第30話 殺処分
海兵隊第5航海兵航空団所属、第3小隊を率いるユリウス・バックナー中尉は、空の上から大仰な溜息を吐く。
短く刈り揃えられた金髪に透き通る様な碧眼を持つこの兵士は、180センチメートルを越える長躯にがっしりとした筋肉の鎧をまとっている。
『今日も今日とて休む事無く行軍遠征。日本人は勤勉だな』
『中尉、軽口は慎んで下さい。ここはもう作戦領域内ですよ』
キャビンでぼやくバックナーに、副操縦席からメイリン・スティルウェル軍曹が答える。
無骨なヘルメットから少しだけはみ出す短く真っ直ぐな黒髪。切れ長の目がやや冷たい印象を与える女性は、呆れた様に無線を通してバックナーに言葉を返す。
『失礼。ここにも1人、勤勉な兵士が居る様だ。メイリン、下はどうなっている?』
苦笑しつつ、状況を尋ねるバックナー。薄暗いキャビンからでは、外の様子はよく見えないのだ。
『海沿いの道路を、数万規模の群れが北上しています。まだ先頭は見えません』
遮る物の無い大空を飛翔するV-22航空機の中から、2人の会話は続く。
『まったく、辺鄙な山奥にこんだけ人が殺到するなんてな。世も末だ』
『島の生存者は、ここ半年の間に激減しました。人間に群がる連中も行き場を無くしてきてるんでしょう』
『って事は、この群れの先に生存者が居るって事だよな?』
『そうなりますね。間に合えば人命救助、遅ければ仇討ちを兼ねた掃討、という事にもなります』
『こんなクソッタレな世の中だ。せめて、美談を1つでも増やしておきたいものだな』
饒舌な中尉も、その言葉を最後に表情を引き締め、精悍な軍人として戦場に向かう。
2機のV-22が楽園病院へ到達する、2分ほど前のやり取りだった。
14名の生存者が、病棟の屋上で途方に暮れていた。太陽は間もなく子午線に差し掛かろうかという時刻。
敷地内では、先程まであちこちから悲鳴があがっていたが、今はもう何も聞こえない。
思い思いの場所に座り込む彼らもまた、何も喋ろうとはしなかった。
今のところ、屋上に感染者がやって来る気配は無い。だが、連中がここに行き着く未来は、そう遠くない内に確実にやって来るのだ。
重苦しい雰囲気の中、1人の少女が口を開いた。
「で、これからどうするんですか? 能山さん、噛まれちゃったし、ここもいつまでも安全ではないですよね?」
他人事の様にあっけらかんと話す茜に、花梨がくってかかる。
「誰のせいでこんな事になったと思ってるの!? 何で、どうしてこんな……!」
「あはは……。ねえ、蔵田さん。彼女、噛まれましたけど。一緒に居るのは危ないんじゃないですか? 私のお父さんと同じでしょ?」
「……それは」
反論しようとした花梨だったが、結局何も言葉が出て来なかった。
「感染はしていない。良太の唾液はその場で排出したし、ありったけの消毒液をふりかけた。現に、サラには何の異変も起こっていないだろう?」
やや苛立った口調でまくしたてながらも、春樹は自覚している。これは自己欺瞞に過ぎないものだ。
頭上の『白球』は、春樹だけに沙羅の感染の事実を告げている。
沙羅も、他の連中と同じ様に物言わぬ感染者となって襲い掛かって来る。恐らく、もう避けられない。
そうだとしても、沙羅を見捨てる事など何があっても出来る筈がなかった。
幸いにも、沙羅自身に発症の兆候は見られていない。まだ、誤魔化せる。何の解決にもならないが、その場で沙羅が放り出される様な切迫した状況ではない。
それだけが、春樹の冷静をぎりぎりのところで保たせていた。
(何か、手を考えなくては……)
焦燥に駆られ深刻な表情の春樹を、沙羅はじっと見つめていた。やがて、音も無くすっと立ち上がり、皆の方へ向き直る。全てを諦めた様な、哀しい微笑を浮かべて。
そんな彼女の手を掴み、やめろ、と春樹が叫ぼうとした、その時。
遥か西の方角から、騒々しい音が聞こえてきた。ヘリコプターの回転翼が空気を裂く様な爆音は、こちらに向かって来ている。
静寂を破る異質なその音に、屋上の春樹達だけでなく、地上をうろつく感染者も同様に空を仰ぎ見る。
