第 7話 帰還行
あまり良い状況とは言えなかった。
今、春樹と沙羅は病院にいる。前日に騒動に巻き込まれて発生した怪我人の見舞いのために。
受付の女性に病室を聞いて、3階にやってきたまではよかった。
3階の廊下で暴力沙汰を起こし、やりかけた人命救助は途中で放り出し、現在病室の一室を不法占拠中。
そして、そのおこないを非難するかのように、病院のスタッフ・患者達がけたたましく引き篭もる部屋のドアをノックし続けている。
点滴のスタンドは、つっかえ棒には不向きだった。
扉の溝にうまく引っ掛けられないし、ノックの振動ですぐに外れて倒れてしまう。
そもそも、扉を叩いている連中は引き戸の開け方を知らないらしく、先程から執拗に押すだけだ。
それでも、力だけは半端では無い様子で、スライド式のドアはレールから外れてしまいそうだ。
故に、春樹は扉に背中を預け、懸命に彼らの侵入に抗っている。
そんな忙しい中だというのに、隣りの恋人は何故か機嫌が良い。
「いやー、さっきのハルキ、必死だったよねぇ」
「反省してます。いや、マジで」
ニヤニヤする沙羅に、げんなりとした様子で春樹は言う。
「そもそも、エレベーターに乗ってきたヤツは1人だったんだから、落ち着いて倒すなりどかすなりした後、それに乗って1階へ脱出すれば良かった。パニクッてどうかしてました。ごめんなさい」
どこか投げやりな春樹の唇に、沙羅の人差し指がびしっ!と押し当てられる。
「ぶっぶーっ!そういう事を言っているんじゃありません」
どこまでもご機嫌な彼女。
「えっと、今ちょっと取り込んでいるので、手短かに回答に移って貰える?」
ガタガタと揺れる扉はもう限界に近い。ノックしている陣営にはさっきから何人か援軍が加わっている様な気がする。
「ハルキくんは、女心がわかってないですねぇ」
「いや、あなたはこの状況がわかっていないでしょう!」
突っ込みは華麗に流され、沙羅による解説が始まる。
「いいですか?身の安全を確保しただけでは、女の子を守った事にはなりません。心を守ってあげて初めて、ハルキはナイト様になれるのです」
「よくわかりません」
「冬の寒~い夜、2人で外を歩いているときに。彼氏から、どこぞで買ってきたダウンジャケットをポイッて投げ渡されるよりも、つないだ手をポケットに入れてもらえる方が、よっぽど暖かいってコト」
「意味がわかりません」
「ハルキが、着ている上着をふわっとかけてあげるのも悪くないですね」
「それだと俺が寒いのでやりたくありません」
「……朴念仁。ちょっとは空気読もうよ~」
「サラ先生、お願いですから真面目に現状を受け入れて下さい」
「はいはい。それでは、本日の講義はここまで。気を付けて帰宅しましょう」
言うや否や、沙羅は窓に歩み寄り、カラカラと開け放つ。
「出入り口以外から出るのは不作法だけど、雨どいを伝っていけば下に降りられるから」
「……あ」
冷静さを欠いていたとは言え、この病院の窓が学校の教室にある様な自由に開閉出来るタイプのものである事に、ようやく気付いた春樹であった。
近年の病院では、自殺や転落防止のためか、窓の開閉に制限を設けてある施設も少なくない。
無論、こういった病院では屋上もフェンスで囲われており、早まった真似はまず出来ない。
この病院は、建てられてからそれなりの年数が経過しているのだろう。
掃除は行き届いているものの、あちこちに経年劣化が見受けられる。
ナースステーションの事務机に設置されていたパソコンも、随分型式の古いタイプのものばかりだった。
「さ、これ以上騒がしくなる前に、お家に帰りましょう」
下の様子を素早く確認した沙羅が、春樹に向かって手招きする。
「わかった。すぐに行くから、サラ、先に行って」
「ダメダメ、こういうのは、重い方から降りていくものでしょう?」
「~~~!」
沙羅がこちらの決定に異を唱えたとき、説き伏せるのは容易ではない。
まして、今はそんな時間も無いので、春樹は自分自身が先に降りる事にした。
蹴りつける様にドアを離れ、窓を抜けて1階へと続く雨どいのパイプにしがみつく。
