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亜空間の試練


 アルは口を引き結び、どすどす石造りの階段を下りていく。

「まってよー」

 まだ歩幅の小さいマティアスは、段差の大きい階段をすたすた下りられず、べそをかいてアルに呼びかけた。アルははっとして腰に手を当て、息を吐いた。

 どうやらあの程度のことで頭に血が昇っていたらしい。らしくない。

 -----------絶えず周囲の確認を怠るな。決して驕らず高ぶらず、相手と己の力量と現状を正確に見極めろ。そして、常に冷静で理性的であれ。それができぬ呪法士は、本物ではない。

 じいさんの言葉が脳裏を過ぎる。在野の呪法士としてのアルを育ててくれた恩人。

 えっちらおっちら、アドルフに助けられ、壁に手をつきながらようやく追いついてきたマティアスに、アルは「ん」と手を差し出した。ぽかんとマティアスがアルを見上げる。

「落ちられたら敵わん」

「……ありがとう!」

 くしゃっと破顔したマティアスからアルは顔を逸らしたが、手を引っ込めはしなかった。

 小さな手が、皮が厚く硬いあるの手のひらを掴む。

 熱くやわらかい、ふにゃふにゃした子どもの手だ。女相手のときよりも慎重な力加減で、アルはその手を握り返した。

 マティアスはきゃっきゃ言いながら反対の手をカザリンと繋ぎ、嬉々として階段を下りていく。カザリンの荷物はアドルフがまとめて抱えている。

「お母さんもよく手をつないでおりてくれたよ」

「こら、ぶら下がるな。落とすぞ」

 悪戯に体重をかけてきたマティアスを脅すが、マティアスは全く気に留めずに続けた。

「お父さんとお母さんがいたら、こんなかんじかなぁ」

 アドルフとカザリンが痛みを堪えるように目を伏せた。

 どちらももうこの世にはいない。いや、マティアスの血縁上の父は存在しているが、三姉弟の認識の中では父ではないので除外する。

 普通に暮らしていればできたことが、彼らにはもうできない。

 そういえばマティアスは、最初の頃はもっとずっと大人しかった。怖がったり疲れでぐずったりはしたが、ヘンジへ入りたいというとき以外、自分の意思を感じさせる我侭は一つも言わなかったし、笑う回数もずっと少なかった。

 カザリンとアドルフも十三や十二とは思えないほど、冷静で頭がいい。甘やかされて育った貴族の脳足りんの坊ちゃん方に見習ってほしいくらいだ。

 子どもは意外と大人なのだ。従順で、かわいらしくなんてない。

 特に、大人の中で生きてきた子どもは。

「アルお兄ちゃんのお父さんとお母さんって、どんなひと?」

 あどけない幼い声で、マティアスが尋ねる。アルは感情を交えずに答えた。

「両親は事故で俺が三つのときに死んだ。古い吊り橋が落ちたんだと」

「そうなの? お父さんとお母さん、おぼえてる?」

「全く。事故の後すぐに別の村に預けられて、それからじいさんとこの山小屋に移ったから、今じゃ昔住んでた村に行っても全然覚えがないからわからん」

 姉兄が息を詰めて耳を傾けているのが気配でわかった。アルはひたすら前だけを見ていた。マティアスがしゅんとして呟く。

「…そっか。かなしいね」

「別に。じいさんがよくしてくれたから、何も悲しいことなんかねぇよ」

「そうなの? おじいさんって、アルお兄ちゃんのおじいさん?」

「いや。遠い親戚らしいが、よく知らん」

「どんなひと?」

「お人好しの、呪法嫌いの呪法士さ。口癖は『呪法なんか使うもんじゃない』だったな」

「じゅほうがきらいなのに、じゅほうしなの?」

「呪法士ってのは、生まれたときに決まってるんだ。自分で選べるもんじゃない」

 精霊の力を授かって生まれるかどうか。それが呪法士になれるかなれないかの分かれ道だ。なりたくても力がなければなれない。逆に、捨てたくても一生捨てられない。

 血縁で生まれることが多く、呪法士の一族というものは存在する。だが血族婚をしてもも必ずしも呪法士が生まれるわけではないし、逆に全く力のない両親から、強大な力を持つ子どもが生まれることもある。

