表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/44

第44話 Determination②(子の願い)

 海の中を漂っていた。海の上ではなく、海の中。水上に浮いているのではなく、水中で揺られていた。

風を感じる事はなく、波を感じる事もない。肌が感知するのは、あくまでも水の流れだけだ。

冷たい訳ではなく、かといって熱い訳でもない。取り巻く水の温度が自分の体温と同じだからか。

一番最初の記憶は、その時の感覚。『母なる海』という言い回しを目にする事があるが、実際にその中に居ると分かる事がある。

何も、感じない。

暑いとか、寒いとか。

痛いとか、気持ちいいとか。

嬉しいとか、悲しいとか。

怖いとか、寂しいとか。

そういった、あらゆる気持ちや感情といった揺らぎが、ここには全く無い。

どこまでも続くのは、ただただ、浮遊する事の虚無感だけだ。


 永遠にも感じられる時間。感じる事も考える事も無く、水中を漂う。

暗く、温かく、心細く、居心地の良い。ある時、それは唐突に終わりを迎える。


 眩しい。目蓋を貫通する光の奔流。不快感に表情を歪めながら、目を開く。

そこには、自分を覗き込む男の顔があった。何か独り言を呟きながら、涙や鼻水を垂れ流している。

身体が重い。胸が苦しい。ああ。ここは、外なのか。誕生して最初に覚えた感覚は、最低の気分だった。


 父さんは優しかった。色々な事を教えてくれたし、色々な話をしてくれた。

僕がどういう存在で、どれほど大切であるかを、何度も何度も言い聞かせた。

父さんは、僕を見かけると顔を綻ばせ「おいで」と言う。


 母さんは怖かった。事ある毎に僕から血を抜き取り、大きな機械にはりつけた。

僕がどういう存在で、どれほど危険であるかを、何度も何度も言い聞かせた。

母さんは、僕を見かけると顔を引きつらせ「それ以上近寄るな」と言う。


 周りの全ては『白』ばかりだった。白い服。白い手袋。白いマスク。白い部屋。

僕は無菌室の実験体モルモット。外に出る事は許されない。中庭で本を読むくらいは出来るけれど、中庭は外とは言えない。そこから見上げる空は、ひどく狭い。

外に出たいと思った事は無い。外がどんな所か、僕は知らないから。

ただ、父さんと一緒に過ごせる場所がここだけというのは、少しだけ寂しかった。

母さんは……近くに僕が居ると険しい顔つきになる。これも、少しだけ寂しかった。

研究所の職員である、若い女の人が教えてくれた。

家族は、いつも一緒に居るもの。

家族は、互いを思いやるもの。

家族は、互いの事が大好きなもの。

僕に語り掛けるその口調は穏やかで、優しくて。僕は彼女の事が大好きになった。


 その人は突然居なくなった。きっかけは、本当に些細な事だった。

ある日、僕は怪我をした。牛乳を飲もうとして、手を滑らせコップを落とした。

派手な音と冷たい牛乳を撒き散らし、コップは粉々に砕け散った。慌てて片付けようとした僕は、右手の中指を切ってしまった。

偶然その場に居合わせた彼女は、適切に処置をしてくれた、筈だった。

思いの外、傷が深かったのか。想定以上の出血に、彼女は自分の持っていたハンカチをガーゼ代わりに使った。

咄嗟に傷口を押さえたハンカチは、見る見るうちに赤い染みを広げていった。それを持つ彼女の手には、絆創膏が巻かれていた。


 彼女が居なくなったのは、その翌日の事だった。3人の同僚を道連れにして。

バイオハザード。

研究所内は騒然となり、僕は暗く狭い部屋へと押し込まれた。

5つの暗号鍵の先にある僕の部屋。そこを最初に訪れたのは、母さんだった。

嬉しさのあまり、分厚いアクリルに張り付いて呼び掛ける。

「母さんっ……!」

「よく分かったでしょう?」

その目はあまりにも冷たかった。

「化物。あなたは、そういうモノなのよ」

その日から、僕はこの人の事を母さんと呼ばなくなった。


 月日が過ぎていく。

独房から戻された僕は、与えられた箱庭で人間の振りをする。

化物と呼ばれるのは怖い。

避けられるのは辛い。

人と触れ合えないのは、寂しい。


 父さんも僕の所に来ない。仕方の無い事だ。研究所の職員は、皆忙しい。

「か、……マリア博士。こんにちは」

「ええ、こんにちは」

意外な来客だった。この人は、僕の事を誰よりも恐れていた筈なのに。

「最近、随分と大人しいみたいね」

「……はい」

「あなた、自分の存在意義を自覚しているの?」

「……?」

「あなたにしか出来ない事があるでしょう? 私達が求めているのは、可能性なのよ」

「……」

「他の人間と変わらない存在なら、劇薬を内包するあなたは単なる害虫でしかない。

あなたが人として生きていく為には、『それ』のリスクを負ってでも存在を容認するだけの果実が必要なの。

とびきりの、甘い実がね」

示される方向性。僕の生きる道。

必要な事だけを簡潔に述べると、彼女は僕に背を向けた。

「あ、あのっ!」

「……何かしら」

背を向けたまま、顔だけが半分こちらを振り返る。ぼさぼさの長い赤髪が、風もないのにふわりと揺れた。

「僕がそれを成し遂げる事が出来たら、その、あなたの事を『母さん』と呼んでも、良いですか……?」

「……そうね」

イエスでもノーでもない。それでも、答えてくれた。なら僕は、特別な存在になろう。


 「身長が146cmに体重が32kg。……食事はきちんと与えているのか?」

「はい。1日に4食。炭水化物・たんぱく質を中心に、3000㎉以上は確実に摂取しています」

白い人達が今日も僕のデータを取る。

