第33話 沙羅と茜
潮騒の音が聞こえる。規則正しい様でいて、決してそうではない間隔で砂浜に打ち寄せる波の音。
いつの間にか、朝になっていたらしい。目蓋を焼く朝日の光に顔をしかめながら、春樹は自分が海に来ていた事を思い出した。
「……はっ!? さ、サラは……?」
慌てて辺りを見渡すと、目的の人物はあっさりと見付かった。春樹のすぐ隣りで、未だ寝息を立てていた。
胸の辺りが微かに上下している。耳を澄ませば、呼吸の音さえ聞こえてきそうだ。それは、彼女が生きている証だった。
目を閉じ、右手の人差し指と親指で自らの眉間をつまみ、記憶の糸を手繰り寄せる。
沙羅を連れて海にやって来た。沙羅の様子は明らかにおかしく、発症間近だった。
そこで覚悟を決め、自分を襲わせる事で人生の幕を下ろす。
そうなる筈だった。しかし、現実には2人とも生きていて、深刻な怪我を負った訳でもない。
ほどなくして目を覚ました沙羅。寝顔を見ていたのかと怒られた春樹。相変わらずデリカシーが無いと言われた彼は、少しだけ落ち込んだ。
しばらくの間、2人は砂浜に腰を下ろしていた。穏やかに引いては返す波を見ながら、他愛も無い会話を交わしたが、お腹が空いたという彼女に、結局病院へ帰る事にした。
出た時のやりとりを思い出し、憂鬱になる。花梨に何て言おうか。バックナーは受け入れてくれるだろうか?
2人が病院の正門に辿り着いた時、既に夜は明けており、辺りはすっかり明るくなっていた。
元より隠れる気など無かったが、あっという間に歩哨の兵士達に見付かった彼らは、今は銃を構えた米兵6人に囲まれている。
呼ばれてやってきたバックナーは、2人を見るやあからさまに嫌な顔をした。
その隣りに居るフレーザーは、バックナーとは正反対の満面な笑みで2人を出迎えた。
「よく戻られました。早まった行動を控えて頂いて、本当に良かった」
「あー……その、色々と、すみませんでした」
「さあ、ホールに入りましょう。風が強くなってきました。ここは少しばかり肌寒い」
ろくに弁解の言葉を聞こうともせず、フレーザーはホールへ向かって歩き出す。
「チッ」
舌打ちをしつつバックナーもそれに続く。手持ち無沙汰な2人も、結局その後をついていくしかなかった。
狐につままれた表情の歩哨達だけがその場に残された。
不機嫌な出迎えはバックナーだけではなかった。ホールへ足を踏み入れた途端、花梨や真人、桐子から猛烈な批判に晒される春樹。
「今までと違って、専門家の方々が側に居るんだから、何もそう悲観的になる事なんてないのよ」
桐子の言葉は確かに的を射ている。目の前の医師は治療法は無いと言っていたが、対症療法の有無については詳しく話していなかった。
決断を下すには少し早過ぎたのかも知れない。当の沙羅は、花梨の頭を撫でながら穏やかな笑顔を浮かべている。
情報が必要だった。
感染してから発症までの時間に個人差があるのは解っていた。
発症したら、人間ではなくなるというのも解っていた。
だが、沙羅は今のところ人間である様にしか見えない。
沙羅は現時点でどの段階にあるのか?
まだ潜伏期間なのか? 発症を経てこの状態なのか? ……今後彼女は、人として生きていけるのだろうか?
