第41話 絶海の孤島⑦
レオナルドの落胆もさる事ながら、父レイモンドの動揺は激しいものだった。
「そんな筈は無い! お前以外に、自我を保っている感染者など……!」
「……うん。初めてのケースではあった。でも彼女は、僕の求めているものを持ってはいない」
沙羅は先ほどから呼吸の度に血を吐き出している。どうやら、気管支を著しく損傷しているらしい。
痛がる様子は無いが、傷は決して浅いものではなく、傷口からの出血も酷い。
「沙羅姉!」
花梨が駆け寄ろうとするが、沙羅はそれを手で制した。レオナルドが近くに居る以上、迂闊に身内を近付けたくはなかった。
レオナルドはしばらく呆然と虚空を見つめていたが、やがて沙羅を見ると小首を傾げた。
「……でも、不思議なんだよね。キミには、他の何かが混じり込んでいる」
その一言を呟くと、再び沙羅に襲い掛かる。
「……っ!」
再開される戦闘。しかし、先程までのそれとは違い、沙羅にとって明らかに不利な状況だった。
沙羅の動きが鈍い。片方の肺が潰された事で、うまく酸素を取り込めていない所為だろうか。
時折吐き出される血が、彼女の呼吸を阻害している。
急所への痛打は何とか避けているものの、目に見えて沙羅の傷は増えていく。
真人や花梨は何も出来ない現状に歯噛みしていたが、春樹は冷静に機を窺っていた。右手の指は、拳銃のグリップをきつく握り締め、先端が血の気を失い白くなっている。
フレーザーは先程から虚ろな目でぶつぶつと独り言を垂れ流している。常軌を逸した雰囲気を纏っているが、正気を失っている訳ではなさそうだった。
まるで思考の海から何かを拾い上げようともがいている様に見えた。
レオナルドは沙羅の身体に人差し指を突き立てる度に、それを口に運び、何かを確かめようとするかの様に味見を繰り返す。
「……なるほど、なるほど。そういう事か。うん、解った様な気がするよ」
不意に、レオナルドの攻撃が止み、微笑みながら沙羅に向かって語り掛ける。
「……よかったら、わたしにも教えてくれる?」
不規則な呼吸を繰り返しつつも、沙羅は会話に応じた。
「大体察しはついてるんでしょう? どうしてキミは、そんなにお腹を庇うのさ?」
「……っ!」
その言葉の先を遮るかの如く、負傷した身体に鞭を打ち、沙羅はレオナルドに攻勢を仕掛ける。
レオナルドは冷静にそれに対処する。両者の優劣の差は拡大の一途を辿りつつあった。
「喜ばしいじゃあないか? 僕ら感染者も、命を創り出せる事が証明されたんだから」
「……何だって?」
レオナルドの言葉に反応を示したのはフレーザーだった。息子に視線を送り、その先を促す。
「父さん、彼女は妊娠している。寄生されたのに自我を保っているのは、その辺りに秘密がありそうだ」
「そんな、馬鹿な……」
春樹の小さな呟きは、誰にも拾われないまま、虚空へと掻き消えた。
能山沙羅に子が宿る事は無い。
過去に受けた凄惨な陵辱によって、彼女の生殖機能は破壊されている。
かつて沙羅が告白した事実。それを嘘だと疑った事は1度も無い。
嘘であって欲しいとは何度も考えたが、春樹はその事実を受け止めた。その上で、彼女を愛していこうと決意したのだ。
たとえ子を成せなくとも。彼女が居て、自分が居て。互いが想い合っていれば、それはもう家族だ。
自分と家族になって欲しい。そう言って、春樹は沙羅と結ばれた。
2人だけが共有する掛け替えの無い秘密。それが、唐突に破られた。
「なるほど。そう考えるのが自然だ。それならば。我々が採取するべきサンプルは……」
「うん。彼女の……」
親子の口がそれ以上の言葉を告げる前に、レオナルドの顔が後方に弾け飛ぶ。
沙羅の掌底が少年の顎をかち上げた。
「それだけは、絶対に、させない……!」
沙羅の顔色が悪い。唇は紫に変色している。酸素欠乏症だ。
「邪魔をするなら、まずはキミを動けなくさせてもらうよ。僕らにも、残された時間は少ないから」
微笑を浮かべたまま、レオナルドの攻撃が再開される。
「……っ!」