 アルはどちらかと言えば血縁によって生まれた。親族には何人か呪法士がいるらしい。だが一族になれるほどたくさんではないのだそうだ。よくわからないが。

 どうやって精霊の力を与える子どもを決めているのか、一度運命の神とやらを問い詰めたいと本気で思っているアルである。

 選べるなら、呪法士になど絶対になりたくなかった。

「そういえばアルお兄ちゃんって、じゅほうしなんだよね? でもつかってるの見たことないよ」

「一回使っただろ。雪狼呼んだときに」

「えっ、あれじゅほうだったの?!」

 子どもには犬笛で犬でも呼んだように取られたらしい。大変不本意である。

「音に力を込めて、雪狼の耳に届けたんだ。『助けてくれ』って伝言をな」

「へえ、そうだったんだ! そういえば、ゆきおおかみとおはなししてたね」

「あれは俺しかできないぞ」

「そうなの?! どうして?」

 素直に驚くマティアスに、アルはちょっと自慢したい気分になった。

「半端な呪法士は本当に力のある、人間の領域に姿を現すことのできるやつとしか話せない。俺は山で育ったから、精霊とか半精霊とかとは遊び友達で、鍛えられたんだ。ま、それは見て話す能力だけで、普通の呪法自体は全部じいさんから教わったがな」

「いっぱいおこられた?」

「面倒くせー怒り方でな。殴られたことは一回もないが、説教が恐ろしく長かった。一から十まで、すんごい細かくどこが駄目だか説くんだ。飯が冷めきるまで膝突き詰めてることもざらだったな。いつも笑ってるくせに、そんときだけえらい迫力で逃げられんかった」

「やさしいんだね、おじいさん」

 虚を衝かれてアルはマティアスに目をやった。成人男性として小柄なアルの、腰くらいしかない更に小さなマティアスは、にこっと笑っていた。

「アルお兄ちゃんのことすきじゃなかったら、そんなにおこったりしないよ。お母さんもよくいってた。おまえたちのことが大すきでしんぱいだから、おこるのよって」

「………かもな」

「だからアルお兄ちゃんもやさしいよ。すごいよ」

 なぜマティアスはそんなことを言ってくれるのだろう。まっすぐにアルを見つめながら。

 他人のことなどどうでもいい。自分が自由で楽しく生きられれば、それでいい。アルはそうやって、放浪の旅を始めた十三のときから生きてきた。

他人に関心のない享楽主義者。自由人。楽しいが冷たい奴。

そう言われても、それの何が悪いと笑っていた。

(……優しくなんかねぇよ)

 本当に優しいなら、もっとこの子ども達に寄り添ってやるだろう。あたたかい言葉をかけて、洞窟を出たら共に暮らしてやるか、せめて里親を見つけるまで世話してやるだろう。

 アルは絶対にそんなことはしない。アルは自分のことしか考えない。

 心臓が小さく痛む。アルは黙ってマティアスの小さな手を、握り締めた。熱い、生きている人間の体温が肌に滲みる。

 突如、光が視界を焼き尽くした。




 反射的にアルは瞼をぎゅっと瞑った。手で顔を覆う。それでも目の奥が白く痛い。しばらく目は使い物にならないだろう。

(何だ?! 何が起こった?!)

