「その穴に飛び込め!」
姉兄がマティアスを祭壇に引き上げたことを横目で確認してアルは言った。
三姉弟が一瞬状況を忘れてぽかんと口を開け、ゆるゆると祭壇の真後ろに広がる漆黒の穴に視線をやり、ばっと顔を逸らした。
「む、むりだよぅ! そんなのできない!」
「それが正解なんだ! 正しき供物は命なんかじゃねぇ! 飛び込む勇気だ!」
「…何だと?」
蛇顔が眉根を寄せた。
「そっちの童謡にあっただろ? 黒い穴に、真心を差し出したってな! 黒は遺跡の主、狼は勇気と正しい知識を持つ者の暗喩だ! 兎は純真だが無知、熊は器用で知識はあるが愚かなことを意味する!」
精霊はずっと、こちらを試している。
知識を。自律力を。身体能力と反射神経を。自分が最も怖れるものに打ち勝つ勇気を。
では、最後に試すものは何か。
「真心をそのままの意味で解釈すればいいんだ! 真心は誠の心、偽りのない真実の心だ! 安易な答えに飛びつかず、遺跡の主を信頼し、この真っ黒な穴に嘘偽りない自分を差し出せるかどうかを精霊は試してやがるんだ!」
それは自分の知ることだけが全てではないと心得る謙虚さと慎重さ、全ての情報を探し出し、衝き合わせて真実を導き出せる知力。そして、それを実行できる心の強さ。
だがカザリンとアドルフは顔を見合わせるばかりで、マティアスもじっとして動かない。
「で、でも……」
光の網がじりじりと風の壁を押し縮めていく。全力で風の壁を保つアルの額に玉の汗が浮かぶ。余裕はない。
だがアルはその状態でも三人に振り向き、怒鳴った。
「俺を信じろ! ―――自由になるんだろ!?」
「……いこう、お兄ちゃん、お姉ちゃん」
マティアスが静かに二人の手を取った。笑っている。
「ぼくたち、アルお兄ちゃんのことしんじて、ここまでたどりついたよ。だから、いこう。…ここでしんじゃったとしても、お兄ちゃんとお姉ちゃんがいっしょなら、さびしくない。それにお母さんもきっと、ほめてくれるよ。よくがんばったね、って」
カザリンとアドルフははっとして弟を眺めた。
確かにこのまま何もしないければ、命を捨てることになる。折角ここまで逃げてきたことを無駄にすることになる。母の願いに背くことになる。
弟を、そして自分達を導き、今も必死に守ってくれているのは、誰だ。
在野の呪法士、アルベール・ハインだ。
三姉弟は頷き合って手を固く握り合い、深く息を吸って吐き出した。そして、黒の中に小さなその身体を躍らせた。
ぐんぐんと、黒の中へ、下の方へ、真っ逆さまに落ちていく。
だがアドルフは不思議と恐怖を感じなかった。落ちていくのに、落ちている感覚がほとんどなかった。
納屋の屋根から跳び下りて遊ぶときなどは、あのふわりと浮いて落ちる感じに背筋がぞくりとしたものだが、今は全くそういうものがない。だから途中から、落ちているのかどうかもよくわからなくなってきた。
やがて落下速度が緩やかになっていき、ふわりと止まった。
ここが底なのかどうか、アドルフには判然としなかった。
一面真っ黒で、上も下も右も左もない。足が地についているのか、宙に浮いているのかもはっきりとしない。
光はないはずなのに、姉や弟の顔はもちろん、手足の先まではっきりと見えた。不思議な状態だった。
『よくぞここまで辿り着いたの』
あの不思議な声が、今度はより近くから語りかけてきた。
気付いたときには巨大な生き物のようなものが、目の前に現れていた。カザリンが驚いたように短く声を上げる。
巨大な、黄土色と岩色のまだらの蜥蜴だ。
一度だけ移動動物園で見たことのある象の、三倍くらいの体格だ。尻尾も入れればもっと大きい。しかも尻尾の数は、五つ。一振りすれば戦士が五十人いたとしても軽々と吹き飛ばせるだろう。短く太い六本の脚が、巨体をどっしりと支えている。