苦境に立たされた恋人を、春樹はこれ以上静観するつもりは毛頭無かった。
「無理させてごめんな、サラ。俺も、もう少し役に立てる様になるから」
意識して深呼吸を繰り返しながら、春樹はバックナーに言われた事を思い出していた。
左足は前に。右足は後ろに。
右手でグリップを握り、左手はグリップを載せる様に添える。
右手は奥に押し出す様に。左手は手前に引き込む様に。
目標は的の大きな腹部。撃つのは、対象が5メートル以内に近付いてから。
1度目の発砲。目標への着弾を確認する。続けて2度、3度と繰り返す。
反動で上に逸れる銃口を、落ち着いて修正し、再び目標に照準を合わせる。そしてまた発砲。
「……あっ」
レオナルドはきょとん、とした顔で春樹の方を見た。完全に不意を突かれた、といった反応だった。
次々と腹部、胸部に拳銃の弾丸が殺到していく。周囲に血が飛び散る。レオナルドの口からもそれは零れ出したが、春樹は引き金に掛けた指を離す事は無かった。
「やめろっ!」
父親は突然春樹とレオナルドの間に割って入って来た。極度の緊張状態にあった春樹が今更銃撃を止められる筈も無く、その後発射された3発の銃弾は、レオナルドではなくフレーザーがその身に請け負う事となった。
「ぐうっ……!」
何度も繰り返し引き金を絞る春樹。瞬く間に弾倉及び銃身内の弾丸は全て出払い、未だ硝煙の立ち上る銃は、カチン、カチンと間の抜けた音を辺りに響かせる。
「く、くそっ……」
それを好機とみたのか、フレーザーは血まみれの白衣の懐から自身の拳銃を取り出す。
その手は震えていたが、ゆっくりと春樹に照準を合わせつつあった。
「ハルキっ!」
沙羅が短く叫ぶ。しかし、彼女も満身創痍だ。先の様に軽快に動けない以上、フレーザーの行動を妨害する事は到底不可能だった。
銃口が春樹の方へ向き、震える右手の人差し指に力が込められる直前。フレーザーの銃は右手から消失した。先に響いた銃声と共に。
「……バックナー」
「馬鹿が。弾切れになるまで撃つなと言ったろ。パニックになったら、助からん」
沙羅の傷は深かったが、もう血はほとんど止まっていた。本人はよく分からない様だったが、寄生虫の恩恵は彼女にも宿っているのだろう。
レオナルドがどのようにして体内の生命活動を運用しているのかは見当も付かない。
沙羅が感染したのはここ2~3日だ。その辺のメカニズムは、レオナルドにしか分からないのだ。
普通の人間であるバックナーの方が、状態は深刻だった。
破壊された右腕からは今もどくどくと鮮血が零れ落ちている。内臓も損傷しているのか、時折血の塊を苦しそうに吐き出した。
「歩けるか?」
「……いや、いい。お前達だけで脱出しろ」
「そんな! 隊長、諦めないでよ!」
真人の悲痛な叫びを遮ったのは、バックナー自身だった。
「オレの事はいい。それより、厄介なヤツらが残ってるぜ」
その言葉に皆があの親子の方へ視線を移す。フレーザーは食堂の壁に背を預ける様に座り込み、レオナルドはその横に立ち尽くしている。
「……父さん。僕を、庇ったの……?」
「レオナルド。傷の、具合は……?」
「……駄目だね。主要な臓器はほとんど破壊されてる。止血の応急処置も、間に合わない。
『人喰屍』としてなら十分活動出来る範疇の損傷だけど、この出血量では、人としての自我は保てない。間もなく、『僕』は死ぬよ」
「……そうか」
息子の言葉を聞いたフレーザーは、力なく項垂れた。
「ねえ、父さん。父さんは、どうして……」
父に手を伸ばそうとするレオナルド。胴体の傷口から溢れ出す血液はその手にも伝わり、指先からだらだらと滴り落ちる。
「……っ! やめろ、レオナルド! その手を、これ以上近付けるな……!」
息子と同様に血まみれの身体を引き摺りながら、フレーザーは息子から少しでも遠ざかろうと後退した。
「……父さん」
「やめろ。来るな、来るんじゃない……!」
「……よく、分かったよ。僕の、『僕ら』の在るべき姿が」
あの、微笑だった。少年は優しく微笑みながら、フレーザーの顔を包み込む様に両手を添えた。
