第26話 慟哭前夜
「み、皆さん落ち着いて! これじゃ話し合いにならないから……」
「つまり、奴らがついて来てたのに、今の今まで気付かなかったって事だろ!? あんな鈍い連中相手に、馬鹿かお前ら!」
「どうするんだよ、これから? 救助のアテも無いのに、化け物の群れがこれから来ますよってか?」
「ちゃんとどうにかしてくれるんでしょうね? 責任取ってよ、責任!」
あちこちから罵声や野次が飛び交う。桐子が何とかなだめようと右往左往するが、一旦爆発してしまった感情の波は、最早収拾がつかない。
病院に帰って来た春樹と沙羅がコミュニティの指揮・運営に携わる主要メンバーを集め、現状の報告を始めてからまだ30分と経っていなかった。
そう遠くない内に、ここに感染者の大群が押し寄せてくる。
この事実をそれぞれが理解した途端、彼らは責任の在り処を定め、攻撃を始めた。
槍玉に挙げられた2人は、静かに怒号が収まるのを待っている。
メンバー達はそれなりに長い時間、好き勝手に2人を責めたてていたが、非難の言葉を言い尽くした頃、ようやく静かになった。
「……そろそろ良いですかね? しゃべっても」
無表情のまま無機質に言い放つ春樹。殺気立っていたその場の空気が、急速に冷えていく。
「まず、この病院の立地について。海沿いにありますよね? 街からは国道で一本道。海沿いをひたすら走るだけでここに着くんです。
他に回る道も無い。尾行に気付くのに遅れた俺達も迂闊だったけど、いつかこうなるのは避けられなかった」
「それから。ここでお世話になる事になった時から、物資の調達を引き受けてきましたけど。
わたし達以外に、誰かそれをやってくれました? わたし達はそれなりに貢献してきたと思ってます。
それに免じて、今これからどうするか。一緒に対応策を考えて下さい。お願いします」
淡々と自分達の言い分を述べ、頭を下げる沙羅。もう誰も2人に対して何も言えなかった。
「……ごめんなぁ。わったー、ちょっとどうかしてたさ。ちゃんと考えるよ。これからどうしたら良い?」
そう言って1人の老人が頭を下げた。彼は一言も野次の類を発したりしていなかったが、この場の雰囲気に耐えられなかったらしい。
「いえ。こちらこそ、厄介事を持ち込んでしまって、申し訳無いです」
「はいはい! それじゃあ、これから何をするか、皆でかんがえましょう!」
意外な所から謝罪の言葉が飛んで来て、弁論抗戦の構えをとっていた春樹も毒気を抜かれ、つられて頭を下げていた。
笑顔の戻った桐子が号令を掛けると、ようやく会合の本題が話し合われるのだった。
「連中がここへやって来るまで、恐らくあと3~4日はかかると思います。昼も夜も関係ナシに歩いてますけど、病院まではまだかなりの距離がありますからね」
「饒平名さん。今ある物資で、どのくらいしのげますか? わたし達も、しばらく調達は不可能になるかと思うのですが……」
「1週間は十分もつと思う。皆が節約に協力してくれれば、2週間近くは生活に困らないかな。
保存の利く食べ物ばかり、というのも助かるしね。ホント、2人には感謝してもしきれないわ。
こんなにたくさん、どうやって集めてくるの? ずっと不思議だったんだけど」
「それはまあ、運が良かったというか、巡り合わせに恵まれたというか。とにかく、話を進めましょうか。俺にひとつ案があるんですけど……」
会合が滞る事無く進んでいく。皆の意識が統一してしまえば、あとは前に進むだけだ。
決めるべき事柄がそう多くなかった事もあり、その日の会合は1時間とかからずに解散へと向かった。
これより2日の間、病院内では何事も無く平穏な時間が流れる。毎日の様に調達任務を帯びて外へ出て行った春樹・沙羅の両名も、病院内で雑事をこなす事になる。
無事目が覚めた石垣良太であったが、その状態は万全とは程遠いものだった。
立って歩く事もままならない上に、言葉を失っていた。
意識や知覚・認識に障害が見られる訳では無い。ただ声を出せなくなっているだけだったが、いつ元に戻るのか見当もつかない。
それでも、病院の人間にとっては明るいニュースだった。
溺死という残酷な運命も、ずっと眠ったまま緩やかに衰弱していく末路も、良太は回避して見せたのだから。
多大な労力と時間を費やす事になるだろうが、彼はこれから少しずつ回復し、いつか無邪気な笑顔を取り戻してくれるはず。
