第27話 暁の白波
最果ての南の島であるここは、同時に西の辺境でもある。それは、朝日から最も離れた地である事を意味する。
午前6時を回っているというのに、未だ居座る夜の帳。辺りは、このまま朝が来ないのではないかという幻想さえ抱かせる、不気味な静けさに包まれていた。
小高い丘の上にある楽園病院。そこから1キロメートルほど下った場所に架かるのが久我丹大橋。
久我丹島と本島を結ぶ唯一の橋である。その橋の手前の国道に、2台の街宣車が停まっていた。
「……囮?」
「ええ。連中には、このまま病院を素通りして島の最北端まで行ってもらいましょう。
久我丹大橋の手前から、車で大きな音を出して奴らの注意を引きつつ、北へ抜ける国道を進みます。
群れを上手く誘導出来たら頃合を見て車を放棄。見付からない様、静かに病院に戻ってきて作戦終了、です」
簡潔に概要を述べる春樹。なるべく簡単な事の様に明るく言ってのけた。
だが、状況は決して楽観視出来るものではない。事実、その場に居る誰もが何も発言出来ずにいた。
数千人の群れを相手に撃退出来る可能性など皆無であり、逃げる場所も手段も見出せない。
ならば、群れを誘導して病院から遠ざけ、やり過ごす他に方法は無い。しかし、誰が危険を冒してそれをやるのか。
「……囮役はわたしとハルキで務めます。物資調達に使っている車と、大きな音を出せる物があれば貸して下さい」
会合の場に集まった人間達の反応に予想はついていた。今まで外に出る必要がある仕事は全て自分達に押し付けてきた連中だ。
今回もそうなる事は想像に難くない。沙羅が自分から言い出したのは事を迅速且つ円滑に進める為だ。
やるべき事も多くなく、流れも単純でわかりやすい春樹の作戦だが、備える時間は長いほど良いに決まっている。
冷めた感情を心の奥底に留めつつ、沙羅は考える。この作戦だけでなく、その後の事を。
……最悪、病院内の人間を全て見捨てて自分達だけで脱出を図る羽目になるかも知れない。
そうなった場合、春樹に加えせめて真人と花梨の2人は何としても連れ出す。だから、あの2人にも囮役に加わってもらう事が最上の運びとなる。
しかし、それは望めないだろう。彼らは、危険の伴う仕事を全て春樹に押し付けておきながら、子どもがそれに加わる事を良しとしなかった。
病院に来た当初、ここの連中は調達に加わろうとする2人を頑なに妨害した。
「子どもが危険を冒す必要なんて無い。大人に任せておきなさい」
何とも中途半端な正義感だ。単なる見栄と言っても良い。しかし、その見栄を排除する術を今の自分達は持たない。故に、出来る事はその後にのみ存在する。
このような会合は、茶番でしかない。要は如何に罪悪感を軽減して危険を春樹に押し付けるか。そのためのものだ。
沙羅には最早この場に居る意味を見出す事が出来ない。一刻も早く終わらせて準備に移りたかった。実際に行動するのは自分達だけなのだから。
「なら、俺も囮役をやってみるさ」
不意に声を発する老人。その周りがにわかに騒然となる。春樹と沙羅が声の主を確認すると、それは見覚えのある人物だった。
先刻の騒ぎを収めるきっかけをつくった老人だ。その彼が、静かに春樹らを見ている。
「車1台だけで、何が出来るね? もう1台くらい居た方が、何かと便利だろう?」
「……なら、私が運転しようかね。長治、あんた免許持ってないでしょう?」
老人の妻なのだろうか? 彼と同じ年頃の、恰幅の良い体格の女性がニカッと笑う。
「このおじいよ、ずっと免許の更新を忘れてて、こないだ失効になったからさぁ。運転出来ない訳よ」
「やさ。やしが、こんな時に免許なんか誰も気にしないだろ? 俺1人で十分さ。ウシは黙って留守番しとけ」
「いいから。これは、もう決まった事だから」
「はっさよ。いつそんな事決まったわけ? 大事だけど」
老夫婦のコミカルなやりとりはしばらく続いたが、結局2人とも囮として春樹達に同行する事になった。
病院内の人間を見捨てて脱出を考え始めていた沙羅は毒気を抜かれ、春樹は何となく、尻に敷かれる長治の様子にコレが既視感というヤツなのかと1人感慨に耽るのであった。
そんな様子を見て笑っていた桐子が、こほん、と1つ咳払いの後に4人に提案した。
「それなら、とっても良い車があるわよ? それも2台。2組が囮をするなら、ちょうど良いんじゃない?」
そう言って桐子が用意してくれた2台の車が、春樹とウシが運転する街宣車である。
桐子が言うには、楽園病院の人権回復を公約に掲げ、県知事の職を掴み取った男の2振りの剣であるらしい。
