カレー大好き桜子さん――おまけのカレーパン
オーブントースターにカレーパンを2つを並べ、ツマミを回す。
トースターの火力は存外に高いので、焦がさないように注意が必要だ。
渋谷の例のカレー屋さんで、ショーウィンドウに入っていた大量のカレーパン。桜子はもちろんそれを買ってきた。時刻は深夜1時前。どう見ても高カロリーであるこれを、こんな時間に食べること自体が、美容と健康に対する背徳行為だ。
だが、タブーというのは犯したくなるものである。
もうすぐ深夜アニメの始まる時間だ。風呂にはもう入り終わったし、パジャマには着替え終わった。桜子の主は早寝早起きなので、この時間には寝室のベッドで寝息を立てているはずだ。
家主の寝静まった時間に、寝間着姿でキッチンをうろつくのも、また心が痺れるような背徳行為である。どきどきと胸を高鳴らせながら、桜子は冷蔵庫からコーヒー牛乳を取り出して、マグカップに注いだ。
扇桜子は優秀なメイドだ。多少テキトーな側面はあるが、あらゆる職務は完璧にこなす。だが、それでも理性のタガが外れやすい深夜帯は、タブーには抗いがたいのだ。
「ふ、うふふ……。んっふっふ~ん♪」
思わず鼻歌も出ちゃうってなもんである。
ちん、という軽快な音。あったまったトースターから、遠赤外線の光が消えていく。桜子は、2枚のカレーパンを皿の上に載せ、マグカップと一緒に自室へと運んだ。
ちょうどアニメの始まる時間だ。桜子はカレーパンとマグカップをちゃぶ台の上に置くと、ぼすん、とベッドの上に腰かけた。大量の特撮ヒーロー、ロボットアニメのフィギュア、プラモな並ぶ部屋で、アラサー独身女子による一人アニメ鑑賞会が始まろうとしている。
お供はカレーパンとコーヒー牛乳。ああ、なんて怠惰で、退廃的で、背徳的な時間だろう!
アダムとイブが楽園を追放されたその時から、人間はタブーを犯すために生きているのだ! 深夜のカレーパンはまさにパラダイス・ロスト。闇を切り裂き光をもたらすのだ。明日、体重計に乗るのを恐れていては、この喜びは味わえない!
「まだまだ20代……。ムチャの効くうちに、ムチャのできる生活を堪能しておかないと……」
そうこうしているうちに、アニメが始まった。
桜子は、テレビ画面をしっかり見つめたまま、カレーパンの片方を手に取る。ぽろぽろと衣がこぼれて、絨毯の上に散らばった。
「これ、あんま良くないな……。手に油もつくし……」
できれば両手で、豪快にがぶっと噛み付きたいものなのだが。本来これは、紙袋に入れたまま食べるのが正解なのだろうが……。ええい、ままよ。
がぶっ。
サクリとした衣の感触。ふわりとしたパン生地の感触。そしてその中から、あの渋谷のカレー屋で食べた濃密な味わいが蘇る。
カレーパンには、マイルド、ホット、そして欧風の三種類があった。今食べたのは、おそらく欧風だ。中の黒っぽい色合いは、桜子を大いに悩ませた、あの憎くも愛おしい欧風カリーとまったく同じものである。繊維の解けたすじ肉が、驚きの柔らかさを伴って口の中に転がり込んできた。
がぶっ。がぶっ。
乾いた喉は、コーヒー牛乳の甘ったるい味で潤す。すると、またカレーパンの油っこい衣が恋しくなって、自然とついばんでしまう。
カレーパンって、どうしてこんなジャンクな味わいなのに、どことない上品さを感じられるのだろう。
ここまでくると、もう衣がこぼれることなんて気にしてはいられない。
視線はアニメに食いついたまま、口はしっかりカレーパンに食いついている。
視覚と聴覚はアニメに、味覚と嗅覚と触覚はカレーパンに。五感の全てをフルに生かして、深夜の退廃的な時間を過ごす。桜子は、あっという間に2つのカレーパンを平らげてしまった。三つの感覚を微かに持て余し、油にまみれた指をティッシュで拭く。
「(……あと2個。アニメが終わったら、またトースターであっためてこよう……)」
夜の帳は自制心を覆い隠す。桜子の心は、まさに宵闇に放たれた獣であった。心がカレーパンを求めるままに、あの高カロリー惣菜パンを追加で2つも胃袋に入れることに、なんの疑問も覚えなくなっている。
結局、桜子はその夜、追加で5個のカレーパンを消費した。
翌朝、彼女の雇い主が見たのは、普段まったく使われていないトレーニング室のルームランナーで全力疾走する、ジャージ姿の扇桜子の姿であったという。