誰もがそう信じていた。故に、病院内の人間は良太の世話の手間を惜しんだりはしない。
自分達の食事よりもちょっとだけ豪華で美味しい物を少しばかり多く与え、何かと世話を焼く。
周囲を取り囲む老若男女全ての人間が自分に温かく接してくれる。
ちょっと熱を出したくらいでは得られないであろう待遇に、良太は戸惑いつつも有難く思う。
目を覚ましてから3日。自分の置かれた状況を整理した良太。身振り手振りで懸命に謝意を伝え、時には筆談でコミュニケーションを取るその姿は、周りの人間を少なからず安心させるのであった。
夜。基本的に1日中寝たきりの良太は、睡眠過多の状態に陥ってしまい、眠れなくなっていた。
今はベッドの上で上半身だけを起こして、窓越しに空を見上げている。
九死に一生を得た安堵と、陸を助けられなかった己の無力さ。
あの日の事を何も聞かない周りの人達の優しさと、不用意な行動に陸を巻き込んだ自分の浅はかさ。
感謝に悔恨。自己嫌悪に自己否定。今までに感じた事の無い感情の奔流に翻弄され、知らぬ間に涙が溢れていた。
どれだけ振り絞ってみても音を出せないその声帯に代わり、しゃくりあげる呼吸と鼻をすする静かな慟哭が病室内を支配していた。
長く泣き続けていた良太だったが、ある程度時間が経つと嫌でも気分は落ち着いてくる。
泣くという行動は人間から思いの外エネルギーを奪うものらしく、心地よい疲労感が眠気をもたらしていた。
起こしていた体を寝かせ、マットレスに体重を預けると、スプリングの反発が背中に快い。
随分長く夜更かしをした様な、妙な気分だった。まどろみに身を委ね、睡眠の渦の中へと意識が埋没いていくのを感じる。
昂った意識を落ち着けた時、ようやく良太は病室の入り口に佇む少女の存在を認識した。
「……ごめんね、起こしちゃった?」
「まだ夜の9時にもなっていないのに、電気が無いと夜中みたいな雰囲気だよね」
病室を訪れてから、茜は取り留めの無い会話を静かに繰り返していた。
良太には声を出す事がかなわない為、傍から見れば延々と独り言を発する茜は滑稽に映る。
目が覚めてから、色々な人が見舞いに訪れたが、茜が来た事は無かった。
少なくとも、良太はそう記憶している。目を覚ました自分に驚いて人を呼びに部屋を出て以来、茜はここへは来ていない。
それがこんな時刻に、人目を忍んでやって来た。
きっと、自分を咎めに来たのだろう。自分が原因で弟を失ったのだ。自分に良い感情を抱いているはずが無い。
そう、覚悟を胸に刻んだのだが、当の茜は先程から穏やかな笑顔で自分を気遣っている。
「もう体は大丈夫なの? どこか具合が悪い所は無い? 何か食べたい物とかある?」
思わず苦笑が零れる。蛍光灯が灯りを燈さない病室は、普段ならこの時刻ともなると真っ暗だ。
しかし、今夜は満月だった。天気が良い事も相まって、窓から差し込む光はお互いの表情が見える程度には室内を照らしてくれていた。
かろうじて見て取れる茜の笑顔は、良太の緊張を次第に解きほぐしていく。
茜も、良太の表情を注意深く読み取り、確認しながら会話を進めていく。
陸が元気だった頃も含めて、良太が茜とこれほど長く話したのは初めての事だった。
彼らが病院にやって来た時、良太は茜の事を少なからず意識していた。
背は低く華奢な体つきの割りに、彫りが深く整った顔立ち。手入れの行き届いた長く豊かな黒髪が揺れる度に、シャンプーの微かな香りが鼻腔をくすぐる。
一目惚れだった。
それから、良太は彼女を目の端で追う様になった。
陸と仲良くなったのも、その下心が関与している事は否定出来ない。この姉弟は仲が良く、大抵2人は一緒に居たのだから。
陸の兄貴分として、頼りになる自分を見せたかった。同時に、彼女の事を何でもいいから知りたかった。
事ある毎に、陸から茜の事を聞き出し、次第に気持ちを深くしていく。淡い初恋だった。
思えば、こうして部屋に2人っきりでゆっくり話すこの時間は、良太が密かに求めていた幸せのひと時だった。自然に頬が緩み、視線は茜の顔に釘付けになる。
……ああ、この人はホントに、綺麗な人だな。
魅力的な笑顔はそのままに、茜が静かに良太に尋ねる。
「ねえ。どうして、海なんかに行ったの?」
ピシリ、と良太の耳に聞こえるはずも無い音が聞こえた。ガラスで出来た何かに、ヒビが入る様な、あの音。