蜥蜴は大きな、溶岩のような紅い目できょろりと三姉弟を捕らえた。そして大きな顎の端をゆるりと持ち上げた。
『我はこの遺跡の主。名をモコという』
人間とは顔のつくりが違うので、表情で感情は捉えにくいが、気配は優しい。
微笑んでいる、と解釈して間違いはなさそうだ。
『お前達のことは全て見せてもらった。久々の勇者だ。そして我は正しき供物を受け取った。ゆえにお前達の望みを叶えてやろう。何がよい? 世界を覇する力でも、金銀財宝でも、人間でも、好きなものを言ってみるがよい』
「人間?」
思わずアドルフは聞き返した。地脈の精霊モコは象ほどもある頭を傾けた。
『生きている人間ならお前の元に遣わしてやろう。死んだ人間なら、黄泉の国から呼び戻してやろう』
「そんなことができるの?!」
『我は女神エオルザの眷族にて、この一帯の地脈を司る者。黄泉は地の下より繋がる国。それくらいは造作もない』
地脈の精霊。アルがいたならば、えらい大物が出てきたなと感心しただろう。
サントゥラール大陸には、地の力が大陸中をくまなく巡るための道が土中にある。それを地脈と呼ぶ。地の力が暴走すれば、大陸が揺れる。地脈の精霊は、そうならないように管理する役目を担う。
ゆえにその力の大きさは、精霊の中では群を抜く。神と呼んでも差し支えないほどだ。
黄泉は精霊ではなく神の領域だ。通常の精霊なら、手も足も出ない。しかし、この地脈の精霊モコには、それを可能とするほどの力がある。
(…母さんが、還ってくる…?)
アドルフの脳裏に、母の姿が走馬灯のように次々と浮かび上がる。笑う顔、怒った顔、真夜中に涙する丸い小さな背中、病でやせ細った体。
共にレアンゴーへ行き、あの下衆共の手の届かないところで、もう一度人生をやり直すことができたら?
父がいた頃のように、美しく笑ってくれるだろう。そうだ、父も一緒に呼んでもらえばいい。マティアスは父を知らない。自分の死後に母の身に降りかかった災難を聞けば悲しむだろうが、心の広い穏やかな父のことだ。自分の息子としてマティアスをかわいがるだろう。
おはようと笑って挨拶し、みんなで働き、夜は共にご飯を食べ、一緒に眠って、また朝に働きに出る。休みの日は一緒にお弁当を持って散歩に出かけて、笑う。
幸せな、ごく普通の家族の風景。
それを、取り戻すことが―――できる。
「だめだよ、お兄ちゃん、お姉ちゃん」
ふいに舌足らずな声が、思考を遮った。
驚いてアドルフとカザリンはその声の方を振り向く。
「アルお兄ちゃんが言ってたよ。ねがいは、せいれいにかえなてもらうものじゃない。じぶんでかなえるものだって」
つーか、願いは自分で叶えるもんだ。誰かに頼るんじゃねぇ。
ぶっきらぼうなアルの声が耳の奥で蘇る。
「せいれいは、ねがいごととひきかえにするものがないと、かなえてくれないんだよ。ぼくたち、命いがい、なにもももってない。…そんなこと、お母さん、のぞまないよ」
アドルフとカザリンは初めて会う人を見る気持ちで、弟を眺めた。
愕然とした。
二人は姉と兄だ。当然色々なものを見聞きし、弟よりもたくさんのことを知っている。だが弟には敵わないところがあると、そのときはっきりと思い知らされた。
カザリンとアドルフは、精霊の甘い誘惑を聞いてしまった。だがマティアスは騙されなかった。
ただまっすぐに、ひたすらに、マティアスはアルを信じているから。
恥じ入ったようにうつむいた姉を一瞥し、アドルフは目を閉じた。
-----------俺を信じろ! 自由になるんだろ!?
