第25話 忍び寄る気配
石垣良太は未だ眠り続けている。
饒平名桐子の見立てでは、命には別状は無いものの、いつ目覚めるかは分からないとの事だ。
バイタルを厳密に管理出来る本格的な機材が無い為、彼の状態を把握する事は困難だった。
生還が有り得ないほどの長時間水中に居続けたのだ。仮に意識を取り戻したとしても、重篤な後遺症を抱えている可能性もある。
決して楽観出来る状況ではなかった。
劇的な人命救助で沸き立った病院内の人間たちも落ち着きを取り戻し、今は静かに故人の死を悼んでいる。
志喜屋陸の葬儀が、しめやかに行われていた。
1つの命が救われたが、1つの命が失われた。
陸がこの病院にやって来てから、皆と過ごした時間はそう多くはなかったが、その場に居る全ての人間が彼の死を悲しんでいた。
この島の方言に、「イチャリバチョーデー」というものがある。
「出会ったならばもう兄弟」という、田舎ならではの人と人の近い距離感。
この国のことわざに、「袖振り合うも他生の縁」というものがある。
無宗教国家を自称しながらも、仏教に深く影響を受けた縁に対する考え方。
さらに理由を挙げるとすれば、楽園病院というコミュニティには子どもが少なかった。
殺伐とした病院の中で、無邪気に駆け回る子どもの笑顔は、人々にとって生きる希望と言っても過言ではなかったのである。
陸は、ここの人間達にとって紛れも無く『家族』であった。
遺体の焼却が完了し、変わり果てた彼は小さな骨壷に納められる。
世の中から隔絶されてきた楽園病院には、火葬場や納骨堂といった人間における終着地までもが、敷地内に内包されている。
ハンセン病を患った入院患者達は、家族と同じ墓に入る事すら禁じられ、専用の墓地にひっそりと眠っている。
陸は海の見える小高い岬にある墓に眠る事になった。
入所者の1人が生前に前もってつくった墓だったが、近年になって差別から解放された彼は、先祖や両親が眠る故郷の墓へと収められた。
放心状態にありながらも、大事そうに陸を胸に抱えていた茜。桐子がそれを促す様にして引き剥がす。
壷は木陰にある小さな破風墓に収められ、代わりに桐子から茜へ手作りの位牌が渡される。
「お盆には、これをたよりに陸君が後生から帰って来るから、大事にしてね」
泣き腫らした顔に微笑を浮かべ、桐子は位牌と茜の手を重ねて握り締める。
周りからはまた嗚咽が漏れ始めた。
皆が手を合わせ、目を閉じる。長い間、陸の冥福を祈っていた。
こうして、陸は淡々と決められた手順を経て『居なくなった人間』となった。
茜は涙の1粒も零す事無く、終始無表情であった。
かけがえのない家族の喪失。彼女の他の親類の安否は今となっては誰にも知る由も無いが、茜は今たった1人だ。
両親を目の前で失い、唯一の拠り所とも言える弟の死。
茫然自失となってしまっても無理もない。その心中を察すると、誰も茜に声を掛けられずにいた。
茜は静かに空を見つめたまま、いつまでもその場を動こうとしなかった。
陸の葬儀が終わって3日が経過した。ここの所、ずっと雨が降り続いている。
相変わらず、良太の意識は戻らない。昨日から、点滴による水分・栄養分の補給措置が始まった。
ここが病院の名を冠する施設である事もあり、医療品の類の物資はある程度の備蓄があった事が救いか。
それでも、昏睡状態が長く続けば続くほど、良太にとって良くない事は想像に難くない。
いつまでも昏々と眠り続ける彼を見舞う客は多い。
毎日決まった時刻に様子を見に訪れる桐子の他に、年寄り達や数少ない子ども達に至るまで。
陸の喪失の寂しさを埋める為か、病院内のほとんどの人間が良太の事を気に掛けていた。
そこに、今日になって初めて訪れる少女の姿があった。
「……よくないな、コレは」
フロントガラスを叩く雨をワイパーを作動させて払いながら、春樹は溜息を吐く。
ほぼ毎日物資の回収作業にあたっている彼は、今日も国道を車に乗って走っている。
空に居座る曇天が太陽を隠して数日。気分まで沈みがちになっている事もあるが、今日の溜息は違う。
「気のせいとかじゃ、ないよね……」
「ああ。少しずつだけど、確実に病院に近付いてきてるな」
街を行く中で、感染者の群れに遭遇するのは珍しい事ではない。
その度に身の安全や退路の確保等、適切かつ迅速な対処を求められる為、最近では感染者を見てもさほど驚かなくなってしまっている。
感染者との遭遇に慣れてくると、最初の頃よりも大分冷静に立ち回る事が出来る様になってきた。