 わかるのは唐突に光の洪水に襲われ、その襲撃が未だ続いているということだけだ。

 僅かにでも目を開ければ即座に双眸が灼かれ、悪くすると一生盲目になるかもしれない。暗闇は数多く体験しているアルも、真逆の状況は体験したことがなかった。

 だがわけがわからぬうちに下手に動いて事態が悪化した、というのはよくある話だ。アルは心を鎮めるため、ゆっくりと息を吐き、吸った。はっと気付く。

 隣にいたはずのマティアスも、マティアスと手を繋いでいたカザリンも、後ろを歩いていたアドルフも気配がなかった。

慌てて声を張る。

「おい! マティアス! カザリン! アドルフ! 聞こえててたら返事しろ!」

 応えはない。もう一度叫ぶ。

「マティアス! カザリン! アドルフ! さっさと返事しやがれ!」

「……さん、アルさん…」

 弱々しい女の子の声が、ようやく聞こえてきた。我知らず胸を撫で下ろす。

「カザリン! 無事か?」

「はい、でも、目が…」

「動くな。俺がそっちへ行く。なんか喋っててくれ」

「何かって…」

 狼狽するカザリンにアルは有無を言わせず命令する。

「この状況じゃ耳だけが頼りだ。喋るのが嫌なら歌でも何でもいい。声を出せ」

「え…ええと、じゃあ、あの童謡を…」

 動揺しながらも、カザリンは思いのほかしっかりした声で歌い始めた。

 暗闇とは正反対だが、視覚が当てにならないのは同じである。アルは耳に意識を集中させ、すり足で歌声の糸を辿っていく。

 山で遊ぶ熊と兎と狼。不思議な穴に入って遊ぶ。宝を見つける。水と肉を食う。ここまではもう終っている。

「熊と兎と狼が 仲良く遊ぶ お穴で遊ぶ あれあれ誰だ 黒がいる 一緒に遊ぼう かくれんぼ あやとりしりとり 鬼ごっこ」

 アルは喉の奥で唸った。

「これがかくれんぼ、か…」

どうやらこれは童謡のいう、『かくれんぼ』のことらしい。

 確かに強すぎる光に『隠れ』た三姉弟を探すというのは、かくれんぼのような気もする。やっていることは目隠し鬼の方がどう考えても近いが。

(遺跡の主は、本当に何がしたいんだ…?)

 疑問が再び頭をもたげる。何のためにこんな試練を課すのか。わけがわからない。

 四苦八苦しながら、二巡目の歌が終る頃にアルはようやくカザリンの腕を掴むことに成功した。びくりとカザリンが硬直する。

「カザリン? 大丈夫か」

「あ、は、はい…」

「お姉ちゃぁん、お兄ちゃぁん、アルお兄ちゃぁん、どこぉー? 目がいたいよぅ」

 マティアスの泣き声が更に遠くから聞こえてきた。アルは舌打ちする。カザリンがまた身を竦めるが、アルは気にせず怒鳴った。

「おいマティアス! 今行くから待ってろ! なんか喋っとけ!」

「アルお兄ちゃぁん、どこぉ? こわいよう、こわいよう」

「あーもう泣くな鬱陶しい! すぐ行くから動くな! 動いたら後で拳骨だ!」

「マティアス、大丈夫だから泣かないで!」

「お姉ちゃぁん、こわいよう」

 カザリンの腕を引き、足元を確かめながら一歩一歩進んでいく。泣きじゃくるマティアスを懸命にカザリンが慰めようとするが、マティアスが泣き止む気配はない。

 アルももっと早く進みたいが、万が一段差があったり、壁にぶつかったりするかもしれないので、迂闊にすたすた歩けない。怪我をする程度ならまだいいが、この場所に端があって、それが崖になっていた場合、本気で洒落にならない事態になる。

「……き、姉貴、マティアス、どこだ…!」

 子どもの泣き声とはまた別の方向から、少し大人びた、声変わりの始まった声が必死で叫んでいた。こちらも遠い。カザリンが声を弾ませた。

「アドルフ!」

「姉貴? 姉貴か? マティアスはいるか? さっきから泣いてる声が…」

「おいアドルフ、動くな! マティアスなら今回収に向かってる!」

 厳しく告げるとアルは間の後、「わかった、頼む」と答えた。不承不承であることは明らかだったが、アルは気にせずマティアスの啜り泣きを追う。

 子どもの泣き声は苦手だ。弱かった自分を思い出す。

(ったく、どんだけ広いんだよ!)