さっきの叫び声が頭の中で反響している。強く背中を押してくれる。
静かにアドルフは言った。
「自由になるために、レアンゴーに行きたい。だから、レアンゴーへの道を開いてください」
『…ほほほ、なかなかわかっとる人間がおるようだの』
大きな赤目を細め、地脈の精霊モコは今度こそ正真正銘の微笑みを浮かべた。
『我らは誇りにかけて、人におもねることは決してない。認めた人間の望みを叶えることはあるが、それには対価が必要となる。対価は願いの大きさと同じ重さでなければならぬ。それがこの世の道理だ。…お前達に説いたのは、そこの上にいる土色の髪の男だな?』
「はい。あの人も一緒に外へ出してください。命の恩人です」
『よかろう。もう一人はどうする? どうやら、その男に伸されたようだが』
ということは、アルは蛇顔を倒したのだ。マティアスが歓声を上げ、カザリンがほうっと息を吐き出し、アドルフは肩を竦めた。
だってあの人が、負けるはずがない。
目で姉と弟に確かめ、アドルフは答えた。
「…一緒に、出してください。あの人が死んだら、悲しむ人もいるだろうから」
「あの、対価は…?」
『道を開くだけなら、もう既に試練の道で対価をもらっておる。充分だ。貰いすぎても貰わなさすぎてもいかん。対等であること。これが重要なのだ』
「ねぇ、どうして、こんないせきをつくったの?」
マティアスが不思議そうに首を傾げた。精霊モコはうやうやしく前足で後ろを示した。
『あの奥には、大地の女神エオルザのお住まいがある』
驚いて三姉弟はモコの後ろに目を凝らした。
しかし闇が深く、何も見えなかった。当然といえば当然だが、少しがっかりした。
大地の女神エオルザは、天空の神ヘオフォン、蒼海の神ウェタールと共に天地を創造した創造三神の一柱だ。精霊の上に位する神々の中で、最上格の存在である。
豊かな恵みをもたらす、このサントゥラール大陸そのものともいえる神。
『我は女神エオルザに続く道の番人の一人でもある。今までの道は元来、エオルザと契約をと望む人間の呪法士の資質を試すためものだ』
「神と契約?!」
『そうだ。本当の試練は、この後に控えておるのだ。ここまでとは比べ物にならぬほど、過酷で壮絶を極める試練がな』
これまでの道のりも三姉弟にとっては相当厳しいものだったわけだが、ここまではただの資質の見極めで、更にとんでもない試練が課されるらしい。三姉弟は揃って身震いした。絶対に挑みたくない。
『過去に一人だけ、エオルザの課す試練を突破して、女神と契りを交わした者がいた。そう、今は確か、レアンゴーと呼ばれておる国の三代目の王。あやつは大した呪法士だった。レアンゴーを取り囲む山々は、あやつがエオルザの力を借りて成したものだ』
「なんだって?!」
驚いて顎が外れそうだった。
レアンゴーは高い山脈に囲まれているという地の利によって、絶対的な防御を誇る。それが神の力を借りたとはいえ、一人の人間の所業だったとは。全く想像もつかない。
モコが懐かしそうに遠くを眺めた。
『勿論、元々あった山もあるが、あそこまで完璧な配置を整えたのはあやつだ。本当に気持ちの良い若者だった。…さて、長話になったな。そろそろ人の世へ帰る頃だ。近頃は挑戦者も少なくなっておったので、久々に楽しませてもらったぞ。礼を言おう』
「近頃って…」
『そうさな、人の時間で言えば、三十年ほどだな』
精霊や神々は不老長命である。殺されることがなければ死なぬともいう。三十年など、モコにとって大した長さではないらしい。
(…俺は三十年後、ちゃんとした大人になってるかな)
アドルフの心にふと疑問が生まれた。首を振る。
(…なってるかな、じゃない。なってやる。俺は絶対にそうなる。……これでいいんだろ? なぁ、アルベール)
心の中で初めて呟いた名前は、なんだかくすぐったかった。
『では、さらばだ』
「せいれいさん、ありがとう!」
モコが別れの言葉を告げると、マティアスが大きな声で叫んだ。モコが微かに目を細めて頷いたのが見えた。
そして遺跡に入ったときと同じ、奇妙な浮遊感が身体を包んだ。




