第28話 孝行息子
結論から言えば、春樹の叫びは楽園病院には届かなかった。それよりも大きな騒音が、他ならぬこの病院から発せられていたのだから。
「これは……放送室からっ!?」
突然の事態に困惑を隠せない桐子。何者かが、病院の放送設備を乗っ取った上でこの放送を流している。
では、一体誰が……?
「とにかく、止めないと。でも、その前に……!」
事務室に居た彼女は、警備室に急ぐ。これだけの音を出しているのだ。目前に迫っている感染者達に気付かれていないはずがない。
一刻も早く、正門を閉める必要がある。感染者の群れが、この病院になだれ込んでくる前に。
春樹と沙羅は、焦燥の真っ只中にあった。群れの大半は、既に進路を変え楽園病院へと向かっている。
先頭の一部の連中以外、最早こちらを気にも留めていない。
クラクションを鳴らしても、マイクを通して大声を張り上げても、振り返るのはほんの一握りの感染者のみ。
1人でも多くの感染者を引き付けたいところだが、先頭の機敏な連中が我先にと街宣車に殺到してくるせいで長く車を留まらせる訳にもいかない。
「くそっ!!」
病院の巨大なスピーカーは、今もラジオ体操の歌を大音量で垂れ流している。
仮に今からアレを黙らせたとしても、病院を目的地に定めてしまった感染者を、そこから別の方向に誘導出来るのか?
「蔵田さん。ここから先はわったーだけで行くよ。あんた方は病院に行きなさい」
1号車から長治が話しかけてきた。
「運天さん? 何を言ってるんですか!?」
思いがけない提案に戸惑いつつ言葉を返す春樹。互いにマイクを通して大声で会話する。
「病院からの音楽が止まない限り、囮にそこまで意味があるとは思えんよ。今から行って間に合うかはわからんけど、あんた方は病院に行くべきだよ」
「運天さん達はどうするんですか?」
「わったーは、このまま囮を続ける。少しは奴らの数も減るだろう。キリの良いところで上手く逃げるから、心配はしなくていいよ」
「……わかりました。きっと無事でいて下さい。絶対ですよ?」
「ああ、蔵田さんも気を付けて」
そこまで言った後、長治は春樹の返事を聞く事もなく車を先行させた。2台の街宣車のスピーカーの音量は最大に設定されている。
だが、不退転の覚悟を象徴するかのごとく、長治の駆る1号車から聞こえてくる咆哮が一段と大きくなった様に感じられる。
次第に遠ざかる1号車の後姿。1号車との距離が10メートルを超えた辺りで、春樹は2号車のハンドルを思いっきり右に切り、対向車線へと反転させた。
同時に、車のエンジンとスピーカーの電源を切り、静寂を隠れ蓑に感染者の群れへとその身を晒す。
1号車の騒音が効果的に陽動の役目を果たしているのか、沈黙した2号車が感染者の標的にされる事はなかった。
その脇を通り抜けて1号車の後を追う者は、いずれも動きの素早い感染者達。
個々の速度差のために生まれた群れの間隙。第一波をやり過ごした春樹は、すぐさま2号車のエンジンを始動させる。
1人2人の感染者が後ろを振り返ったが、その頃には2号車は既に走り去った後だった。
その様子をサイドミラーで確認していた長治は、自分達の戦いが始まった事を認識したのだった。
長治が改めて観察してみると、機敏に動く感染者達はそれほど多くない事が分かった。
少なくとも、100人には届いていない。追いつかれないギリギリの距離を保ちつつ、国道を北上する。
海沿いからトンネルをくぐり、林道へと入っていく。右手の山からは、燦々と輝く太陽が顔をのぞかせる。夜が明けたのだ。
周りが明るくなった事で、感染者達の様子がはっきりと見て取れる様になった。
静かなものだ、と長治は思った。それなりの人数が揃っているというのに、誰も何も喋らない。
元々人であった老若男女が、黙々と1号車へと追いすがる。喜怒哀楽のいずれも、その顔に浮かぶ事はなく、蒼白の顔面に見開いたまま瞬きすらしない目が、不気味な雰囲気を醸し出す。
「義治よ……」
一言だけ、長治は呟いた。妻のウシがハンドルを握る長治の左手に自身の右手を重ねる。
齢80を目前に控える老夫婦の手には、乗り越えてきた苦難を象徴するかの様に、深いシワが幾重にも刻まれていた。
数年前に親族に囲まれ金婚式を祝った彼らには、2人の息子と6人の孫が居る。
いずれも独立して2人の下を去り、この島から離れていたが、ある日次男の義治が家族を連れて帰って来た。
事業で失敗し、多額の借金を抱えての失意の出戻りであったが、迎える長治夫妻は笑顔だった。
出て行った時は1人だったのに、妻を娶り4人もの孫を連れて戻った義治に彼らは大いに喜んだ。
何せ、仕事熱心な義治は、盆正月にもまともに実家に帰って来る事は無かったのだから。
この様な騒動が起こらなければ、今も子や孫に囲まれ幸せな日々を送っていたに違いない。
今更考えても仕方の無い事なのだが、快晴の朝の空気があまりにも清々しいものだった所為か、そんな幻想が脳裏に浮かぶ。
「久しぶりに、ナーベーラーの味噌汁が食べたいなぁ。ウシ、今度作ってくれよ」
「フリムン。昨日食べたしが」
「……そうだったやー。もっと味わっておけばよかった」
林道が途切れ、国道は再び海岸沿いに出る。片側2車線の広い道路に彼ら以外に走る車は無く、その後方を行く感染者達以外に外を歩く人影も無い。