 心の中で悪態を吐きながら、アルは全神経を耳に集中させ、なんとかマティアスを、次いでアドルフを発見した。三姉弟はべそをかきながら喜び合っていたが、アルはぐったり疲れた。

 慣れない状況で神経をすり減らした。正直少し休みたい。

 だが遺跡の主に情け容赦はないらしい。

 不意に、今度は真っ暗闇に包まれた。

 上からどさどさと何かが降ってくる。やけに重いだが、やわらかい。布のようだ。というか、布そのものだ。

 漆黒の視界の中で身動きできないほどの布に囲まれるという状況にさすがのアルも目を白黒させる。これは一体、どうしろと言うのか。差し迫る危険はなさそうなだけ、余計に対応に困る。

『相応しいものを一つだけ選べ』

 入口以来、久方ぶりに不思議な声が語りかけてきた。相応しいもの、とは。

「これ…全部織物ですね」

 カザリンががさごそ身の周りを手で探りながら言った。アドルフが閃く。

「次はあやとりだ。綾織物ってあったよな。それを探せってことじゃないのか?」

「…それしかなさそうだな」

 ため息をつきながらアルが頷く。

 先ほどと同じく視覚は当てにならないが、光よりまだ暗闇の方が落ち着く。あんな現象は自然には存在しないが、闇なら田舎の夜でいつも体験している。

 しかし一つ大きな問題があった。

「……綾織物ってどんなやつだ?」

 高い布なんぞには全く縁がなかったので、アルには綾織物と言われてもさっぱり見当がつかなかった。

「縦糸と緯糸が斜めに交わるように織ったものです。模様を織り込んであることが多いですね」

「普通のやつと何が違うんだ?」

「ええと…普通は縦糸と横糸が、直角になるように織ります」

「それ触ったらわかるか?」

「裏を触れば…」

「裏ってどっちだ」

「それは…見えないので…」

 もっともである。マティアスがくすくす笑う。アドルフも笑っているのが気配でわかる。

 ばつが悪くてむすりと黙り込むと、マティアスが「がんばってさがそー!」と朗らかに言ったので謹んでそれに従う。触覚しか頼りにならないので、アルも三姉弟も集中し始めて必然的に沈黙が落ちる。

