第32話 『それ』についての研究ノート
最初の犠牲者が出たのは、1960年代の末だった。ミシガンの小さな地方都市で、同じ症状を訴える患者が複数発生した事により、『それ』は我々の前に姿を現す。
主な症状は全身をおそう倦怠感と、長く続く微熱に発汗、頭痛など。単なる風邪の諸症状にしか見られない。
だが、『それ』に罹った患者達には絶対の共通点があった。即ち、確実に死亡するという事。
病理解剖により、そう時を掛ける事も無く原因となる微生物は特定される。電子顕微鏡のレンズに現れた『それ』は、地球上のどんな生物にも似つかない、誰も確認した事の無いものだった。
民衆の混乱を避ける為、『それ』の生態の解明、治療法の確立の目処が立つまで、公表を控える方針が医療機関で決定される。
研究・観察が進む内に、『それ』が人間を殺す過程がわかってくる。
風邪の初期症状に酷似した症状が現れた後、患者は昏睡状態となる。そのまま意識を取り戻す事は無く、多臓器不全に陥り、最終的に心肺活動が停止して必ず死に至る。
感染から発症、死亡までの流れには1週間~10日前後を要する。
患者の血液・体液中に『それ』は生息し、それらが別の人間の体内に入る事で侵入、感染する。
強い生命力を持ち、体外に排出された体液中にあっても条件さえ整えば1週間は生存する。無論、この間に別の人間がその体液を体内に取り込んでしまった場合、感染を許す事になる。
感染力も極めて強く、空気感染こそしないものの、粘膜、経口等、接触の機会があればほぼ確実に感染し、またそうなった場合、必ず発症する。
乾燥を嫌い、空気中で生きていく事は出来ない。血液中で増殖を繰り返し、患者の体内の隅々に分布する。
だが、『それ』が患者を直接攻撃する事は無く、患者の死因はあくまでも多臓器不全によるものである。
医療機関は『それ』を人の生命活動を停止させてしまう死の病と定義した。
懸命な研究を重ねるも、有効な治療法は確立出来ず。
1970年代に入ると、国防総省は『それ』の生物兵器としての運用の可能性を探り始める。
町の医療機関から強引に『それ』に関する資料・サンプルを奪い、専門の研究機関を立ち上げる。以降、そこで研究は秘密裏におこなわれる事になる。
潤沢な資金と最先端の技術を惜し気も無くつぎ込み、『それ』の謎に迫っていく。
表向きは奇病への対策と治療法の模索として機関は活動していたが、水面下で非合法の研究、時には非人道的な実験が繰り返される。
『それ』は、人間以外には感染しない事が判明。他の動物の血液中では生息出来ず死滅する。
稀にチンパンジーの体内で生存するケースもあるが、その場合発症はしない。
つまり、研究には人間が必要不可欠であるという事だ。それも死体ではなく、生きた献体が。
幸いな事に、被験者の確保はそう難しいものではない。我々こそが合衆国そのものなのだから。
非人道的な探求による献体の数が4桁に達しようかという段階で、『それ』の研究は新たなステップへと進む。
患者に現れる症状に、変化が訪れた。ある患者が、長く生きたのである。
多臓器不全は相変わらずだったが、心臓と肺は活動を続け、3週間という異例の長期間に渡る生存の記録があがった。
その後も、稀にこういった個体が現れ始める。
『それ』が持つデオキシリボ核酸(DNA)は、重要な事を我々に教えてくれた。
機関が保存していた初期の頃の『それ』と、今日感染させた被験者の体内に居る『それ』は、内包する遺伝子が全く異なったものになっている。
『それ』は、ヒトの持つ遺伝子と自身の遺伝子を融合させ、独自の進化を試みている。
『それ』が何を目指し、何処に向かっているのか。非常に興味深い。
『それ』が第2段階に到達した。
患者が死亡しなくなったばかりか、起き上がって活動する様になった。
と言っても、元の人間とはかけ離れた存在であり、その風貌はオカルト映画に出てくる化物そのものであった。
ふらふらと鈍重に動き回り、生きた人間を認識するとこれを襲い、肉を喰らう。研究員が4名、犠牲になる。
意思の疎通を試みたが、徒労に終わった。
その際、驚いた事に襲われた研究員の1人が起き上がり、他の研究員を襲った。接触時に感染したとしても、発症までの期間が今までとは比べ物にならないほど早い。
自発的に動き回り、能動的に感染者を増やしていくその姿に、我々は『人喰屍』と名付けた。
『人喰屍』について。
『それ』に感染し、発症した人間。生きていると先述したが、ひどく歪な形であると言わざるを得ない。
臓器の不具合は多少改善が見られるものの、依然として安定した生命活動をおこなっているとは言い難い。
呼吸・心拍数は極端に少なく、体温も低い。代謝がうまく働いていないのか、時間の経過と共に身体の末端をはじめ、ところどころ腐敗の進行が見られた。