程なくしてドアが押し倒され、看護師達が病室内に押し入ってくるが、その時には春樹は地面に辿り着こうとしていた。
沙羅はそれに続く前に外から窓を閉めた。
幸い、看護師達の動きにはそれほど敏捷性が無い。引き戸の開け方も知らないのだ。こうしておくだけでかなりの時間が稼げるだろう。
するすると降りてくる沙羅。気が気ではない春樹だったが、周囲への警戒も怠らない。
降りる途中、沙羅は2階の様子も伺ってみたが、どうやら3階と同じ様な事が起こっているらしい。
散発的な悲鳴が聞こえてきた。病院で変異した連中が外に出てくるのも時間の問題に思える。
1階の受付の女性達にも避難を呼びかけなければ。
春樹のその言葉に沙羅は難色を示したが、流石にこのままでは見殺しにする事にもなりかねない。
春樹の説得に渋々了承し、2人で1階の受付に向かって歩き出す。
建物の外を進み、改めて入り口から病院内に入る。
「……誰もいないな」
受付カウンターの女性も、まばらにいた来院者達も、他のスタッフ達も。
病院の1階は無人になっていた。
見舞いに来てから、まだ30分と経っていないはずだ。
異変を察知した誰かが、周りに避難を促したのかも知れない。
そんな事を考えていたちょうどその時。
パトカーのサイレンが聞こえてきた。通報を受けて駆けつけて来たのだろう。
しばらくその場で待っていると、3人の警察官が入り口から病院内に入って来た。
春樹達を目に留めると、中年の太った警察官が声を掛けてきた。
「通報があったんで来てみたんだけど。人が襲われているって本当ね?」
「通報したのは僕達じゃないですけど、襲われているのは確かです」
この地方独特の訛りのイントネーションの質問に、春樹は簡潔に答える。
同時に、物凄くイヤな予感に襲われる。3人とも、『球』が点滅しているからだ。
「悪いけどさぁ。あんたなんかも一緒に来てくれないね?いちょう、現場確認しないといけないからよ」
「え?いや、僕ら、これから逃げようと思ってたんですけど」
「大丈夫さぁ。警官3人もいるから、怪我とかしないはずよ」
有無を言わせず中年警察官はロビーを歩き出す。
若い警察官が、春樹の肩に手を置き謝ってきた。
「ごめんなぁ。蔵元さん、強引な人だから。キミらの安全はちゃんと確保するし、状況が確認出来たらすぐ帰すから、ちょっとだけ我慢してな」
「……はぁ」
結局押し切られてしまった春樹。やや後ろから沙羅が睨んでいる。かなり不機嫌だ。
こうなっては仕方が無いので、2人は警察官達の後ろについて歩く。
しばらく辺りを見回していた蔵元だったが、春樹の方を向いて尋ねてきた。
「誰もいないけど。兄ぃ兄ぃ達が襲われたのは2階?3階?」
「3階です。でも、2階でも同じ様な事が起きてるみたいですね」
「あんし大規模なの?1人か2人じゃないわけ?」
「妙な感染症みたいなんですよ。凶暴になって、それに噛まれた人もおかしくなるって言うか……」
「……で、おかしくなった人も誰かを噛む?」
「はい。だから、上はとんでもない事になってます」
「……それ何てホラー映画?じゃあ3階から行こうかや」
言いつつ、エレベーターに乗り込む。そこで沙羅が春樹の腕を掴んで言った。
「ここ、ホントに危険なんで、わたし達は行きたくないです。おまわりさん達だけで行ってもらえます?」
「はあ?いやいや、ちょっと確認するだけだから危なくないよ?手に負えそうになかったら応援呼ぶし」
「その確認をおまわりさんがやればいいじゃないですか」
「110番が来たからには、通報した人も立ち会ってくれないとさぁ」
「通報したのはわたしじゃありませんから。もしかしたら上で待ってるかも知れないですよ?」
勝手に閉まろうとするエレベーターの扉を手で制しながら、蔵元は難しい顔をしている。
沙羅もここはどうしても譲らないつもりらしい。
春樹自身も、一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
しかし、警察側にも何らかのマニュアルがあるのか、中々折れようとしない。