「お姉ちゃん、これは?」

 マティアスがカザリンの方に布を引っ張った。

「うーん…ちょっと違うかな…」

「じゃあこれは?」

「……違う、ね」

「これ」

「……こんなに分厚い綾織物はないですね…」

 カザリンが困ったように、しかしきっぱりと否定する。どうやらアルが一番正解に遠かったらしい。またもや弟二人が笑っている。

 アルはむっとしたが、大人しく作業に戻る。ふと思いついて質問を投げた。

「お前、裁縫係でもしてたのか?」

「…時々、ですけど。手先は器用なので、手が足りないときに呼ばれてました」

 手先が器用、でアルはカザリンが文書筒を掏ったことを思い出した。確かに手先が器用でなければできない芸当である。

 文書筒は懐に入れたままだ。

 あんな小さなものに人の命運が託されているなんて、なんだか笑ってしまう。

「お姉ちゃんはおりょうりのほうがとくいだもんねー! りょうりちょうにほめられてたよ、『そのうちおれのあとをつげるようになる』って!」

「へえ、それはすごいな」

「そんな……お世辞だと思いますから…」

 自慢げにはしゃぐマティアスをたしなめ、カザリンが尻すぼみに謙遜する。アルは片眉を上げた。

「褒められたときは素直に『ありがとう』でいいだろ。それがたとえ嫌味でも、そうやって受け取っとけば自分が楽しい」

「……そう、です、か…?」

「楽しいつーか、気が楽だな。否定するのは面倒だし疲れる」

 淡々と告げるアルは、カザリンがゆっくりと頷いた気配を感じた。しかし暗闇の中でその頬が緩んでいたことはわからなかった。

「…あ、これは?」

 アドルフが布をカザリンに渡す。しばらくあちこち触って確かめていたカザリンが、緊張しながら言った。

「……たぶん、これだと思います」

「よし。…つーかこれ、どうしたら選んだことになるんだ?」

「精霊さーん! ぼくたちこれ選んだよー!」

 マティアスが大きな声で宣言した。声は響かずに、闇の彼方に消えていく。やはり相当広い空間らしい。

 どうしていいかわからず、じりじりと応答を待つ。長いように感じたが、実際は大したことはなかっただろう。

『続くものを選び、それを追え』

 また不思議な声が告げた。

 意味を深く考える前に、目の前に突然、ウサギが現れた。

 茶色い毛並みにくりりとした黒い目の兎が、まん丸な目でこちらを見つめている。慌ててアルは振り返る。

 どういうわけか、辺りは真っ暗闇で床も天井も見えないが、三姉弟の姿だけははっきりと見えるようになっている。代わりにというべきか、足元に山積みになっていたはずの布がきれいさっぱり消えている。

(幻覚の類か? いや、それにしてははっきり感触あったしな…)

 さすがのアルも困惑して首を捻る。

「あ、きえた」

 マティアスの声につられて目をやると、兎がいつの間にか消えていた。と、次の瞬間、二匹のキツネが現れた。

 一匹は黄金色の毛並み、もう一匹は黒い毛並み。どちらも尻尾の先だけが白い。

(続くものを追え? …ってことはこれ、まさか…)

 アルが半眼になったとき、二匹がそれぞれ別々の方向へ駆け出した。早い。

「追うぞ!」

「え、どっちを?!」

「黒い方だ! 兎だから次は銀狐だ!」

 言いながら、マティアスの手を引いて走り出す。お子様を一人で走らせたら追いつけない。カザリンとアドルフは同時に「あ!」と声を漏らした。

「そうか、次はしりとり…」

「ただのしりとりじゃなく、追いかけろと! ……なんっだこの遊び心溢れすぎな試練は! 精霊だか魔物だか知らんが、遊んでやがんのかこの野郎ー!」

 半ば八つ当たりで罵倒するが、当然無視される。ここで応じられて、ムカついたからと強制排除されても困るのだが。

 ウサギ、銀ギツネ、ネズミ、ミミズク、クマときてサルとウマの二択で、ベリソルズ南部とレアンゴー北部の方言で『マシラ』と呼ぶサルを選んで、うっきっきっきーっという人を馬鹿にしたような鳴き声を追いかける。

(追いついたら一発見舞ってやる! 渾身の飛び蹴りを!)

アルは堅く心に決めたが、追いつく前にまた別の動物に成り代わってしまった。かなり悔しい。

 マシラの次はラクダ、ダチョウ、ウシ、シカ、カラスの後がまさかのスイカで、ひとりでにてんてんと転がっていくのでマティアスが大喜びした。

 緑の体の胸だけが黄色いアオバトと、全身黒で紫がかった光沢のある羽を持つ大陸南に棲息するカラスバトの見分けはカラスバト、水もないのに宙を泳ぐトビウオときて、最後はオオカミがするりと、いつの間にか出現した石組みの入口を潜ったのでアルたちも勢いよく飛び込んだ。

