第35話 絶海の孤島①
キャビンのクルー達は海を見ていた。どこまでも続く果てしない青。
回転翼の規則正しい駆動音を耳に受け、広大な水の絨毯を、見ている様で見ていないとも言える。誰もがどこか虚ろな表情を浮かべていた。
そんな時間が、どれほど流れた頃だっただろうか。海に違和感が現れた。
大波小波の繰り返しに、白い泡の様な飛沫の痕跡が広がっている。これは、船が通過した後に海に残るものだ。
「ん? おお、見えてきたぞ。皆、アレがオレ達の目指す居住区だ」
欠伸と背伸びを同時進行でこなしつつ、バックナーが気の抜けた声で言う。
それに反応した面々が見たものは、広大な海を悠然と突き進む、巨大な1隻の船だった。
西へ傾き始めた太陽の照り返しを受け、山吹色に輝くその正体は、海上要塞にも例えられる軍事空母である。
「はっはっは! 我が軍の新鋭航空母艦、『プレジデント』だ!」
メイリンはいつの間にか向こう側に到着の連絡を入れていた様だった。
滑走路に近付くと、わらわらと人が出てきて、光る棒を振ってこちらに合図を送ってくる。誘導してくれるらしい。
アスファルトの地面の所々には点々と光が灯っている。真東へ進路を取る空母を追い掛けて、西日を背に1機の飛行機が高度を下げ始めた。
やがて、再び飛行機からヘリコプターへと姿を変えたV-22は、ゆっくりと地面へと近付いていく。
ホバリング状態から慎重に着陸した機体は、少しだけキャビンにその衝撃を伝えた。
周りをよく見てみると、全く同じ姿をした飛行機が3機確認出来る。兄弟機であろう。乗員・乗客達はシートベルトを外し、順番に後部ランプから空母に降り立つ。
「……何て大きさだ。これが、本当に船なのか」
思わずそんな呟きが口から零れる。春樹には、今自分が立っている場所が船の上だということが、とても信じられない。
300メートルを超える全長に、10メートルを超える高さ。住宅団地が何棟か連なって、そのまま海に乗り出した様なものだ。
「ニミッツ級原子力航空母艦『プレジデント』。太平洋艦隊所属の本艦は、現在パンデミック災害における緊急避難所として東シナ海を航行しています。
島国であるこの国の周りには、避難所として洋上に出ている船が無数にあります。本艦もその1つで、ここだけでも約5000名の人達が生活しています。あの島で生き残って、ここに辿り着いた方々です」
「5000名って……! 空から見たら、この船1隻しか見えなかったのですが、島の生存者はそれだけしか居ないんですか?」
メイリンの簡潔な説明に桐子が反応した。
「いいえ。全ての人が海に脱出した訳ではありません。本島にある我が軍の基地施設の一部も、避難所として現在も機能しています。それに、本艦の他にも、島の方々を受け入れている船はいくつかあります。
確か、2番艦・3番艦が台湾付近を航行している筈です」
「教えて下さい。島の住民の中で、あの災害を生き残った人はどのくらい居ますか?」
「……そう多くはありません。10万人に満たないと思って頂いて、差し支えありません」
「たった、それだけ?」
「……ええ、未曾有の規模の災害でした。この国の人口も、今となっては壊滅的な状況です」
「そう、ですか……」
それっきり、桐子は押し黙ってしまう。ある程度覚悟を決めていたとはいえ、実際に現状を耳にしてしまうと、思わず涙が出てきそうになった。
桐子の実家は南部方面にある。自分の家族だけが都合よく被害を免れているというのは、希望的観測も甚だしい。
だが、ここにやってきた生存者達は、誰もが似た様な境遇に置かれている。
リーダーの1人として楽園病院の運営に携わってきた桐子の責任感が、その場で涙を流す事を許さなかった。
「……わかりました。では、メ……スティルウェルさん? 私達は、これからどうすれば良いのでしょうか」
「ああ、メイリンで結構ですよ。そうですね。お腹、空いていませんか? 食堂へご案内致しますので、私に付いて来て下さい。艦内は相当広いので、迷子にならない様ご注意下さいね」
食堂という単語に反応して、真人・花梨が歓声を上げる。病院に居る間の食事は節約を前提にした質素なものであったし、米兵達が来てからは缶詰やビスケットばかりだった。