脳の活動はある程度確認出来るが、正常な人間とは比べるべくも無い。恐らく、脳への酸素供給が滞っている。
新鮮な酸素を大量に必要とする大脳新皮質がほとんど壊死しており、最早その役目を果たしていない。
大脳辺縁系の一部がかろうじて機能している。そのためか、理性的な行動は全く見られない。
人肉に対して、異常とも言えるほどの執着を見せる。
ヒトの持つ『食欲』という本能と、『それ』自身の持つ『自己の増殖』という本能を混同させているものと思われる。
人肉以外のものを口にする事は無いが、食事によってエネルギーを得ている事が確認された。
食事をおこなわなかった場合、1ヶ月程度で餓死する。
睡眠を取る様子は無く、1日中活動を続け、排泄行為もしない。口にした肉はほぼ完全に吸収される。
襲われた人間は確実に『人喰屍』として蘇る。が、生命活動が維持出来なくなるほど喰い尽された場合、その例外となる。
『人喰屍』として蘇るのに要する時間に関しては個体差が大きく、一概に定義する事は困難である。
襲われた人間が『人喰屍』として蘇った時、『人喰屍』による捕食対象からは除外される。
つまり、彼らは共食いをしない。どうやって人間と『人喰屍』を見分けているのか、今後も研究が必要。
人間よりも遥かに強靭であるが、『人喰屍』は決して不死身ではない。頭部や胴体の破壊、出血多量、有毒物質の摂取による死亡を確認。
しかし、人間ならば行動不能に陥る様な大怪我を負っても、『人喰屍』は全く気にせず活動を続ける。
文字通り、身体が動かなくなるまで人肉を貪ろうとする。無力化・生け捕りには多大な労力を要する。
患者が死亡すると、その体内に存在していた『それ』もやがて死滅する。
ただ患者が死ぬだけだったこれまでと違い、病原体そのものが感染拡大を起こす事態となってしまった以上、治療法・対処法の確立が急務となった。
治療法が見付からない。抗生物質の類は一切効果が見られない。
『それ』を死滅させるために有効な物質は、テトロドトキシン、シアン化カリウム、ダイオキシン……
要するに、宿主ごと殺すしかない。『それ』だけを人体から取り除く方法は、今のところ発見されていない。
『それ』における、遺伝子の取り込みについて。
遺伝子の変異は、一方通行である事が判明。
例えば、第1世代の『人喰屍』が人を襲い、第2世代の『人喰屍』を生み出した場合。
噛まれた人間の遺伝子は全く別のものに変異するが、噛んだ側、即ち第1世代の『人喰屍』に遺伝子の変異は起こらなかった。
人肉を喰らい別の人間の遺伝子を体内に取り入れても、『人喰屍』になった時点の遺伝子は変化しないという事だ。
『それ』の進化には、世代を進める『人喰屍』の連鎖が必要不可欠なものである事が証明された。
1990年代に入り、世界情勢も大きな節目を迎えつつあった。東の盟主の終焉。第3勢力の台頭。
核をはじめ、大量破壊兵器に対する風当たりも強さを増してきたが、我々の研究に大きな支障は無い。
時折、研究資料の持ち出しや内部告発といった小さなトラブルがいくつか起こったが、全て秘密裏に解決済みだ。そう、何も問題は無い。
今日も、不要になった旧世代の『人喰屍』の処分を淡々と進めていく。
もうどれだけの数の献体を『それ』に捧げてきただろうか。考えても無意味だ。もとより、考えるつもりも無い。
1999年7月。『それ』は第3段階へと足を踏み入れる。『アダム』の誕生である。
生まれたての新生児に第2段階の『それ』を投与したのが功を奏したらしい。
その赤子は、『人喰屍』の様に理性を失う事無く、人として成長していった。
その子は人肉を喰らう事など無く、人と同じ食事でエネルギーを得る。
言葉を覚え、親を認識し、人間と同じ様に歩いた。私は歓喜した。人類が進化する場面に立ち会ったのだ。科学者として、これほどの喜びはあるまい。
嬉しい誤算はもう1つあった。『アダム』は、学習する事が可能だったのだ。
『アダム』に『人喰屍』のDNAを投与したところ、『アダム』の遺伝子に変異が見られた。
『アダム』だけが、一方通行に逆らい、自らのDNAを書き換える事が出来る。『アダム』の進化にはまだまだ先があるのだ。国防総省に、献体の追加要請を急がなければ。
困った事が起こった。『アダム』が学習を止めてしまった。
『人喰屍』のDNAを与えても、遺伝子の変異が起こらなくなってしまったのだ。世代を重ねた『人喰屍』のDNAには多少の反応を示すものの、当初の様な劇的な変化が見られない。
たかが数世代の連鎖では、『アダム』のDNAが刺激される事は無くなってしまったのだろうか?
ここで『アダム』の成長を止めてしまう訳にはいかない。こんなところで、人類の進化が躓いて良い筈が無い。
献体が必要だ。百や千では到底足りない。『人喰屍』の連鎖が一気に進む大規模なレベルの数が。
そう、爆発的感染でも起こってしまえば、あるいは……