見た事の無い、2機の巨大な飛行機だった。
「米軍のヘリだ!」
真人の叫びに、生き残った職員達から歓声があがった。高速でこちらに向かって来る2機に、大声をあげつつ両手を振る。
『中尉、生存者を発見。中央の建物の屋上で立ち往生している様です』
『数は?』
『視認出来る人数は10~15名前後。屋上に感染者は見られません』
『よし。メイリン、屋上にリペリングで降りる。真上に付けてくれ。ダウンウォッシュに注意しろよ』
『了解。アルファは屋上の真上へ。ブラボーは敷地内を旋回、付近の状況を確認せよ』
メイリンが指示を出すと、2機はそれぞれ与えられた任務をこなすべく、別行動を開始する。
1機が離れた後、残った1機は屋上の上空でホバリングに入る。機体後部のハッチが開かれ、バックナーはそこから下の様子を窺う。
『……思ったより生存者の数が少ない。残念だが、増援を呼ぶ必要は無さそうだな』
『我々ではどうしようもない事です。生きている人が居た事を喜びましょう』
『ああ、そうだな……』
バックナー以下4名の隊員が懸垂下降を開始する。熟練の兵士である彼らの動作に迷いや淀みは一切無く、あっという間に屋上へと降り立った。
「生存者はここに居る人数で全てか!?」
吹き下ろしの強風が荒れ狂う中で、バックナーは日本語で叫ぶ。
「ああ! 今ここに居る人間だけだ!」
春樹がそう返すと、米兵達は次々とロープから身体を切り離していった。それを確認すると、上空の1機は大きく上昇し、旋回を開始する。
「え? 救助してくれるんじゃないんですか?」
思わず真人が疑問を口にすると、バックナーが白い歯を見せニカッと笑う。
「まあ待てよ少年。掃除を先にやっておいた方が、落ち着いて空の旅を楽しめるだろう?」
アルファ、ブラボーの2機は楽園病院を中心とした半径1キロメートルの上空を旋回している。
嵐の様な暴風から解放された後も、生存者の面々は呆気に取られたままだった。
屋上に降り立った4人の米兵達は、ライフルや拳銃等の装備の確認を手早く済ませた後、ようやく春樹達に向き直った。
「小隊長のユリウス・バックナーだ。これから周囲の感染者達を『処分』した後、あなた方を安全な場所へ連れて行く。もうしばらくの間、ここで待機してくれ」
まくしたてる様な早口だったが、バックナーの日本語は思いの外流暢だった。
大柄で屈強な米兵に気圧されながらも、桐子がその言葉に答えた。
「饒平名桐子と申します。病院の事務員をしていました。助けて頂いてありがとうございます。でも、『処分』とは……?」
「ああ、それは……」
『中尉。準備が整いました。北西の風1.2メートル。『処分』の遂行に支障ありません』
言いかけたところに、バックナーの右耳に無線が入る。
『わかった。始めろ』
それを合図にブラボーは病院を離れ、国道へと向かう。それにしても高度が低い。地表スレスレの位置を滑空していく飛行機。
やがて、国道上空へ到達した頃。ゆっくりと開かれた後部ランプから、霧の様なものが噴射され始めた。
霧は見る見る内に国道周辺に拡散していき、遠目に見える感染者の群れを覆い尽くしていった。
「な、何アレ?」
「イソプロピルメタンフルオロホスホネート。いわゆるサリンってヤツだ。インフラにダメージを与えずに感染者を一掃するには、一番効率が良い」
花梨の呟きにバックナーが返事をした。
「……え? 死人に毒ガスって、効果あるの?」
今度は真人が尋ねる。バックナーはあくまでもガスの行方から視線を切らず、その質問に淡々と答える。
「ああ。詳しい説明は後回しにするがな、少年。感染者はあくまで感染した『人間』であって、ゾンビじゃあない」
「え? ……そ、それって」
「でもな。治療法が無い以上、殺すしかない。オレ達を軽蔑するのは構わないが、邪魔だけはしないでくれよ?」
危ないからな、と付け加えるバックナー。それに対して誰も何も言えず、その間も毒ガスは広範囲に渡ってばら撒かれた。
半信半疑や戸惑いといった感情が生存者達の胸中を駆け回る中、数分も経たない内に感染者達に異変が表れた。