育ち盛りの中学生にとって、何の気兼ねも無く楽しめる食事というのは、殊更魅力的なものと言えた。
もっとも、桐子を始めとした大人達にとっても食堂での食事に異論は無い様で、皆表情を綻ばせていた。
「えっと、茜ちゃんは?」
桐子がメイリンに尋ねる。茜は未だに眠っている。V-22へも、彼女だけストレッチャーに横たわったまま搭乗した。
無論、1人で降りられる訳も無いので、まだ空母には降り立っていない。
「ええ。彼女は我々が医務室へ搬送しておきます。食事もそこに用意しましょう」
答えたのはフレーザーだった。どうやら、彼らは食堂へは行かないらしい。
「そ、それと! 念の為にもう1度彼女に血液検査をやってみて下さい!」
春樹がその会話に割り込む。
「……? ええ。ここに居る人達にも、定期的に検査を実施しています。何処に感染源が潜んでいるか分からない以上、備えは常に必要ですからね」
「……宜しくお願いします」
茜が既に感染している事は『球』の色によって分かっているが、春樹にはそれを説明する事が出来ない。
何の根拠も示せない『球』の話を、一体誰が信じると言うのか。
結局、提案以上の進言も出来ぬまま、春樹も皆の後に追従してこの場を去る事になる。
「それでは、行きましょうか」
メイリンの一言を合図に、一行はゆっくりと歩き出した。
「ねえ隊長。ずっと気になってたんだけど……」
「ん? どうした少年。何でも言ってみろ」
「コレッてバイオハザードってヤツでしょ? 何で米軍の人達、防護服も着てないんですか?」
「防護服……か。なあ、少年。オレらの国には、大きく分けて5つの軍組織があるんだ。
即ち、陸・海・空軍の3つに、オレやメイリンの所属する海兵隊。それから、沿岸警備隊なんてのもある。
全部ひっくるめて、総数は約160万人ってところだ。その160万人は、今全員が忙しい。
この空母だって、海軍の物をオレ達海兵隊が使ってる。猫の手も借りたいって状況だ」
「は、はぁ……」
「忙しいのは軍人だけじゃあない。医療関係者やマスコミだっててんてこまいだ。
なあ、少年。そいつらに必要な何百万人分の防護服って、一体何処に注文すれば完璧に揃えてくれるんだろうな?」
「……あ」
「つまり、そういう事だ。足りねぇのさ。人も物も……ついでに言うと時間もな」
「時間も?」
口を挟んできたのは花梨だ。真人の隣りで、ずっと聞いていた様だ。
「ああ。早く何とかしないと、日本人は全滅してしまう。今までずっと後手に回ってた。暴動が起きる度に飛んでいって助けに向かうが、出来る事は感染者の殲滅くらい。
生存者は、こっちが到着する頃にはほとんど残っちゃいない。でも、これからは違う。そうだろう、クラタ?」
「え? あ、ああ……」
「おいおい、締まらねぇな。お前の恋人が居れば、研究も進むだろう? 治療法も見付かるかも知れない。ここからが本当の勝負だ」
大仰に溜息を吐くバックナー。そんな会話の間も移動を続けていた一行だが、先頭のメイリンが一際大きな扉の前でふと足を止め、後ろを振り返った。
「さあ皆さん、着きましたよ。ここではバイキング形式の立食となっていますので、それぞれご自由に好きな物を食べて下さい。
一通り食事が済みましたら、今度は滞在して頂く寝室へ案内させて頂きますので」
そう言うとメイリンは再び扉に向き直り、左右の扉の取っ手を掴むとゆっくりと奥へと押し開いた。
そこは一言で表すなら、ホテルのディナーパーティーというところだろうか。
大小様々なテーブルが無数に置かれており、そのテーブル以上に多くの人々がそれを囲み、思い思いの食事を楽しんでいる。
メイリンは5000人の人間がここに住んでいると言っていたが、その大半がここに揃っているのではないだろうか。
天井が低く、照明もシャンデリアではないので、頭に『豪華な』という比喩は付けられないが、テーブルに所狭しと並ぶ料理はまさに豪華そのものだった。
フライドチキン、ハムやステーキといった肉類や、ロブスターにカニ、サーモン等の魚介類。サラダ、フルーツに各種デザート。末はドリンクバーまで完備されている。
「これは……凄いですね。よくここまで本格的に……」
思わず桐子が感嘆を漏らす。それに対して、メイリンが少しだけ笑って答えた。