「水だぁー!」

 マティアスが歓声を上げる。

 出発地点とよく似た、洞窟を掘り整えたような楕円の空間だ。その中央にはまた大きな石があり、くり抜かれたところに水がなみなみと蓄えられている。

 散々走らされたので、喉はカラカラだ。思わずアルも歩み寄って覗き込んだ。

 目が合ったのは、軍服姿でにやりと笑う、自分だった。

 全身がぞわりと総毛立つ。

「きゃぁあああ!」

「ぐぁあ…」

「た、助けてくれぇ!」

 突然悲鳴と喧騒が耳に飛び込んできた。気付くといつの間にか、アルは戦場に立っていた。

 小さな村の家々を、炎がごうごうと包んでいく。母は子どもを連れ、男は老いた両親を肩に担ぎ、少年少女は泣き喚きながら逃げ惑い、散り散りに近くの森へ駆け込んでいく。

 アルの視界に、家を嬉々として焼いて飲み込んでいく、炎の精霊の姿が映った。

考えるより先にアルは叫んでいた。

「精霊であるあなたが、なぜこんなことに協力するのですか!? 人を殺し、家を破壊することに何の意味もないでしょう!」

『楽しいからさ』

 きょろりとこちらを見た、海坊主のような形をした巨大な炎の精霊は事も無げに言った。

『いつもいつも偉そうで、世界の支配者だと思い込んでる人間が、逃げ惑うのを見るのは楽しいじゃないか』

「それは一部の愚かな人間です! 彼らではありません!」

『そんなこと知るもんか。人間は人間だ。だいたい、我らを敬うことを忘れた人間達に情けをかけてやる必要はないね。我らを利用しようという腹積もりでも、我らのことを知り、祀ってくれるやつに協力しようと思うのは、当然だろう?』

「…あなたはもはや精霊ではない! 魔物だ!」

 業を煮やしてアルは怒声を叩き付けた。だが彼はにたりと笑った。

『精霊だの魔物だの、人間が勝手につけた名前に興味はないね。それに、ほら、俺を呼んだのは―――お前だよ』

 炎の化身はアルの後ろを指差した。導かれるように振り向く。

 濃緑の軍服。胸にはきらめく勲章飾りが三つ。そして、呪法士であることを示す腕章。それらを身に付け、後ろ手を組んで、やたら偉そうにこちらを見下してくるのは、アルと全く同じ顔の人間。

 絶対に、こうはなりたくないと思う、自分自身。

「なんだお前は。楯突くならこの場で焚刑に処してやろうか?」

「黙れ。力に溺れ、軍と貴族の狗と成り下がった下衆野郎め」

「それがどうした。もっとも、狗なのは軍と貴族の方だがな。俺には力がある。素晴らしい頭脳と体がある。全てを思いのままに動かせる才がある。軍に入れば、女も金も権力も、何もかも思いのままだ。こんなに楽しいことはない」

 かっと頭に血が昇った。

 衝動のままに殴りかかるが、相手は自分。簡単に避けられ、逆に腰を掴んで投げられた。地面に叩きつけられる。あっという間に腕を背中に絡め取られ、膝が肺の後ろに押し付けられた。息が詰まって咳き込む。

 軍服のアルが関節を決めながら、耳元で囁いた。

 蠱惑的な、甘い誘惑。

「どうしてお前は力を否定し、必死に逃げ回る? 無様じゃないか。軍に入って悠々と暮らす方がよっぽど楽しいぞ?」

「…っ…それは! 楽しいじゃなくて、楽なだけだ! ちっとも楽しくなんかねぇよ!」

 呪法士にとって、軍は守られた場所だ。

 力を是とするその価値観に染まってしまえば、あんなに安泰な職場はない。

 前線で戦う兵士を、後ろから呪法でちょちょいと助けたり、安全圏から呪法で敵を攻撃したり。命をかけて前線で戦う必要はこれっぽっちもなく、お茶を飲みながら戦況を見て力を貸してやればいいだけのことだ。何も難しいことなどありはしない。