街宣車のスピーカーは相変わらず大音量でプロパガンダを撒き散らしていたが、誰も聞く耳を持たない今となっては、ひどく滑稽な選挙活動だった。
殺風景な国道を長く走っていた1号車は、小さな集落に差し掛かっていた。
本島には、約130万人の人々が生活している。
そのほとんどは中南部の都市に集中しており、北部にはほとんど人が住んでいない。
春樹らが住んでいた地方都市は北部の中では最大規模のものだったが、それでも人口は7万人にも満たない。
ましてや、楽園病院のある東北部の方になると、広大な面積を誇るにも関わらず、1万人ほどが住んでいるのみである。
そのため、国道上には小さな集落が点在するのみで、舗装された国道を少し外れると、人の手が入っていない原生林が果てしなく広がっている。
「ウシ、そろそろ運転を代わろう」
夜明け前からひたすら街宣車を運転してきたウシ。それだけでなく、襲ってくる感染者の陽動という極度の緊張感を伴う任務は、彼女からかなりの体力・精神力を奪っていた。
目に見えて疲労しているウシを見かねて、長治が切り出した。
「あそこにコンビニの駐車場があるから、そこで代わろうな。後ろの連中を少し引き離そう」
長治が指差す方向には、国道沿いに寂しく佇むコンビニエンスストアがある。
ウシ自身も相当な疲労を感じていたので、長治の提案に素直に従う事にした。街宣車の速度を上げて、ガラガラに空いた駐車スペースに乗り入れる。
ただでさえ集落の少ない過疎地域だ。人の生活の痕跡を感じられるコンビニは、2人を引き寄せる何かがあった。
「なに、ちょっと車を降りて席を代わるくらいなら、問題無いさぁ」
車を降りて、背伸びをする2人。冬の朝の冷たく澄んだ空気をありったけ肺に送り込む。
清々しい、爽快な気分だった。追いかけてくる感染者は、未だ100メートルほど後方を歩いている。
「さて、もうひと踏ん張りしようかね」
それぞれが運転席と助手席に乗り込み、ドアを閉めようとした、その時。
運転席のドアを掴む手がぬうっと現れた。
「長治!」
ウシが短く叫ぶのとほぼ同時にそれに気付いた長治は、反射的にその手を蹴りつけた。
その拍子に手が離れ、彼は叩きつける様にドアを閉める。ウシは既に助手席のドアを閉めていたが、そのガラスに血まみれの手が張り付いていた。
「……アキサミヨー」
致命的な失策だった。
人の痕跡が残っているという事は、人そのものの存在があるかも知れないという事。
そして、それが変異している可能性も同様にあるという事。
緊張感の綻びが、2人の警戒心を奪っていた。恐らくは、コンビニに訪れていた客が感染していたのだろう。
手早く運転を代わるために、車のエンジンをかけたままにしていた事も災いした。
否、エンジンよりも、スピーカーの電源を切らなかった事か。
大音量に引き寄せられた彼らが、店の中から出てきたのだ。3人の感染者が、車にとりついていた。
尋常ならざる膂力にさらされ、車体を大きく揺らされる街宣車。長治は慌ててアクセルを踏み込むが、エンジンは甲高い駆動音を響かせるだけで、一向に車は走り出してくれない。
当然の事だ。シフトレバーはPレンジに入っており、サイドブレーキも引かれたまま。
そんな状態で車が動くはずがない。
停車する際におこなったウシの当然の処置が、習慣が、彼らの逃亡を阻害した。
「ああっ、くそ……!」
長治がそれに気付いた頃には、後ろに居たはずの感染者の群れも街宣車の包囲に加わっていた。
瞬く間に無数の手が車のあらゆる窓を覆い尽くし、ガラスに細かなヒビが入っていく。
「……これはもう、駄目かもわからんね」
諦め半分に呟く長治。その直後、運転席側の窓が破られ、血だらけの手が差し入れられた。
変わり果てたその手の主と、長治の目が合う。そこで初めて、長治はその感染者の顔を見る事となった。
「……義治。お前、こんな所に居たのか」
運天長治の次男、運天義治は両親と共に楽園病院へと避難していた。
義治は、他県で結婚した妻と4人の子ども達を病院にたどり着く前に失っていた。彼らがどんな最期を迎えたのかは、今更語るまでもないだろう。
心神喪失状態にまで追い詰められた彼だったが、避難生活を続ける中で少しずつ自分を取り戻し、父母を気遣えるまでに回復する。
親思いの彼は、病院の物資が困窮しだした初期の頃、外への調達隊に志願する。
長治・ウシは当初これに反対するものの、渋々承諾し義治を送り出した。
が、調達に出た義治を含めた数人は、結局戻ってくる事はなかった。
その息子が今、父の胸倉を掴んで車外に引きずり出そうとしている。
「まったく、今までどこをほっつき歩いていたんだか」
そんな状況にあるにも関わらず、ウシの口調はどこか安心した様にさえ見受けられた。
助手席側のガラスも既に破られ、彼女の肩口には若い女性が噛み付いている。
「馬鹿息子よ。親元を離れて偉くなるより、親の傍で迷惑を掛ける方がよっぽど孝行になるのに、なんでそれがわからんかったか」
まあ、最期に顔を見せてくれて、良かったよ……
全身に牙を打ち込まれていく老夫婦には、息子にその言葉を言ってやる事は、ついに叶わなかった。