「集団生活において、最も恐れる事の1つにストレスの爆発があります。一旦パニックに陥ってしまうと、そこから立て直すのは困難を極めます。
異常な状況下で老若男女、様々な人々が一箇所に集められているのですから、肉体・精神両面にかかる重い負荷は避けられません。
せめて衣食住を充実させる事で、避難民への負担を軽減させたいのです。遠慮は無用ですので、桐子さんもどうかお食事を楽しんで下さい」
「あ、ありがとうございます。でも、これだけの物を揃えるのに、大分苦労されたのではないですか?」
「いえ。本国から物資の納入は滞りなく進んでいますので。少しくらい贅沢をしても問題ありません」
「……滞りなく? メイリンさん、前から気になっていたんですけど……」
話を進めようとしたところで、桐子の話は大声に遮られる事になる。
「桐子? おおい、桐子なのかっ!?」
少し離れた所から、大声で名前を呼ばれる桐子。振り向いてみると、人の波を掻き分け、手を振りながらこちらに向かってやって来る人影が見受けられる。
中年と言うよりは初老という表現が当てはまるだろうか。頭髪のほとんど全てが白く染まっており、目尻には深いシワも刻まれている。
それでもこの男性から少なからず威厳を感じるのは、無難に着こなしたスーツのせいだけではないだろう。
饒平名政憲。島の県知事を務めるこの男は、桐子の父親である。県政に携わる重要人物の1人である彼は、米兵達による避難活動の中でも優先順位の高い保護対象であったのか、こうして無事でいられた様だった。
「父さん! 無事だったの!? 母さんは……?」
「ああ、無事だよ。いつここへ来たんだ?」
目に涙を浮かべつつ交わされる父と娘の会話。気を利かせたメイリンは何も言わずにその場から離れていった。
いつの間にか、纏まって行動していた楽園病院の生存者達はバラバラに散っていた。
この船には、島の北部に住む住民が多く乗船している。それぞれの家族や関係者に会い、互いの無事を喜んでいた。
中学生の2人はそんな大人達を尻目に、一心不乱に食事に没頭していた。
「そうなんだよ! 感染しても、発症しない人間が現れたんだよ!」
その一言が出た途端、食堂内は騒然となった。病院からの生存者の1人、事務員の男は妻に向かって興奮した様子で言った。
「それは本当なのか!?」
「ワクチンとか特効薬が作れるって事!?」
聞き耳を立てていた訳ではないが、多くの人間がその一言を拾っていた。男に対して、見知らぬ人達から次々と質問が飛んでくる。
「ああ、研究が進むかも知れないってさ。感染した人も、ひょっとしたら助かるかも……」
興奮冷めやらぬ様子で捲くし立てる男。その話題が食堂に居る全ての人間に伝播するまで、そう時間は掛からなかった。
「おいおい、コレ、ちょっとまずくないか?」
「皆、明るい話題に飢えていたのかも知れないですね。後でフレーザー博士に報告しておきます。場合によっては避難民の方々への説明会が必要になるので」
「頼む。眠り姫はどうなってる?」
「フレーザー博士とブラボーの乗員が、医務室へ搬送している筈です。目を覚ましたという報告はまだ来ていません」
「あの娘も色々辛い思いをしたみたいだからな。カウンセリングも必要だろう。博士を通して手配しておく」
少し離れた位置で、バックナーとメイリンが今後の方策を話し合う。そこからさらに離れた所に、春樹と沙羅は立っていた。
この2人は、食堂の中にすら立ち入っていない。春樹が入り口で固まってしまった為に、沙羅も足を止めていた。
「ハルキ? わたし達も早く食べよう?」
沙羅が手を引いても、春樹はその場を動こうとしない。そんな2人の様子に気付いたバックナーが、ゆっくりとこちらに向かって歩いて来る。
「……何だよ、これは」
無数の赤い『球』が、チカチカと明滅する。楽園病院崩壊の前夜にもあった、あの光景だった。
ここも、安息の地ではなかった。
「ねえ? ハルキってば」
なおも春樹の腕を引く沙羅。春樹は、そんな沙羅に向き直ると胸倉を掴み思い切り引き寄せた。
「お前、ここで感染を拡げるつもりか!? 一体何のつもりで沙羅の真似をしている!」
「え? な、何よ、急に……!」
突然大声を張り上げる春樹に、何事かと入り口近くに居た避難民の数名がちらちらと視線を投げてきた。