 徴兵しようと常に追いかけてくるレアンゴー国軍だけでなく、顔が割れてしまった他国の軍からもアルは勧誘を受けている。だがアルは絶対に軍には入らない。逃げ続ける。

 追っ手から逃げ続けるのはしんどいし大変だ。面倒なことも山ほどある。

 だがアルは、自分のしたいことをし、見たいものを見、食べたいものを食べ、眠りたいときに眠る、自分がを全て選ぶ生き方の楽しさを知っている。じいさんやその友達が、生きることのつらさも大変さも受け止めれば、喜びも楽しさも倍になることを教えてくれた。

 その生き方を失うのは、自分を失うことだ。

 自分を失ったつらさを、言い聞かせて諭してくれた人がいる。

 その人が命をかけて守ってくれたものを、誰かに渡してたまるものか。

「俺は自由に生きるんだ! じいさんが必死で守ってくれた自由を、今更誰かに渡してなんかやるか馬ー鹿!」

「……それが答えか。お前は支配と利用ではなく、自由と苦しみを選ぶのだな?」

「当然だ! 人間だろうが精霊だろうが魔物だろうが、自分の責任で生きるから苦しくても楽しいんだ!」

 押さえつけられながら、アルは吼えた。軍服を着た方のアルが、笑った気配がした。

「………あ?」

 アルは目を瞬いた。

 洞窟のような空間。目の前には水を湛えた巨石。すぐにはここがどこかわからなかったが、二呼吸ほどの間にまだヘンジの遺跡の中にいることを理解して、肺が空になるくらい息を吐き出した。

 そして水面を覗き込んだまま固まっている三姉弟のうち、一番近くにいるカザリンを揺すってみる。

「おい、カザリン。聞こえるか?」

 だがカザリンは恐怖に慄いた表情のまま、全く動かない。魂が抜けている感じだ。

 きっとアルと同じように幻覚に引きずり込まれているのだろう。あれに勝たなければ、恐らく魂は返ってこない。死ぬことになる。

 だからといってアルが何かできるわけではない。アルはどかりと床に腰を下ろし、体を休めて待つことにした。

(…あれは、『鬼ごっこ』、か…?)

 童謡の順番からいくとそれしかないが、遊びの要素は一切なかった。

自分が決して捕まりたくないものに捕まる。何とか逃げ切れたが、改めて思い出しても鳥肌が立つ。

腹から息を全て吐き出し、ゆっくりと吸う。ようやく心が落ち着いてきた。

 銀の水と金の肉、かくれんぼ、あやとり、しりとり、鬼ごっこ。道を選ぶ部分の後に試されたものは、自律力と五感の鋭さ、反射神経、そして恐怖に打ち勝つ力だ。

(…知識に体、それから心を試したってところか? 本当に、何が目的なんだ?)

 試練というより、試験に挑戦しているような気分である。

はたとアルは気付いた。

(……まさか、主人を品定めしてる…?)

 考えられない話ではない。

 精霊にも色々いるわけで、自分が認める人間と手を組んで大きな事をやりたい、などと夢見る者がいてもおかしくはない。精霊は人間以上に多種多様なので、そういう人間くさいことを考える者がいないとも言い切れない。

「………あ、れ? ここ、どこだ?」

 視線を上げると、アドルフが青ざめた顔できょろきょろと首を巡らせている。

「アドルフ、大丈夫か? まだ遺跡の中だ。安心しろ。…ってのも変な話だがな」

「……遺、跡?」

 ぼんやりと繰り返して、アドルフはもう一度、もっとはっきりした目で周囲を確認した。

 大きく大きく息を吐き出す。自分の体を守るように抱きしめている。かすかに震えているようだ。

「……母さんに会った。どうしてマティアスを守れなかったの、って俺を詰って、あんたがあいつの子どもだったらよかったのにって首を絞めた」

「…そうか。だが、守ってるだろ。充分」

「違う。俺じゃ、俺と姉貴じゃ守りきれなかった。……あんたが、いたから」

 合点がいってアルは小さく首を竦めた。

 本物の母親ならば、話に聞いた通りの母親ならば、きっと「よく頑張ったね。辛い思いをさせてごめんね」と労って謝っただろう。だがアドルフは心の中で、自分が守りきれなかったことを悔いているのだ。母との約束を違えたと思っているのだ。