「100mを11秒フラット。3000mを8分だって? 握力は……60kg!?」

どうやら、ある程度優秀な成績を示す事が出来たらしい。

病気を自力で治して見せた時にも、周囲からはどよめきがあがっていたし、上手くやれていると思って良いだろう。

僕にとってそれは、さほど難しい事ではなかった。僕の側には『海』があったから。


 『海』を出てこの世に生まれた僕は、『海』に帰る術を失ってはいなかった。

意識を深層へと向けると、いつでも自由にそこへ埋没する事が出来る。

『海』は、情報の海だった。

そこへ行けば、欲しいものが手に入った。知りたい事を知る事が出来た。

自身の身体の構造。効率的な運用方法。目標値への到達手順。

人の才能は操作出来る。僕は、自分がなりたい僕になる。


 『海』が広くなった事。それは喜びだった。

実験で、僕は誰かの血液を体内に取り込んだ。『人喰屍』のものだと言われたが、詳しい事は分からない。

『海』に潜ってみると、今まで知らなかった事がそこには沢山あった。

新たな『海』は巨大な図書館だ。その人がこれまで刻んできた歴史の全てが、蔵書として保管されている。

その人自身の事や、両親、祖父母、その先の先祖達。受け継いできた情報は余す事無く記されている。

そこから持ち帰ったものの1つ1つが、僕に『成長』をもたらせる。

研究所の職員達から歓声があがる。父さんも嬉しそうだ。

僕は、ここに居ても良いのかも知れない。必要とされているのかも知れない。


 『海』は広くなる。誰かの血液を取り込む度に。最近、その『海』が怖い。

浅瀬で水と戯れている間は良かった。けれど、遠く深い場所まで行くと、そこは暗く、冷たい。

水平線は何処までも伸びていく。深く潜れば潜るほど、戻るべき丘は遠くなる。

時折、凄まじい恐怖に襲われる。もし、帰り道を見失えば、僕はどうなるんだろう?


 生まれて初めて、『海』で溺れかけた。

上も下も分からなくなり、僕はパニックに陥った。無我夢中でもがくうちに、いつの間にか箱庭の一室で頭を抱えて震えていた。帰って来れたのだ。

怖い。父さんを見付けた時、縋らずには居られなかった。

一瞬、何時かの女の人の事が脳裏をよぎる。身体が強張った。けれど、父さんは拒絶する事無く僕を受け入れてくれた。


 僕の所為だ。父さんがおかしくなった。

連日僕の下へサンプルを持ってくる。何日も徹夜を続け、目に見えて憔悴していった。

度重なる摂取で、僕の『海』も広がっていく。恐怖に捉われた僕は、そこから真新しい情報を持ち帰る事が出来なくなっていた。

それは、僕の『成長』の停滞を意味する。僕の価値が、薄れていく。


 そんな時、僕に声を掛けたのは、母さんだった。

今の僕に必要なのは、羅針盤であり、海図なのだと教えてくれた。父さんはその手がかりを探している。

あまりにも広大な図書館は、司書1人では管理出来ない。

分類が必要だった。膨大な情報が無造作に積まれると、僕の脳は破綻してしまう。

圧縮し、最適化しなければならない。でも、どうやって?


 父さんは、僕と似た様な存在を探しているらしい。即ち、突然変異体。『それ』を内包しつつ、『人喰屍』にならない存在。

血眼になって顕微鏡を覗いていたのは、そういう事か。

僕の遺伝子には人のものと『それ』のものが独立して並存しているらしい。

『人喰屍』の遺伝子は、『それ』に飲み込まれてしまって、人の遺伝子は残っていない。溶け合った2つの遺伝子は、正に『人喰屍』の遺伝子なのだろう。

幸いな事に、僕は血液を体内に取り込めばそれらの見分けが容易につく。つまり、父さんの力になれる。

突然変異体の遺伝子を取り込んで、僕がその機能を入手すれば、父さんはまた僕を見てくれる様になるかも知れない。

母さんも、僕を見てくれるかも知れない。

失敗は出来ない。きっと上手くやって見せる。


 「レオナルド、外に出ようか」

父さんからの、突然の提案。でも、僕は驚かなかった。来るべき時が来たのだ。準備は出来ている。

箱庭の中では、望んだものは手に入らなかった。ならば、それを外に求めるしかないのは当たり前の事だ。

何処へ向かうのかは分からない。行き先は聞かされていない。

そんな事はどうでも良かった。僕は父さんについて行く。その行き着く先で、父さんの望むものを手に入れる。

僕は、僕の道を間違えない。譲れない決意だ。


 母さんはまたしても僕の所へ訪れた。

「ここを出るそうね」

「はい。父さんと一緒に、探し物を見付ける為に」

「そう。……見付かると良いわね」

消え入りそうな小さな声だった。その後に、母さんは薄く微笑んだ。

それは本当に薄っすらとしたもので、次の瞬間には元の冷たい無表情に戻っていた。でも、とても綺麗だった。

「1つだけ、言っておくわね」

「……? はい」

「あなたの在り方を忘れないで。あなたはあなた。それは、何処へ行っても、何をしても変わらない。

あなたが何を望むにしても、レイモンドが何を欲しても。行き着く先は、1つしか無いのだから」

「えっと……」

抽象的過ぎて、どう答えを返していいものか分からない。戸惑っているうちに母さんは背を向けてしまった。

「分からないならそれで良いわ。レイモンドを、あなたのお父さんの事、頼むわね」

「……はい」

何とか一言だけ返す事が出来た。母さんの背中は、少し小さく見えた。寂しく思ってくれているのかも知れない。

「行って来ます」

届かないと知っていたけれど、その背中に声を掛けた。

僕は、この人の息子になりたい。この人の事を、『お母さん』と、呼びたい。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