慌てて入り口の扉を閉めるメイリン。側に立っていたバックナーも外に出たので、4人が締め出された形になる。
「おいクラタ、何を騒いでいるんだよ。食事中だぞ?」
「バックナー、例のアレだ! この中のほとんど全ての人間に現れた!」
「……なに?」
「死相だ! 早く手を打たないと、みんな死ぬ!」
「いいから落ち着けよ。まずは、その手を離せ。恋人だろう? 彼女は」
「だが感染者だ! いいか、コイツと茜を隔離するんだ。今すぐに!」
「は、ハルキ、ちょっと待って。一体、どういう事?」
「寄生虫には、自分を増やしたいっていう本能があると言ってたな。これから手当たり次第噛み付いて犠牲者を増やすつもりなんだろう!?」
「蔵田さん、落ち着いて下さい! 急にどうしたんですか!?」
バックナーとメイリンは春樹を沙羅から引き離そうとするが、感情を爆発させてしまった春樹は明らかに平静を失い、取り乱していた。
「……チッ」
恐慌状態寸前に陥った春樹の様子を確認したバックナーは、右手で掴んでいた春樹の左腕の肘を押さえ、そこを支点に左手首を外側に捻りあげた。
「痛ぅっ!」
痛みに顔をしかめ、反射的に後ろを向かされる春樹。バックナーの意図を察し、咄嗟に顎を引こうとするが、間に合わない。
屈強な米軍人の動きはこの上なく洗練されたものであり、いとも簡単に春樹の首を両の腕で絡め取ってしまった。
「ぐっ……! バックナー、お前、俺を信じるって……!」
「落ち着けと言っている。疲れてるんだよ、お前。少し、休め」
言葉と共に、拘束する腕の力が増していく。それに伴い、脳への血流が妨げられ、急速に春樹の意識は遠のいていく。
「ばっ、くな、-……か、隔離を……!」
それだけを何とか搾り出すと、糸の切れた人形の様に、春樹はバックナーに体を預けた。
「やれやれ……」
「一体どうしたんでしょうか。突然取り乱すなんて……」
「大丈夫か?」
ぐったりした春樹を担ぐと、バックナーは沙羅に尋ねた。
「は、はい。でも、彼の言う通りにして貰えますか?」
「あ? あんた、引き篭もりの趣味があるのか?」
「いいえ。ただ、彼に死相が見えるというのは本当です。わたしか茜ちゃん、どちらかがよくないものをもたらす可能性があります」
「おいおい、マジかよ……」
「茜ちゃんは何処にいますか? 目を覚ます前に、隔離しなくちゃ」
「……彼女は医務室に。案内します、こちらへ。中尉は蔵田さんをお願い出来ますか?」
「チッ。あーはいはい、1名様お部屋にご案内ってか。わかったよ」
男性陣と女性陣。キレイに分かれた4人はお互い逆方向に向かって移動を開始した。
医務室と聞くと、学校にある保健室の様な施設が連想されがちだが、ここは違う。
航空母艦ほどの規模の船舶に設置された医務室は、これ1つで町の病院と言っても過言ではない。
数千人が生活する空間の中では、不測の事態への想定・備えももちろん怠る事は出来ない。
医療に関するあらゆる物資に、寝具、食料に至るまで。さらに、数十名の専門化が常に詰めている。
茜が目を覚ました時、彼女が居たのはそんな病院の中にある病室のベッドの上だった。
目を開けた茜はきょろきょろと辺りを見回し、むくりと体を起こす。それに気付いた看護師は、笑顔で声を掛けた。
「ああ、目が覚めましたか? お腹、空いてるでしょう? 今、食べ物を持ってきますね」
若い女性看護師はそう言うと、早足で病室の外へと出て行った。
数分もしない内に看護師は戻って来た。ご飯に味噌汁、漬物に焼き魚に玉子焼き。典型的な和食セットだ。
「さあ、召し上がれ」
看護師は両手で持っていたトレーをベッドサイドテーブルに置くと、そのままテーブルを茜のすぐ側までスライドさせた。
一方の茜はというと、きょとんとしたままじっと看護師の顔を見つめている。
「あ、アレ? あなた日本人よね? そう聞いたから日本人の私が担当になったんだけど。日本語、わかる?」
看護師は掌を茜の目の前でひらひらさせながら話し掛ける。だが、茜は何の反応も返さない。ずっと看護師の顔を見つめるのみである。会話が成立しない。
「まいったわね……」
しばらく話し掛け続けた看護師だったが、ふとここで違和感に気付く。
(あ。この子、私の顔を見てるんじゃない。視線は少しだけ下、首筋の辺り……?)




