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広いマンションの一室。
鷹野佳澄が玄関でハイヒールに細いつま先を入れた。
靴底が赤く塗られたブランドのそれは、以前の自分からすれば贅沢な靴だ。
シングルマザーとして子供二人を育てながら、キャリアを積み上げてきた。
そんな頑張りやさんの自分へのご褒美と言える。
「絵美ぃー、出かけるからねー。」
パジャマのままの絵美は次女で、この春に希望通りの高校に通う事になった。
無表情のまま母親が出かけるのを目で追う。
ドアノブを回してドアが開かれる時、
「痛いっ!」
そう言うと絵美は胃の辺りを細い両手で押さえた。
鷹野佳澄はパンプスを脱いで、足早に戻ってくる。
「絵美?どこ、どこが痛いの?」
母親が近寄った途端、絵美は何事もなかったような無表情に戻る。
「絵美ちゃん?」
綺麗に化粧した頬を佳澄は押さえながら、佇む華奢な娘を見たくないかのように目を閉じた。
「お願いだから、お母さんを困らせないでちょうだい。」
絵美の肩に手を置くと、その手は弾かれた。
「お母さん、わたしより仕事が大事なんでしょ。
戻ってこなくていいのに。」
ため息をつきながら、佳澄は
「じゃ誰か、この恵まれない家族にお金をくれるって言うの?」
絵美は感情のない人形のように黙っている。
「ねぇ、また先生の所に二人で行きましょ?
このやりとりが平行線なのは、もうお互いわかってる事でしょ?」
佳澄にとって、今日は得意先との、外せない打ち合わせがある。
何があっても会社に行かなくてはならない。
佳澄の母、絵美にとっての祖母が生きていた頃には、こんな事は起きなかった。
絵美が中学2年の時に亡くなってから、佳澄に対し小さな子供かと思うほどの我がままを言うようになった。
何人もの精神科の医師に診てもらっても変わらない。
だから今日もまた念仏を唱えるように
「ごめんなさいね絵美ちゃん。お母さん絵美ちゃんを信じているからね。」
苦笑いして実の娘に取り繕って、佳澄は書類の入ったバッグを拾った。
「ご飯食べてね。」
絵美は無言で立っている。
高校のクラスの担任に連絡しなければ。
遅刻か、休みかわからないが、何かしなければ学校に呼び出されてしまう。
鉄の玉でも持たされたように重い心。
それでも佳澄は職場に向かって歩きだした。
リビングに残った絵美は、ドアが閉まり鍵がかかる音を聞いて、口をへの字に曲げ、母親が逃げていったドアを軽蔑したように見た。
綺麗に片付いたキッチンへ行き、冷蔵庫から果物をいくつか取りだして洗い、皿に盛る。
ミルクティを入れて、全粒粉のパンをほんの一切れ果物の横に置き、テーブルに座ると静かに食べ始めた。
母親の困る顔を見るのが、日課になり、それがストレス解消になっている。
いつまで続けるかなんて絵美は考えていない。
なぜだか母親が幸せそうな顔をしているのが許せないだけだった。
食事を済ませて、念入りに髪を艶やかに整えると、制服を纏い絵美は学校に向かう。
高校では優等生は目指していない。
できるだけ目立たないように、でも嫌われないようにしている。
高校なんて、たった3年しかいない場所なのだから、どうだっていい。