 だからアドルフはアルの名を決して呼ばない。認めているが、認めたくないのだ。

 アルは言葉を選んで言った。

「でも、お前はここに戻ってきた。一番乗りだぞ」

「……あんたが一番だろ」

「俺は大人で特別だから。姉弟の中じゃ、お前が一番、心が強い。だから早く帰ってきた」

 怒ったような棘のある視線をさらりと受け流し、端的に事実を指摘する。

 アドルフはくるりと背を向けて、顔を伏せた。アルはそれ以上声をかけず、放っておいた。必要ない。

 ひっくと喉の鳴る音がした。アドルフではなかった。甲高い、子どもの声。

「お兄ちゃぁん! ごめんねー!」

 マティアスがアドルフの背中に飛びついた。

 涙だけでなく鼻水もずるずる垂らしている。折角のかわいらしい顔が台無しだ。慌ててアドルフが懐から布の切れっ端を取り出す。

「ちょっ、鼻水はふけ! これ!」

「ごめんね、ぼくのせいでこんなとこまで来させてごめんね。でもうれしかったよ。お兄ちゃんとお姉ちゃんとはなれるなんて、ぜったいいやだったの。だいすきなのに、はなれたくなかったの。ごめんなさい! うわーん!」

 大泣きに泣くマティアスを、兄は神妙な表情でしっかりと抱きしめた。鼻水が服にべったりつくが、そんなことは全く気にならないらしい。

「………え…?」

 ちょうど感動の光景が繰り広げられているところへ、カザリンも戻ってきた。アドルフより更に顔色が悪い。がたがた震えて、焦点の合わない瞳でおそるおそる周囲を窺う。

 腰を上げてアルはカザリンの前に膝をついた。びくりと身体を丸める。

 幻影の中でよほど怖い目に遭ったのだろう。落ち着いた声でアルは呼びかけた。

「カザリン、俺だ。アルだ。大丈夫か? 真っ青だぞ」

「…アル、さん…?」

「ここはまだ遺跡の中で、さっきのは精霊だか魔物だかが見せた幻だ。だから安心しろ」

「まぼろし…?」

 茫洋とした口調でゆるゆると頭を上げたカザリンの顔に、ようやく少し色が戻ってくる。

「…あの男と、ホーエン家のご主人が、弟を自由にしてやるから、お前も母のように飼い犬になれ…と…。でも、母と約束したんです。そういうことは、絶対にしないって。自分を大事にするって」

「………そうか。よく突っぱねたな」

 ぽんと頭を撫でると、ようやく震えが収まった。頬に赤味が差す。これだけ恐怖していたのに、よく戻ってきたものだ。

 と、小さな身体がカザリンに飛びかかった。

「お姉ちゃん! 大丈夫?! わぁ、冷たい! あっためてあげる! あのね、ぼく、お姉ちゃんもお兄ちゃんもだいすきだから。だからいっしょにいたいの!」

「…マティアス……」

 舌足らずにまくしたてる弟を、アドルフと同じようにカザリンもぎゅっと抱きしめた。その小さな肩に顔をうずめる。少し泣いているのかもしれない。

(…なかなかやるじゃないか)

 アルは心の中で感嘆した。正直、一人くらい戻れなくても不思議はないと考えていた。子どもだと思って少々舐めていたかもしれない。

 彼らには自分で決める力がある。恐怖を克服する何かを持っている。

(侮りは禁物だったな)

-----------どこの誰であっても、決して侮るな。侮りは間違った判断を導く。

じいさんの口癖が耳の奥に蘇り、アルは少しだけ瞼を伏せた。


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