しばらく言い争っていると、若い警察官が何かを見つけてこちらに声をかける。
「蔵元さん。階段から誰か降りてきますよ?」
「あ?じゃ、ちょっと話聞いてみるか」
蔵元がエレベーターから出てくると、若い警察官はホールの隣にある階段に向かって駆け出す。
つられて春樹達も階段に目を向ける。
踊り場からゆっくりと降りてくる人影。その男性は看護師の服を身に着けていた。
ふらふらとおぼつかない足取りの彼は、全身が噛み千切られたようにひどい怪我を負っていた。
千切れかけた右腕は、肘から先がぶらぶらと不気味に揺られている。
「おいおいおい!あんた大丈夫ね!?」
慌てて若い警察官は彼を背負うように肩を貸す。
「危ない!おまわりさん、その人から離れて!」
春樹が叫んだ時にはもう手遅れだった。看護師の男が警察官の首筋に噛み付いた。
その歯が一気に動脈に達したのか、鮮血が撒き散らされる。
とんでもない力だった。
通常、人間が噛み付いたところで、人の頚動脈を切断するのは不可能に近い。
人の咬合力では、いくら表面に近い頚動脈とはいえ、皮膚や筋肉、気道といった組織に阻まれ、意外に脆い人自身の歯のせいもあって成し遂げるのは中々難しい。
それを、特に鍛えているわけでも無さそうな華奢な体格の看護師が簡単にやってのけた。
蔵元ともう1人の警察官は、一瞬呆気にとられていたが、我に返ると慌てて看護師の男を引き剥がしにかかる。
しかし、叩いても引っ張っても、男は警察官から離れようとしない。
そうして悪戦苦闘が続いていると、2階から何人か『援軍』が降りてきた。
「何してる?兄ぃ兄ぃ、あんたも手伝って……あっがっ!?」
近くに居た春樹の肩を掴んだ蔵元が、痛みに顔をしかめつつ、もう片方の手元を見ると、手首が噛み付かれていた。
凶行に及んだ看護師ではなく、被害者であるはずの若い警察官によって。
「う、うわああっ」
蔵元と一緒に若い警察官を救出にかかっていたもう1人の警察官は、あまりに異様なその光景にすっかり取り乱し、1人だけ外に向かって走り出して行った。
市民を守る警察官としてはあまりにも無責任だが、この判断は正しいと言える。
春樹も蔵元の手を振り払い、沙羅と共に出口に向かって走り出す。
途端、足首を掴まれてその場に転倒してしまった。
「た、助けてくれぇ!」
振り返ると、怯えた表情の蔵元が春樹にしがみついていた。
その蔵元に、後からやって来た『援軍』達が1人、また1人と倒れ伏した蔵元に群がっていく。
「うおおっ!は、離せ!」
半狂乱になって蔵元を蹴りつける春樹。だが、体のあちこちを喰われながらも、蔵元は万力のような力で春樹の足を離さない。
痛みに顔を歪め、声にもならない悲鳴をあげている。
このままじゃ、俺まで……!
パニックになった春樹が叫び出しそうになったその時。
ぐしゃり、と嫌な音を立てて、唐突に蔵元の頭が潰された。頭上から落ちてきたのは、観葉植物の植木鉢。
成人男性の背丈ほどの大きさのやしの木みたいなもの。鉢そのものもかなりの大きさだ。柔道で言う背負い投げの要領で勢いよくそれを振り下ろしたのは、沙羅だった。
続いて、春樹の足を掴んだ蔵元の右腕を思いっきり踏みつけた。
頭の中身を床に撒き散らせた蔵元は、痙攣しながらあっさりと春樹の足を開放した。
「ハルキ、行くよ!走れる?」
素早く春樹を助け起こし、沙羅は出口を指差す。
「あ、ああ。ありがとう。サラこそ、大丈夫?」
「うん。家に帰ったら、お風呂入らないとね?」
派手に飛び散った蔵元の血液やら脳漿が、2人の服や体に付着していた。
特に、沙羅の方は先に倒した少女の返り血も浴びてしまっている。
化け物達は、動かなくなった蔵元の体を貪っているが、何人かは春樹達の方に向き直り、歩み寄って来る。
とにかくこの病院は、早く立ち去った方が良い。
もはや、助けるべきまともな生存者はここにはいないだろう。
今度こそ2人は、家路につくのだった。
幸い、帰り道では誰にも出会わなかった。
時刻は午前11時を少し回ったところ。人通りは少ない時間帯だった。
