第44話 Determination②(子の願い)
海の中を漂っていた。海の上ではなく、海の中。水上に浮いているのではなく、水中で揺られていた。
風を感じる事はなく、波を感じる事もない。肌が感知するのは、あくまでも水の流れだけだ。
冷たい訳ではなく、かといって熱い訳でもない。取り巻く水の温度が自分の体温と同じだからか。
一番最初の記憶は、その時の感覚。『母なる海』という言い回しを目にする事があるが、実際にその中に居ると分かる事がある。
何も、感じない。
暑いとか、寒いとか。
痛いとか、気持ちいいとか。
嬉しいとか、悲しいとか。
怖いとか、寂しいとか。
そういった、あらゆる気持ちや感情といった揺らぎが、ここには全く無い。
どこまでも続くのは、ただただ、浮遊する事の虚無感だけだ。
永遠にも感じられる時間。感じる事も考える事も無く、水中を漂う。
暗く、温かく、心細く、居心地の良い。ある時、それは唐突に終わりを迎える。
眩しい。目蓋を貫通する光の奔流。不快感に表情を歪めながら、目を開く。
そこには、自分を覗き込む男の顔があった。何か独り言を呟きながら、涙や鼻水を垂れ流している。
身体が重い。胸が苦しい。ああ。ここは、外なのか。誕生して最初に覚えた感覚は、最低の気分だった。
父さんは優しかった。色々な事を教えてくれたし、色々な話をしてくれた。
僕がどういう存在で、どれほど大切であるかを、何度も何度も言い聞かせた。
父さんは、僕を見かけると顔を綻ばせ「おいで」と言う。
母さんは怖かった。事ある毎に僕から血を抜き取り、大きな機械にはりつけた。
僕がどういう存在で、どれほど危険であるかを、何度も何度も言い聞かせた。
母さんは、僕を見かけると顔を引きつらせ「それ以上近寄るな」と言う。
周りの全ては『白』ばかりだった。白い服。白い手袋。白いマスク。白い部屋。
僕は無菌室の実験体。外に出る事は許されない。中庭で本を読むくらいは出来るけれど、中庭は外とは言えない。そこから見上げる空は、ひどく狭い。
外に出たいと思った事は無い。外がどんな所か、僕は知らないから。
ただ、父さんと一緒に過ごせる場所がここだけというのは、少しだけ寂しかった。
母さんは……近くに僕が居ると険しい顔つきになる。これも、少しだけ寂しかった。
研究所の職員である、若い女の人が教えてくれた。
家族は、いつも一緒に居るもの。
家族は、互いを思いやるもの。
家族は、互いの事が大好きなもの。
僕に語り掛けるその口調は穏やかで、優しくて。僕は彼女の事が大好きになった。
その人は突然居なくなった。きっかけは、本当に些細な事だった。
ある日、僕は怪我をした。牛乳を飲もうとして、手を滑らせコップを落とした。
派手な音と冷たい牛乳を撒き散らし、コップは粉々に砕け散った。慌てて片付けようとした僕は、右手の中指を切ってしまった。
偶然その場に居合わせた彼女は、適切に処置をしてくれた、筈だった。
思いの外、傷が深かったのか。想定以上の出血に、彼女は自分の持っていたハンカチをガーゼ代わりに使った。
咄嗟に傷口を押さえたハンカチは、見る見るうちに赤い染みを広げていった。それを持つ彼女の手には、絆創膏が巻かれていた。
彼女が居なくなったのは、その翌日の事だった。3人の同僚を道連れにして。
バイオハザード。
研究所内は騒然となり、僕は暗く狭い部屋へと押し込まれた。
5つの暗号鍵の先にある僕の部屋。そこを最初に訪れたのは、母さんだった。
嬉しさのあまり、分厚いアクリルに張り付いて呼び掛ける。
「母さんっ……!」
「よく分かったでしょう?」
その目はあまりにも冷たかった。
「化物。あなたは、そういうモノなのよ」
その日から、僕はこの人の事を母さんと呼ばなくなった。
月日が過ぎていく。
独房から戻された僕は、与えられた箱庭で人間の振りをする。
化物と呼ばれるのは怖い。
避けられるのは辛い。
人と触れ合えないのは、寂しい。
父さんも僕の所に来ない。仕方の無い事だ。研究所の職員は、皆忙しい。
「か、……マリア博士。こんにちは」
「ええ、こんにちは」
意外な来客だった。この人は、僕の事を誰よりも恐れていた筈なのに。
「最近、随分と大人しいみたいね」
「……はい」
「あなた、自分の存在意義を自覚しているの?」
「……?」
「あなたにしか出来ない事があるでしょう? 私達が求めているのは、可能性なのよ」
「……」
「他の人間と変わらない存在なら、劇薬を内包するあなたは単なる害虫でしかない。
あなたが人として生きていく為には、『それ』のリスクを負ってでも存在を容認するだけの果実が必要なの。
とびきりの、甘い実がね」
示される方向性。僕の生きる道。
必要な事だけを簡潔に述べると、彼女は僕に背を向けた。
「あ、あのっ!」
「……何かしら」
背を向けたまま、顔だけが半分こちらを振り返る。ぼさぼさの長い赤髪が、風もないのにふわりと揺れた。
「僕がそれを成し遂げる事が出来たら、その、あなたの事を『母さん』と呼んでも、良いですか……?」
「……そうね」
イエスでもノーでもない。それでも、答えてくれた。なら僕は、特別な存在になろう。
「身長が146cmに体重が32kg。……食事はきちんと与えているのか?」
「はい。1日に4食。炭水化物・たんぱく質を中心に、3000㎉以上は確実に摂取しています」
白い人達が今日も僕のデータを取る。
「100mを11秒フラット。3000mを8分だって? 握力は……60kg!?」