「選挙戦の街宣車は、大体2台1組なのよ。コレなら音響設備は完璧だし、マイクも付いてるから演説も出来るよ?」
何より、『勝利を収めた縁起物なんだから』と誇らしげに胸を張る桐子に圧倒される形で、4人はこれに乗り込む事になった。
大きく目立つ文字で『饒平名政憲』と書かれた黄色の車体は、今までに春樹が運転したどの車よりもインパクトのある異様なものだった。
そのせいか、作戦決行直前の今になっても、4人の間に悲壮感は見られない。春樹も沙羅も苦笑いを浮かべている。
だが、その雰囲気はそれほど長く続く事も無かった。後ろを警戒していた春樹が視界の端に、ゆらゆらと蠢く人影を捉えられたのだ。
その頭上には白い『球』が妖しく輝いている。群れの先頭が久我丹大橋の手前に差し掛かって来ている。
集団の接近を目視した後、春樹はキーに手を掛ける。ディーゼルエンジンの低い音が静寂を破る。
「そろそろ、行きますか」
「とお。じゃあ、わったーが先に行くからよ。あんまり離されんようにな」
キャンプにでも出掛ける様な軽いやりとりの後、運天長治・ウシ夫妻の駆る1号車が先行して走り出す。
その少し後に春樹・沙羅の乗る2号車も。それに併せて、2台の街宣車が吼えた。
軍歌の様な勇ましい主題歌。よく通る女性の高い声で謳われる政治のあるべき姿、政憲の公約。
東の空以外宵闇に包まれた早朝の静けさを切り裂くが如く、辺りに響く騒音。戦いの始まりを告げる合図だった。
隣りの運転席で緊張した面持ちの春樹をよそに、沙羅は未だ苦笑いを抑えられずにいた。
会合の夜、桐子が変な茶々を入れてきたせいだ。
「ねえ、沙羅ちゃん。見て見て」
解散の後、春樹を含めた男達はさっさと散ってしまった。女性陣は、やれやれと飲みかけの湯飲みやコップを片付けていた。
春樹が広げたまま放置していった地図を眺め、桐子が沙羅を手招きする。当たり前だが、そこには自分達の住む南のこの島の道路図が詳細に描かれている。
桐子の指が沙羅の目の前でひとつひとつ指差していくのは、この島にあるリゾートホテルだった。
「こんなに狭い島なのに、たくさんあるでしょう?」
「……そうですね。しかも、チャペルまである。結婚式まで挙げられるんですね」
「そうそう。で、ホラ。ほとんどのホテルが西の国道沿いに集中してるでしょう? なんでかわかる?」
「いえ。土地が安かったんですか?」
「違う違う。西の海岸沿いにあった方が、ロマンチックに決まってるでしょ」
「……あ。サンセットって事ですか?」
「正解! 綺麗な夕日の前でプロポーズされたら、誰だって断れないよねぇ」
「まあ、旅行でこの島に一緒に来るくらいだったら、その時点で特別な恋人同士ですよね」
「……沙羅ちゃん、意外に冷めてるところあるよね。三十路前だから?」
「放っておいて下さい。桐子さんだってアラフォーでしょう?」
「ギリギリ30代よ。っていうか、春樹君とはどうなの? もちろん結婚するんでしょ?」
「えっ? いやー、どうでしょう? だって今こんな状況だし? そんな場合じゃないというか……」
「女の子の恋愛にどんな場合も無いの! どんな時でもブレないのが、女の子ってモンでしょうが!!」
「は、はぁ……」
その後、色々紆余曲折があったが、結局の所、桐子のアドバイスは『もっと押せ!』の一言に集約出来るものだった。
確かに、自分だって女の子な部分を持っている。幻想的な雰囲気とか、ロマンチックな台詞とか。憧れるシチュエーションだってあるし、好きな男性に言ってもらいたい言葉だってある。
でも、ブーケトスの受け手がゾンビみたいな化け物だらけというのはいただけない。あまりにも風情が無さ過ぎる。
というか、彼らも幸せになりたいのだろうか? とりとめもない思考に捉われた数十秒間。
やっぱり苦笑い以外出て来ない。隣りで深刻な顔をしている春樹を見て、思わず吹き出しそうになる。
いや、もう考えるのは止めよう。パシパシと頬を叩き、気合を入れ直す。
春樹は怪訝な表情で見ていたが、感染者の群れの先頭が視認出来る距離に差し掛かった時には、もう気にしている余裕は無くなっていた。
感染者は、明らかにこちらの出す音に反応している。作戦の第一段階には無事到達した。
少しだけ安堵した春樹は、改めて前方の一号車の様子を窺う。向こうも特に問題が発生した様子もなく、一定の速度で国道を北上している。
後は、感染者との距離を保ったまま病院から引き離す。そこに意識を集中しようとして春樹はハンドルを握り直す。
「……ねえ、何かおかしくない?」
呟いたのは沙羅だ。彼女の言葉の意味を汲み取ろうと春樹も後方に視線を巡らせる。