カルテに見えなくもないファイルを整理しているフレーザーに、春樹の目は釘付けだった。
「寄生虫と人間の『落とし所』……とでも申しましょうか」
「へ?」
真人が素っ頓狂な声をあげた。フレーザーの不意をついた発言。意表をついた言葉。
その場に居る誰もが、医師の言葉の真意を量りかねていた。
「この寄生虫には『欲求』があります。ウイルスや病原菌は『機能』しか持ち得ません。我々が『それ』を寄生虫に分類したのは、この違いに拠る所が大きい」
「……えっと。どういう意味ですか?」
「例えば、インフルエンザウイルスに感染し、発症したとしましょう。高熱や全身の節々の痛み。これらの症状が出た後、患者に体力や免疫力が不足していると死亡してしまう。
そうなると、当然体内のウイルスはいつか死滅してしまいます。
ウイルスの歴史を鑑みても、この『機能』は変わりません。体内で繁殖し、宿主を攻撃する。それだけの存在です。他人に伝染しても、その性質は変わらない。
しかし、寄生虫は違う。彼らは宿主を一定の状態に保たせたいという『欲求』があるのです。
宿主を殺す事無く、尚且つ自らを排除させない。つまり、共生関係を望んでいます。
この世に存在するほとんどの寄生虫は、宿主との共存関係の構築を欲している。そのためには、宿主との関係の『落とし所』の設定が不可欠なのです」
「……つまり、今までの感染者の体内に居たヤツらは、発展途上で宿主と仲良くやれてなかったって事かよ?」
バックナーが皮肉を交えて質問を挟むが、フレーザーは真面目に頷きを返しつつ話を続ける。
「この寄生虫の生態には未だに謎が多い。日々進化しているのです。
この中で、コレに感染しているのは能山沙羅さんただ1人です。彼女の体内に居る寄生虫は、今までのそれと明らかに違う」
「……」
当事者である沙羅も、春樹同様真剣な表情で医師の説明を聞いている。
2人から少し離れた位置で、苦虫を噛み潰す様に、不機嫌な視線を送る者が居た。茜だった。
「能山さんの今の状態は、寄生虫が望んだものである可能性が極めて高い。
一見ただの人間にしか見えない彼女の存在は、感染者と正常な人間の境界をひどく曖昧にしています。
それは、感染を拡大させる上で非常に好都合なのです」
「フレーザー先生。寄生された状態というのは、人間が生きていく上で障害になりますか? 栄養を横取りされて餓死するとか、良くない病気になったりとか……」
春樹の質問は、彼自身が最も懸念している事である。
「いいえ。彼らはヒトの細胞ひとつひとつに生息します。その際、細胞内のミトコンドリアと自身の細胞にバイパスを作り、ミトコンドリアのつくり出すATP、即ちエネルギーを得ます。
そうして彼らは活動するのですが、それは人間の生命活動には何ら支障の無いささやかな搾取です。
つまり、今の状態を見る限り、能山さんは人間として何の問題も無く生きていく事が可能です」
フレーザーの言葉が心の奥底まで染み渡り、春樹の双眸から自然に涙が流れ落ちる。
「そう、ですか……」
一生の不覚であった沙羅の感染。守れなかったと絶望していたのに、寸でのところで救われた。皮肉にも、ずっと避けてきた侵略者の気まぐれによって。
張り詰めていた緊張が解け、春樹はその場に座り込んでしまった。
そんな彼の頭を、桐子がやや乱暴にぽんぽんと叩く。普段なら嫌がる春樹も、今はされるがままだった。
ギリッと歯を軋ませる。
「そんなんで、納得出来るワケがないでしょう!!」
突然の茜の怒号が、ホール内に響き渡る。皆の視線が、少女に集まる。
「そんな都合の良い話が、あっていいんですか! こんなの、おかしいでしょ!」
「……おい、少し落ち着けよ、お嬢ちゃん」
「……兵隊さん。あんた、今までどれだけの人間を殺したの? 毒ガスばら撒いて、鉄砲撃ちまくってさ」
「……」
「そうまでやって今ここに居るのに、人間のままだから、感染したのに能山さんだけ生きてて良いっての? 絶対に納得出来ない!」
「も、もちろん問題が無い訳ではありません……! 人としての意識を保っていても、彼女が感染者であるのは紛れも無い事実でして、条件を満たす接触があれば、他人にも伝染する訳でして……」
「うるさいっ! 能山さんは感染したんだから、特別扱いはナシよ! 今すぐここで……!」
パンッと乾いた音が響いた。桐子が茜の頬を張ったのだ。
「いい加減にしなさい。あなたの家族が死んでしまったのは不幸な事だけど、犠牲にならずに済む人が出たのは、喜ばしい事でしょう?」
「でもっ……! 自業自得でしょう!? 蔵田さんがかっこつけて、良太君に不用意に近付いたから噛まれそうになった!