鈍かった歩みがピタリと止まり、次々とその場に倒れ始めた。小刻みに震える個体は恐らく痙攣しているのだろう。
その症状は瞬く間に群れ全体に伝播し、国道を埋め尽くしていた群れの大半が倒れ伏す異様な光景が春樹達の目に映った。
「心配しなくて良い。サリンは加水分解されるから、雨でも降ればキレイさっぱり除染されるさ。美しいこの島の自然には、何の影響も無い」
親指を立て、会心のスマイルを浮かべるバックナーから、花梨と真人は黙ったまま一歩離れた。
『……あれ? オレ、何かマズイ事言った?』
傍らに控える同僚の兵士達に尋ねてみるが、彼らもまた複雑な笑みを浮かべるだけで何も言わなかった。
『……まあ良い。メイリン、オレ達も始めるぞ。建物の外に居る連中は任せる』
『了解。中尉、もう少し場の空気というものを読みましょうね』
『……うるさいっ』
何事かやりとりをしていたバックナー達だったが、気を取り直したのか、春樹達に向かって真剣な表情で話し掛けてきた。
「これから、ここの敷地内の感染者達を排除する。引き続き屋上で待機しててくれ」
返事すら待たずバックナーは振り返ると、屋上から下へと続く扉に手を掛けた。その手には拳銃が握られていた。
続く3人の兵士達は、肩に提げていたライフルを構えている。
『いくぞ』
短く言い放った後の行動は迅速そのものだった。素早く周囲の安全を確認すると、4人は足音をたてる事も無く階下へと降りていく。
映画で見る様な特殊部隊の動きそのものだった。やがて、病棟の中から聞こえてくる銃声。
戦いとも言えない殺戮が始まったのだ。
病棟内から銃声が響き始めて間もなく、病棟の外でも掃討戦が開始された。V-22航空機の独特な爆音に混じって、機関銃の銃声が聞こえてくる。
屋上のフェンス越しに真人が地上を見下ろすと、アルファが感染者達に向けてM240機関銃を掃射していた。
おびただしい数の感染者の群れを、おびただしい数の肉片に変えていく。音速を遥かに超える速度で飛翔し、1分間に700発以上叩き込まれる弾丸の嵐が、無防備な感染者を襲う。
「す、すげえ……」
口を開けたまま呆然と呟いた真人を、我に返った桐子が慌てて引き戻した。あまり子どもが直視して良い光景には思えなかったのだ。
そんな状況にあっても、茜は顔色を全く変える事無く、春樹と沙羅の様子をじっと見守っていた。
春樹も、そんな彼女の視線に気付いていたが、何も言う事が出来ずにいた。
掃討という名の殺戮は、収束に3時間を要した。
屋上に戻ってきたバックナーは相変わらず場にそぐわない陽気な笑顔を浮かべていたが、それは彼なりに気を遣っているのだろう。
その身なりは、返り血を浴びる事も無く小奇麗なものであったが、少しだけ疲れている様にも見えた。
「さあ、ドンパチは終わりだ。皆、下に降りるからついてきてくれ。ああ、なるべく周りは見ない様にな。前だけを見るんだ」
先導する4人の米兵に追従する形で、14人の生存者達が地上を目指す。エレベーターに乗るには人数は多過ぎたため、階段を使う。
下の惨状を目の当たりにした時、一同は絶句する。
「人は、同じ人間に対して、ここまで出来るものなの……?」
「……『人間』が相手だったら、少しはためらったかもな」
事も無げに言い放つバックナーを睨みつける桐子だったが、それ以上の恨み言は重ねなかった。
死体の海の波間を縫う様にして移動し、一同が案内された先は、多目的ホールだった。
この中でかなりの犠牲者が出た筈だが、死体が転がっている様子も無く、きれいに片付けられていた。
それだけでなく、毛布等の寝具、医療器具の様な物が整然と並べられていた。
「あ、あの……? ヘリで避難所に連れてってくれるんじゃないんですか?」
不審に思った花梨がバックナーに尋ねると、彼は気まずそうに視線を逸らす。
「……あー……」
「その先は私が説明しましょう」
入り口付近から突然聞こえてきた声に振り返ると、そこには白衣を着た見慣れない男が立っていた。