顔に笑みを貼り付けたまま、良太が固まる。
「海に行こうって、誰が言い出したの?」
ああ、この人は。
「陸が泳げないって事、良太君は知ってたの?」
おれに会話が出来るかどうかを。
「大人の人達も、勝手に病院の外に出るなって、いつも言ってたよね?」
慎重に確かめていただけだったんだ。
見る見る内に血の気が引いていく良太の顔。それに向かって、茜が一方的に質問を投げ続けている。
「どうして、あんな沖の方まで行ったの?」
「どうして、事前に誰かに相談しなかったの?」
「どうして、もっと必死に陸の事、助けてくれなかったの?」
肝心の良太は、先程から『申し訳無い』とばかりに、今にも泣き出しそうな表情のまま硬直している。
良太の容態を確認し、あの日何があったのか、真実を確かめる。
冷静に事を進めてきたはずだが、事故の渦中に居た唯一の生き証人の煮え切らない態度に、茜の言葉は加速度的に熱を帯びていく。
質問は尋問に。
尋問は詰問に。
詰問は罵倒に。
「どうして、陸は死んだのにあんたは生きてるの!?」
その一言が茜の口を衝いて出た刹那、その場に居た2人は部屋の空気が急速に冷めていくのを感じた。
言ってはいけない言葉だった。茜がしまった、と思った時にはもう遅い。
笑顔を貼り付けたままだった良太の顔は、いつの間にかぐしゃぐしゃに泣き濡れている。
謝罪の言葉を口に出そうとした良太だったが、その口はパクパクと動くだけでどうしても発音を伴ってはくれなかった。
そうして取り乱す姿は、その目の前に居る茜の精神に苛立ちと憎悪の炎を掻き立てる。
なんで? どうして? と、壊れた玩具の様に繰り返す茜は、既に戻れない領域にまで踏み込んでしまっていたのかも知れない。
次第に支離滅裂な言動が目立ち始めた茜の様子に、良太の心には明確な恐怖が芽生えていた。
『もしも具合が悪くなったりしたら、コレを押してね』
脳裏に桐子の言葉が蘇る。使い方の説明を受けたナースコールは、何処にあっただろうか?
茜に気取られてはならない。今の彼女は、本当に何をするか予測がつかないのだから。
逸る気持ちを必死に抑え、後ろに回した右手でベッドの脇を探る。
心臓の拍動がやけにうるさく感じる。もしかしたら、鼓動の音で茜に気付かれてしまうのではなかろうか?
注意深く茜の様子を見守りながら、探る手は徐々にベッドの奥へと移動させていく。
ボタンを押す事さえ出来れば……!
病室で寝たきりの老人も少なくはない。故に、事務室には交代制で数人が常時詰めている。
そこに居る誰かに危機を知らせ、ここへ駆けつけて来るまで、何分かかるだろうか。
勝算はある。いくら自分が身動きの取れない病み上がりの身とはいえ、相手は自分より少し年上なだけの、女の子だ。
見たところ、凶器になる様な物も持ってはいない。誰かが来てくれるまでは、何とか持ちこたえられる。
そんな事を考えている内に、右手の中指の先が、目当ての物に触れるのを感じた。
改めて手に取ろうとした、その瞬間。
「……アンタ、何をやってんのよ」
今まで聞いた事も無い様な、低く冷たい声が、良太の両耳から脳髄へと容赦無く侵入する。
それに反射して彼の右手が強張った時、もうその中にナースコールは存在しなかった。
茜は、それを良太の手から力任せに引き剥がした訳ではない。単に良太が落としただけだ。
勝手に手を離しただけのそれを、茜は静かに拾い上げ、冷徹に見つめていた。
「コレ、ナースコールってヤツ? 誰か呼ぶつもりだったの? 私と話してるのに?」
ふいに、良太の脳裏に単純な疑問が浮かぶ。
目の前のこの女を、本当におれは好きだったのだろうか?
まるで、『執心鐘入』に出てくる鬼女の様だ。目は血走り、呼吸は荒く、つりあがった口元から覗かせる八重歯は凶悪な牙を連想させる。
情念とは、かくも人を変えてしまうものなのか。
今すぐにでもこの場から逃げ出したいのに、ゆっくりと覆いかぶさる様に近付いてくる茜の顔から、良太は目が離せないでいた。
茜は、鋭利な刃物でその胸を突き刺した訳ではない。
重い鈍器でその頭を殴打した訳でもない。ただ、カチカチと歯を鳴らして震える良太の傍にあった、枕を手に取っただけだった。
しげしげとそれを見定めた後、横たわる良太の顔を窺う。
相変わらず怯えているが、視線は自分の顔に固定されている。
私は、そんなに変な表情をしているのだろうか?