能山さんは噛まれても良いと思ったから、蔵田さんを庇った! それで感染したんでしょ!
私が悪いの!? 感染したら殺すんでしょ! なら早くやるべきでしょう! 私は間違ってない!」
「ねえ落ち着いて、茜ちゃん。わたし、治療ならきちんと受けるから……」
「近寄るな化物っ! 殺すぞ!?」
茜は完全に錯乱状態だった。枕やスリッパなど、手元にあるものを沙羅に向かって手当たり次第に投げつけては、口汚く罵詈雑言を吐く。
2人の間に立って飛んでくる物を受け止める春樹だったが、その表情は複雑なものだった。
今までやってきた事を考えると、手放しで喜ぶ資格など自分には無いのかも知れない。しかし、それでも……
茜はしばらく暴れていたが、見かねたバックナー他、2人の米兵に取り押さえられ、鎮静剤を投与された。今は寝台で静かにその身を横たえている。
「大分、疲れていたのでしょう。まだ幼い女の子が耐えるには、あまりにも重いストレスだ」
鎮静剤を投与したフレーザーは、しばらく茜の様子を見守った後、容態の安定した彼女の側から離れた。
「ええ。この子もとてもつらい思いをしてきたんです。壊れてもおかしくないくらい……」
桐子は、すやすやと眠る茜の前髪をかき上げ、額に手を当てている。
「……でも、つらい思いをしているのは彼女だけではない。この子だけが好き放題振舞うのも、間違っている」
「……沙羅ちゃん?」
「いえ、何でもないです。すみません」
「とにかく。今の能山さんは、治療法を探る上で非常に重要な存在です。これから、我々に協力して欲しい。
……了承して頂けますね?」
「……ええ」
結局、茜の状態が落ち着くまでという事で、この日も一行は楽園病院に留まる事になった。
米兵達は感染者のなれの果てを一箇所に集め、順次焼却を進めていった。あまりにも数が多いため、火葬場を使ってきちんと送ってやる事など到底出来ない。
人として死を迎えた陸は、ある意味では幸運だったのかも知れない。
ガソリンをかけられて巨大な火柱を上げる無数の遺体を見て、春樹はふと思った。
時刻にして午前3時前といったところだろうか。ずっと眠ったままだった茜の両目が、すうっと開かれた。
一通りわめき散らした後、妙な注射を打たれてからの記憶が無い。おそらく、自分は無理やり眠らされたのだろう。
むくりと身を起こし、身体が正常に動く事を確認する。そのまま、音を立てない様に細心の注意を払いつつ、移動を始めた。
その途中、花梨の持っていた非常用バックパックが目に留まる。中を探ってみると、目的の物はすぐに見付かった。
引き続き足音を忍ばせつつ、移動を再開する。数ある寝台の中の1つ。そこで茜は歩みを止めた。
暗くてよく見えないが、隣で寝ているのが春樹だという事は何となく分かる。
ならば、目の前のコレは、あの女の筈だ。
ゆっくりと頭上にナイフを掲げ、一気に振り下ろす。ズンッという抵抗と共に、刃渡りのほぼ全てが布団の中に収まる。
肉を刺す手応えは、感じる事が出来なかった。
(外した!? いや、ここには居ない……!)