おかげで、汚れてしまった2人、とりわけ血まみれの沙羅が不審に思われる心配もせずに済む。
病院を出た所で初めて気付いたのだが、沙羅の『球』が点滅から赤に戻っていた。いつの間にか、危機を脱していたらしい。
冷静に考えると、2階は3階よりもひどい状況だったと推測される。
単純に、3階よりも人が多かったのだろう。
春樹達が病院に着いた頃、既に異変は始まっていたのだ。
始まりは3階の患者2人。同室の患者が、喰われながらも必死にナースコール。
駆けつけた医師や看護師も巻き添えになり、一部は2階に降りて行って、同じ様にその場に居た人達に襲い掛かる。
ただならぬ悲鳴を聞いた各病室の患者達も一斉にナースコールを押したのだろう。
病院中のスタッフや野次馬達が、鼠算式に変異していったのかも知れない。
病院内が静かだったのは、大半の人間が既に『向こう側』に回っていたから。
1階に居た人達も、騒ぎを聞きつけて上の階に様子を見に行った可能性が高い。
その際に誰かが警察に通報したのだと考えられる。
そして、あのエレベーター。
気になるのはそこに居た化け物の存在だ。
彼はどうしてエレベーターの中に居たのだろう。
2階の生存者が、重傷を負って最後の力を振り絞って逃げ込んだエレベーターの中で変異したものだったとしたら、2階のエレベーターホールも相当な惨状だったと思われる。
もし、春樹達と同様に、エレベーターでの脱出を考える者がいたとしたら、もちろんエレベーターを呼ぼうとするだろう。
3階で乗ったエレベーターが2階で誰かに呼ばれた場合。
考えるまでも無くエレベーターは2階で止まる事になる。
化け物が集まる阿鼻叫喚のフロアに。
……どの道、ただの推測だ。これ以上考えたところで仕方の無い事だった。
無事家に到着した春樹と沙羅は、すぐに玄関に鍵をかけ、家中の窓のカーテンを閉めた。
ようやく一息ついたところで、2人は自分達の身なりに改めて向き合う事となった。
春樹の方はズボンに多少血が付いている程度だったが、沙羅の方は大変な事になっている。
まさに修羅場を潜り抜けた女戦士といった有様だ。
なので、まずは沙羅が風呂で汚れを落とす事になった。
シャワーの流れる音が聞こえてくるリビングで、春樹はソファに身を沈めていた。
今日は散々な目に遭った。
それこそ死ぬ様な思いをしたのだが、春樹の頭痛のタネはそれだけではない。
恋人に殺人を犯させてしまった……
最初の少女は既に変異した化け物だった。しかし、あの警察官は、れっきとした人間だった。
つまり、沙羅は言い訳の出来ない『人殺し』になってしまった。
それは春樹を守るためのおこないだ。春樹が気にしないはずは無い。
当の本人は、全く気にする様子は無い。初めて人を殺めた後のセリフが、
「汚れちゃったからお風呂に入りたい」
だ。普通の人間が目の当たりにしたら、間違い無く沙羅から逃げ出す光景だろう。冷酷な殺人鬼そのものだ。
では、春樹はそんな沙羅に対して、恐怖を抱いたり、おぞましく思ったりしただろうか。
否、それはありえない。
沙羅に初めて自分の『能力』の事を話した日を、春樹は今も忘れていない。
友人達には嘘吐き呼ばわりされ、両親からは精神疾患を疑われた。
彼女にそれを打ち明ける事は、相当な勇気を振り絞る必要があった。
それなのに彼女ときたら、疑ったり嘲笑する事も無くただ一言、
「大変だったね」
と言ってくれた。春樹の頭を両手で包み、胸に抱きかかえた。そして、もう一言。
「もう、大丈夫だから」
この瞬間、春樹は見つけた、と思った。
自分よりも大切なもの。どんな事をしてでも、守りたいもの。
それなのに、自分は守られているばかりだ。
次は、次こそは、自分があの子を守るのだ。祈るように顔の前で両手を組み、春樹は改めて決意するのだった。
その日、沙羅は1時間以上風呂から出てこなかった。
現実のおまわりさんはもっとしっかりしていると思います。
実家の敷地内にハブが出没した時に駆けつけてくれたおまわりさんは、
それはもう頼もしいお方でした。。。