生憎、ここには鏡が無いので確かめようもない。目の前の良太は、先程から瞬きをする事すら忘れている様だった。
ふっ、と茜の表情が緩み、少し前に浮かべていた穏やかな笑顔が戻ってくる。
「……おやすみ」
ささやく様にその一言だけを投げ掛け、手に取った枕を良太の顔に優しく押し付ける。
優しかったのは、その刹那だけ。
ごく自然な流れであるかの様に、良太の上半身に馬乗りになった彼女はそのまま体重の全てを、枕を押し付ける両腕に預けた。
一瞬遅れて、良太がその意図を理解する。
渾身の力をもって跳ね除けようとするが、その両手はびくともしない。小柄な少女の体重とは思えない。
なにか違うものが、彼女に憑りついているかの様だ。それが、途轍もなく恐ろしい。
良太の視界は月の光すら届かぬ暗闇の中にあったが、どうしようもなくわかってしまった。
目の前の女に、己が憧れたあの笑顔はもう無い。組踊で見たあの般若の面は、この顔を模したものだったのだ。
生存本能に従い、女の両手を掻き毟る。良太の爪に、女の手首の肉片が食い込む。
同時に、生温かいものが良太の手を濡らす。それでも、上の女は押さえつける手を緩める事はなかった。
良太の手足が病人とは思えないほど忙しなく暴れようとも。
良太の四肢が脈打つ様に痙攣し、ただならぬ気配を醸し出そうとも。
良太の全身が動きを止め、生命の輝きが見られなくなろうとも。
良太の肉体が熱を失い、ただの肉塊と化しても尚、般若の腕が少年の顔を離す事は無かった。
「そうだよ。陸も、そうやって動かなくなったの。これで、一緒だね」
血まみれの枕から両手を引き剥がし、横たわる遺体に向かって冷たく言い放つ。
その顔には、穏やかな微笑があった。
「……明日の事が、心配……?」
「……ああ。思っていたより、少し早かったからな。正直、怖いよ。どうなるか、全然予想がつかない」
病院内の人間の『球』がちらほらと点滅を始めたのは、その日の正午頃だった。
点滅は瞬く間に伝染し、今、目の前に居る恋人の『球』もまた、赤く明滅を繰り返している。
「……うまく、いくかな……?」
春樹は今までに無く弱気になっていた。
この災害が起こってから、自分達を取り巻く環境は悪化の一途をたどっている。
人の死が視えても、その運命を回避出来た事例はそう多くはない。
今回は、今まで抗ってきた運命の中でも最大規模のものになる。成功する保障など、何処にも無い。
むしろ、分の悪い勝負になる事は目に見えていた。
「大丈夫だよ」
だからこそなのか、沙羅のその一言は思いの外心に響いた。思わず、溜息が漏れるほどに。
「大丈夫って……」
「うん。もしピンチになっても、ハルキだけは守ってあげる」
「……はははっ。うん、俺も同じ事を考えているよ」
忘れるところだった。昔も今も、自分はただの一般人だった。出来る事も、守れるものも限られている。
命の取捨選択は、今までだって掃いて捨てるほどおこなってきた。軋轢を生んだ事だって何度もある。
今更映画の主人公の様に格好つけてナーバスになってみても、全く意味が無かった。
「くくくっ、そうだな。そうだったよ、ははは……」
「……何よ。落ち込んだり笑ったり。わたし、そんなに可笑しな事言った?」
「はっはっは。いやいや、大事なものの再確認ってヤツをね」
「むーっ。なんかそれ、面白くないな。再確認が必要なほど見失ってたの?」
「ごめんごめん。うん、明日頑張るからさ。沙羅も手伝ってくれな」
作戦の概要は、あの日の会合で皆に伝えてある。今日は、明日の明け方にそれを実行に移す事を宣言した。
一応、出来る準備は全て整えた。明日の朝、全ての結果が出る。
「さあさあ、早く寝よう。明日も早いんだからさ」
知力・体力・正義感。どれも人並みな自分ではあるけれども。愛する人は守りたい。
精一杯自分を鼓舞し、努めて明るく振舞う春樹。
空元気だと分かっていても、沙羅はもう何も言わなかった。
「こんな人だから、守ってあげなくちゃ駄目なのよね……」
その呟きは、誰にも聞かれる事無く満月の空へと吸い込まれていった。