「確かに。連中は、こんなに機敏に動く奴等だったか?」
群れの先頭の連中は、明らかに速い。走るほどではないが、早歩きと言っても良いくらい、せかせかとこちらに迫ってくる。
感染による暴動が起きた当初、彼らの歩みは非常に鈍重なものだった。全身を引き摺る様にゆっくりと歩き、手を伸ばす動きも緩慢だった。
移動の際にバランスを上手く取れずに、転倒する個体も珍しくはなかった。それが、今は随分とスムーズな動きで歩いている。
「……おかしい。感染者の中で、何かあったのか?」
「ウイルスみたいなのが、突然変異を起こした……とか?」
車は時速10キロメートルで徐行運転をしている。それでも、感染者が見えなくなるほど引き離される事はなく、車を停車させる時間はほとんど無い。
通常、人は平均時速4~5キロメートルほどの速さで歩く。今、後方を歩いてくる群れはそれよりも速い。
それは完全に想定外の事態であった。
「ハルキ、運転を代わって! ハルキじゃないと確かめられない。群れの全員が機敏になってるの? それとも一部の連中だけ?」
状況を正確に把握する必要がある。停車し、素早く車を降りる2人。運転席に座った沙羅は、シートベルトもせずに車を発進させる。
春樹は、助手席の窓から身を乗り出し、車の屋根まで一気に駆け上った。その手には、双眼鏡が握られている。
双眼鏡を通して見る景色は、相変わらず真っ暗だ。依然として、日の出は遠い。
だが、彼には他人には見えないものを視る事が出来る。
「……速いのは一部の連中だけだ。けど、そのせいで群れが間延びしてしまっている。あまり良い状況ではないな」
下唇を噛み締める春樹の目には、闇の中を蠢く無数の『白球』が捉えられていた。
群れの先頭に向かうにつれ、その動きは忙しなく、後方に位置する『球』は見慣れた緩慢な動きだった。
それは一体何を意味するのか。
これほどの速度差があるというのに、先頭の群れだけで数千人規模だ。
つまり、もっと鈍い連中が、後からやってくるという事だ。今見えている者達の数倍の規模で。
一体、この群れは何万人居るというのか。それを、たった2台の街宣車で誘導する? 島の北端まで?
「……くそっ!!」
春樹の脳裏に絶望がよぎる。作戦の勝算が、急速にしぼんでいく。
前を行く一号車の老夫婦は、何を思っているのだろうか。無謀な自分達の作戦を信じて、賭けに乗ってくれた老人。
思えば、病院内の人間の中でよそ者の自分達を本当の意味で受け入れてくれたのは、彼らだけではなかったか。
あの老人だけは自分達ときちんと向き合ってくれていたのではなかったか。
あの老人だけは自分達の身を真剣に案じてくれていたのではなかったか。
彼らに報いたい。成功の見込みのほとんど見出せない無謀な作戦であったとしても、ちっぽけな正義感がそれを投げ出す事を許さなかった。
「……前に、進もう」
助手席に座り直した春樹。今は、頼りなく揺れる一号車のテールライトだけが、暗闇を行く彼らの誘導灯になっていた。
群れの誘導を始めて30分。東の空を中心に、辺りは大分明るくなってきた。
西の海岸にあるこの国道も、明け方らしい空の色に変わりつつある。群れの規模はともかくとして、その誘導は当初の予定通り進んでいる。
覚悟を決めた春樹は幾分落ち着きを取り戻し、今は冷静に群れの動向を観察している。
運転席からその様子を見ていた沙羅もほっと息をつく。
ルームミラーは相変わらず見たくも無い連中の顔を映しているが、迂闊に目を離す訳にもいかない。
これは長丁場になりそうだ。彼女はそう思っていた。その瞬間までは。
突如、耳をつんざくほどの大音量の音楽が流れ出した。
街宣車のものではない。2台の車は今も放送を継続している。この音は、病院の方から流れて来ている。
日本人なら誰もが聞いた事のあるあの曲。子どもの頃の夏休み。早起きをして、公園で、校庭で、公民館で。ラジオ体操の時に流れるあの曲が、暁の国道を支配する。
今の今まで街宣車の選挙放送に夢中だった感染者達の顔が、ギシギシと軋む様に病院のある方角へと向けられていく。
いつの間にか、あれほど素早く感じられたその歩みが止まっている。
時間そのものが停止してしまったかの様な、そんな数秒間だった。
やがて、感染者達が首から上だけでなく体そのものを病院へと向け、歩みを再開させたその刹那。
自覚があったのか無かったのか。本人には知る由も無かったが、春樹はその場に居た誰よりも早く動き出していた。
車外放送用のマイクを手に取り、電源を入れ、周囲の空気をありったけ肺に送り込む。
渾身の叫びを、楽園病院へ。
「桐子さん! 門を閉じろ!!」