「父さん。愛しているよ」
そのまま、父の背に腕を回し、慈しみを込めて抱き締める。強く、強く。
「……!!」
びくり、とフレーザーの身体は何度か跳ねたが、しばらくすると動かなくなった。
レオナルドは静かに立ち上がり、春樹達の方へ向き直る。
「とりあえず、僕らから祝福を。おめでとう。キミ達の幸福を、祈っているよ」
「……っ!」
「……ああ。その目。僕の母さんに、そっくりだよ。母さんも、そんな目で僕を見たんだ」
くすくすと笑う少年の後ろで、その父親がゆっくりと立ち上がる。
虚ろな目。のっぺりとした無表情を貼り付けた白い顔。見慣れた感染者の姿が、そこにはあった。
それを見たバックナーは、苦痛に顔を歪めながら、ゆっくりと立ち上がった。
「お、おい……!」
「クラタ、肩を貸せ。移動するぞ」
「分かった。でも、大丈夫なのか……?」
「泣き言を言ってられる様な状況じゃあねえ。外の銃声が、さっきから聞こえて来なくなった。あの3人、下手を打ったぞ」
そういえば、と食堂の入り口に目を向けると、感染者の群れがぞろぞろと入って来るところだった。
「……チッ。足止めすら満足にこなせないのか。海兵隊でもないヤツらに任せるからだ」
「くそっ! 出口が。どうすんだよ、コレ……!」
「落ち着け。脱出口はある。キッチンへ向かうぞ」
負傷したバックナーを連れているとはいえ、感染者達とは距離がある。キッチンへの移動中に追いつかれる事は無かった。
全員が中に入った事を確認し、花梨が入り口のドアに鍵を掛ける。真人と沙羅は、ワゴン台車や食器棚などでドアを塞ぎ、バリケードを構築していく。
「脱出口は、食材運搬用の貨物エレベーターだ」
貨物エレベーターは、春樹らが想像していたよりも大きなものだった。数千人が食事を摂る為の施設のものだから、それも当然かも知れない。
「コイツは、上の倉庫につながっている。倉庫を出て、非常階段をひたすら上って行けば、一直線で甲板に出られる」
「すごい。これなら、全員で脱出出来るな」
「……いいや、運搬用と言っただろう。昇降ボタンはこっちだ」
バックナーがエレベーターの脇に立ち、4人に乗り込むよう促す。
「どの道、この出血ではオレは助からん。いいから、とっとと行ってしまえ」
「……隊長!」
真人は尚も抗議しようとするが、花梨や沙羅が無理矢理それを押さえ込み、4人はエレベーターに乗り込む。
その矢先に、キッチンのドアからけたたましい騒音が響き始めた。
「バックナー、俺は……」
「じゃあな、ヘタレ野郎。せいぜい、生き残れ」
バックナーは春樹が何かを言う前に、閉ボタンを押してしまった。そのまま倉庫に向かって、エレベーターが上昇していく。
キッチンのドアががたがたと揺れ始める。連中が押し入ってくる時は近い。
タバコを取り出したバックナーは、肺に染み込ませる様に深く吸い込み、盛大にむせた。咳に血液まで混じっている。
「おいおい、最期の一服なんだぜ。しまらねえな」
笑いながら、無線機を取り出した。会話の相手はメイリンだ。
『中尉! 今、何処に……』
『メイリン。コード、ズールだ。最終のタクシーを出せ。5分後だ。馬鹿4人がそっちへ行く』
『……っ。了解、しました』
それだけの会話を済ませると、バックナーは無線機を放り投げた。『ズール』の頭文字はZ。
最後のアルファベットである。指揮官の作戦続行が不可能な状態に陥り、この命令以後の指揮権を直轄の部下に引き継ぐ事を意味していた。
ドアが軋みだした。拳銃を取り出し、残弾を確認する。
「……くっくっく。あの馬鹿、最後の1発まできっちりマガジンに詰めてやがる。
日本人は生真面目だねぇ。あんな抜けてるヤツでも、几帳面な仕事をする」
左手だけで器用に弾倉を押し込み、バックナーは最後の来客を出迎える。木製の安いドアはとっくに割れており、バリケードも見る見る内に崩れていく。
新しいタバコに火を点け、誇り高き海兵隊の中隊長は穏やかな笑みを浮かべる。
「お前ら知ってるか? 合衆国の兵隊さんは、とっても強いんだぜ?」