そうなって初めて、群れがだんだんと病院のある方角に向かって移動している事に気付いたのだった。
焦燥に駆られつつも、今日の分の物資を確保するため、2人は自宅へと急ぐ。
基本的に、彼らの動きは鈍重だ。走る事が出来ないのはもちろん、歩行すら人間のそれに比べて幾分遅い。
力は信じられない程強いが、退路にさえ気を付けていれば、対応はさほど難しくない。
集団と鉢合わした場合は少し厄介だが、彼らは協力してこちらを追い詰める様な組織的な行動はとらない為、人間や獣の集団を相手にするよりはまだリスクは少ないと言える。
地の利を押さえ、音に引き寄せられる彼らの習性を利用し、コントロールするのだ。
見通しの悪い路地や、死角の多い商店街は通らない。あくまで幹線道路を車で走行する。
自宅の地下室までの道のりと、積み込み作業の間の安全の確保。
やるべき事と負うべきリスクを絞り込めば、戦闘訓練など受けていない一般人の2人でも、物資の調達程度であればどうにでもなる。
しかし、感染者の群れがこちらの居住施設にやって来るとなると話は全く違う。
家を放棄した経緯から身をもって知る事になったが、感染者を相手に篭城戦をするにあたって最重要な前提条件は、彼らに篭城を認識させない事にある。
一度標的にされてしまうと、拠点の防衛は途端に難しくなる。
恐怖や躊躇といった、前進を妨げる感情を一切持たず、休憩も必要としない。そのくせ驚異的な膂力を持った集団から、昼夜を問わず絶え間無い攻撃を受ける事になる。
屈強な軍人達が銃火器で武装している堅固な軍事拠点であれば問題無いと言えるのだろうが、春樹らは民間人で、あの病院は民間施設だ。
全ての男達を戦いに動員したとしても、3日ともたないであろう。
こちらが感染者に唯一優る敏捷性は、篭城戦では意味を持たない。さらに、200人規模の大所帯の上、身動きのとれない老人達を抱えたコミュニティでは逃走もままならない。
楽園病院が発見されてしまえば、全て終わりなのだ。
物資調達の帰り道。幹線道路に感染者の巨大な群れが出現していた。
「……まさか、ここまで……」
数えるのも億劫だが、数千人は居るのかもしれない。街にまばらに散っていた感染者は、東のはずれに集結しつつあった。
一切の言葉を交わす事も無く黙々と歩く彼らだが、向かう方向に統一性が見て取れた。
「やっぱり、病院のある方向に歩いてるね。どうする?」
「……帰ったら皆に相談しよう。しばらくは調達も出来そうにないな」
街のあちこちから集まってくる彼らのせいで、幹線道路も大分狭くなってしまっていた。
人でなくなった彼らには、歩道も車道もない。ただ前に向かって歩くのみだ。
そう遠くない内に、道路も草むらも林も海岸も、感染者の大群で埋め尽くされてしまうだろう。
呑気に物資調達などやっている場合ではなかったかも知れない。
先に立たない後悔を振り払いつつ、車を走らせる。群れに足を止められれば、その先はデッドエンドだ。
苦労して避けながらも、いつもの帰路を行く。有効な策も無い現状では、結局は病院に帰るしかない。
破滅を従えながらの帰り道。重苦しい空気を何とかしたくて、沙羅はラジオの電源を入れてみた。
相変わらず、ノイズ以外の音が全く出てこない。車内は静かなままだった。
「……温かい。良太君は、生きてるんだね……」
そっと首筋に触れる。そこには確かに体温が宿っており、それはあの時の陸には無かったものだ。
あてた手に、頚動脈の脈動が伝わる。体温、血液の巡り、呼吸の度に微かに上下する胸。
その1つ1つが、目の前で眠っている少年が生きている事を実感させる。
「何が、いけなかったんだろうね……」
陸を失ったあの日以来、1度も流れなかった涙が茜の頬を伝う。
一旦流れ始めたそれは、決壊したかの様に止め処なく溢れ出て、茜はしばらく嗚咽をかみ殺して泣いた。
どれほどの時間が経過しただろうか。外が薄暗くなってきた。
そろそろ女性陣は夕食の支度を始めなくてはならない。春樹と沙羅も物資を持って帰って来るだろうし、そうなったら茜も忙しくなる。
それに、いつまでもここで泣いていては気が滅入るばかりだ。
袖で涙を拭い、最後に良太の頭を撫でた、その時。
今までずっと閉じられていた良太の目が、ゆっくりと開かれた。
その光景に茜は驚愕したが、同時に奇妙な感覚を覚えた。自身の心の奥底でくすぶっていた仄暗い感情が、鎌首をもたげる様に表面に浮上しようとしている。
強張る顔面に無理やり笑顔を貼り付けて、茜は努めて優しく少年に話しかける。
「……おはよう。良太君」