どうやら、ある程度優秀な成績を示す事が出来たらしい。
病気を自力で治して見せた時にも、周囲からはどよめきがあがっていたし、上手くやれていると思って良いだろう。
僕にとってそれは、さほど難しい事ではなかった。僕の側には『海』があったから。
『海』を出てこの世に生まれた僕は、『海』に帰る術を失ってはいなかった。
意識を深層へと向けると、いつでも自由にそこへ埋没する事が出来る。
『海』は、情報の海だった。
そこへ行けば、欲しいものが手に入った。知りたい事を知る事が出来た。
自身の身体の構造。効率的な運用方法。目標値への到達手順。
人の才能は操作出来る。僕は、自分がなりたい僕になる。
『海』が広くなった事。それは喜びだった。
実験で、僕は誰かの血液を体内に取り込んだ。『人喰屍』のものだと言われたが、詳しい事は分からない。
『海』に潜ってみると、今まで知らなかった事がそこには沢山あった。
新たな『海』は巨大な図書館だ。その人がこれまで刻んできた歴史の全てが、蔵書として保管されている。
その人自身の事や、両親、祖父母、その先の先祖達。受け継いできた情報は余す事無く記されている。
そこから持ち帰ったものの1つ1つが、僕に『成長』をもたらせる。
研究所の職員達から歓声があがる。父さんも嬉しそうだ。
僕は、ここに居ても良いのかも知れない。必要とされているのかも知れない。
『海』は広くなる。誰かの血液を取り込む度に。最近、その『海』が怖い。
浅瀬で水と戯れている間は良かった。けれど、遠く深い場所まで行くと、そこは暗く、冷たい。
水平線は何処までも伸びていく。深く潜れば潜るほど、戻るべき丘は遠くなる。
時折、凄まじい恐怖に襲われる。もし、帰り道を見失えば、僕はどうなるんだろう?
生まれて初めて、『海』で溺れかけた。
上も下も分からなくなり、僕はパニックに陥った。無我夢中でもがくうちに、いつの間にか箱庭の一室で頭を抱えて震えていた。帰って来れたのだ。
怖い。父さんを見付けた時、縋らずには居られなかった。
一瞬、何時かの女の人の事が脳裏をよぎる。身体が強張った。けれど、父さんは拒絶する事無く僕を受け入れてくれた。
僕の所為だ。父さんがおかしくなった。
連日僕の下へサンプルを持ってくる。何日も徹夜を続け、目に見えて憔悴していった。
度重なる摂取で、僕の『海』も広がっていく。恐怖に捉われた僕は、そこから真新しい情報を持ち帰る事が出来なくなっていた。
それは、僕の『成長』の停滞を意味する。僕の価値が、薄れていく。
そんな時、僕に声を掛けたのは、母さんだった。
今の僕に必要なのは、羅針盤であり、海図なのだと教えてくれた。父さんはその手がかりを探している。
あまりにも広大な図書館は、司書1人では管理出来ない。
分類が必要だった。膨大な情報が無造作に積まれると、僕の脳は破綻してしまう。
圧縮し、最適化しなければならない。でも、どうやって?
父さんは、僕と似た様な存在を探しているらしい。即ち、突然変異体。『それ』を内包しつつ、『人喰屍』にならない存在。
血眼になって顕微鏡を覗いていたのは、そういう事か。
僕の遺伝子には人のものと『それ』のものが独立して並存しているらしい。
『人喰屍』の遺伝子は、『それ』に飲み込まれてしまって、人の遺伝子は残っていない。溶け合った2つの遺伝子は、正に『人喰屍』の遺伝子なのだろう。
幸いな事に、僕は血液を体内に取り込めばそれらの見分けが容易につく。つまり、父さんの力になれる。
突然変異体の遺伝子を取り込んで、僕がその機能を入手すれば、父さんはまた僕を見てくれる様になるかも知れない。
母さんも、僕を見てくれるかも知れない。
失敗は出来ない。きっと上手くやって見せる。
「レオナルド、外に出ようか」
父さんからの、突然の提案。でも、僕は驚かなかった。来るべき時が来たのだ。準備は出来ている。
箱庭の中では、望んだものは手に入らなかった。ならば、それを外に求めるしかないのは当たり前の事だ。
何処へ向かうのかは分からない。行き先は聞かされていない。
そんな事はどうでも良かった。僕は父さんについて行く。その行き着く先で、父さんの望むものを手に入れる。
僕は、僕の道を間違えない。譲れない決意だ。
母さんはまたしても僕の所へ訪れた。
「ここを出るそうね」
「はい。父さんと一緒に、探し物を見付ける為に」
「そう。……見付かると良いわね」
消え入りそうな小さな声だった。その後に、母さんは薄く微笑んだ。
それは本当に薄っすらとしたもので、次の瞬間には元の冷たい無表情に戻っていた。でも、とても綺麗だった。
「1つだけ、言っておくわね」
「……? はい」
「あなたの在り方を忘れないで。あなたはあなた。それは、何処へ行っても、何をしても変わらない。
あなたが何を望むにしても、レイモンドが何を欲しても。行き着く先は、1つしか無いのだから」
「えっと……」
抽象的過ぎて、どう答えを返していいものか分からない。戸惑っているうちに母さんは背を向けてしまった。
「分からないならそれで良いわ。レイモンドを、あなたのお父さんの事、頼むわね」
「……はい」
何とか一言だけ返す事が出来た。母さんの背中は、少し小さく見えた。寂しく思ってくれているのかも知れない。
「行って来ます」
届かないと知っていたけれど、その背中に声を掛けた。
僕は、この人の息子になりたい。この人の事を、『お母さん』と、呼びたい。