目指す獲物を求めて、手探りで辺りを確認する。
緊張と焦燥に支配された茜。静寂の中、そこに突然淡い光が差し込んだ。
心臓が跳ね上がる。光源に目をやると、ホールの入り口が音も無く開いていた。
そこに立っていたのは、微笑を浮かべるターゲットだった。
追い掛ける。ホールを出た後は、足音を隠す必要は無い。全速力で駆ける。抜き身のナイフを右手に握り締め、ぼさぼさの髪を振り乱し、夜叉は沙羅に迫る。
10メートルほど前方を、沙羅は走っていた。つかず離れず、一定の距離を保っている様にも見える。
感染者によってこじ開けられたのか、病棟の入り口の扉は外されていた。
滑り込む様にそこへ入り、階段を駆け上がる沙羅。遅れまいと茜も続く。
ここで逃がす訳にはいかない。ここまで明確な殺意を、相手に認識されてしまったのだ。
最早、沙羅との人間関係は破綻したと思っていいだろう。何より、もう収まりがつかなかった。
ここで、必ず殺す。
一息もつく事も無く、2人は病棟の屋上へと辿り着いた。行き止まりである。
良い天気だった。雲ひとつ無い空には、星々の中心で煌々と月が輝いている。そのせいか、深夜だというのに明るかった。対峙する2人が、お互いの表情すら読み取れるほどに。
冬の澄んだ空気が辺りを支配している。2人の口から零れる白い吐息が、静寂を強調していた。
沙羅は静かに振り返り、落ち着いた様子で茜に問い掛けた。
「わたしを、どうするつもり?」
起き抜けに激しい運動を強いられた茜は、酸素不足を訴える身体に鞭打ち、激しく息を切らせながらも真っ向から沙羅を睨みつける。
「白々しい、事を。私が、どうしたいかなんて、とっくに、知ってる、クセに……!」
「好きにすればいいわ。それで、あなたの気が済むのなら」
両手を広げ、茜を受け入れようとするかの様に微笑みかける沙羅。
内に秘めた激情を爆発させ、ナイフを持った茜は地を駆ける。
「……っ! 死ね!!」
ありったけの憎しみを込めて、その存在全てを否定するべく相手の腹を穿つ。しかし、その刃は、沙羅には届かなかった。
「……え?」
「気は済んだ?」
両手で握って渾身の力と共に突き出したナイフを、沙羅は左手の親指と人差し指だけで受け止めていた。
塩でも摘むかの様に、呆気なく。
慌ててナイフを引き戻そうとするが、全く動かない。溶接された金属を引っ張っているみたいに、微動だにしないのだ。
「ばっ、化物……!」
沙羅はあくまでも微笑を崩さない。刃先を摘んだ左手はそのままに、右手を茜の両手にそっと添える。
ナイフの柄を強く握り締めた茜の指は、血の気を失い真っ白になっていたが、沙羅の右手は柔らかく、温かかった。
特に力を込めた様子も感じられなかったのに、沙羅の両手はあっさりと凶器を捻じ切った。
放り投げられたナイフの刀身が、コンクリートの床に叩きつけられて甲高い音を立てる。
残された柄を握ったまま、茜の全身は小刻みに震えていた。
危険な物を取り除いた沙羅は、優しく茜を両手で包み込んだ。ちょうど抱き締めた様な格好だ。
耳元で、囁く様に沙羅は茜に呟く。
「能山沙羅は、志喜屋茜の事が嫌いだった。あなたは、わたしの義母に似てるのよ。
自分というものを持たず、いつも他人任せ。事なかれ主義で都合の悪い事は見ようともしない。
そのくせ、責任転嫁だけは一人前。味方を欲しがるあまり、周りを巻き込んで騒ぎ立てるばかり。
あなたに、ハルキの苦悩は分からないでしょう? 何も出来ないという無力感に怯えて、自分のやりたかった事すら見失いながらも、責任だけは果たそうともがき続ける彼の姿は、見ていて滑稽だった? もっと苦しめてやろうと、そう思った?」
「……っ! わ、私は、ただ……」
「何をしたいのかも分からなかっただけだと、そう言うのでしょう? 大丈夫。これから何をするべきかは、わたしが教えてあげる」
優しく、あくまで優しく沙羅は茜の唇を奪う。歯列を掻き分け、沙羅の舌が茜の口腔内を蹂躙する。
「……っ! ぐっ……! むっ……!!」
人間とは思えない力で抱き締められて身動きが取れない上、呼吸も満足にさせてもらえないこの状況下では、茜はそれを飲み下すしかなかった。
この時点で、彼女の目的は達成された。
翌朝、茜は体調を崩した。微熱があり、全身がだるく、悪寒がすると言う。
フレーザーは、彼女を風邪と診断した。緊張状態が長く続いた所為で、疲労とストレスが溜まっていたのだろうと彼女を労った。
それを見た春樹は、驚愕の表情で沙羅を見た。
「……お、お前は、一体、誰だ……?」
「わたしが誰かなんて、ハルキが一番よく知っているでしょう?」
その微笑みは、春樹が一番よく知るサラの笑顔だった。




