第24話 正と死、明と暗
「うーん。おかしいなあ……」
忌々しそうに良太が呟く。期待した程どころか、全く成果があがらない事に彼は戸惑いと焦燥に苛まれつつあった。
干潮時の浅瀬の探索を始めてもうすぐ1時間になる。目当てのウニが全く見当たらない訳ではない。
身がスカスカで、とても食用にならないものばかりという現状が問題であった。
通常、南のこの島においてウニが旬と言われる時期は6月~7月。ここに生息するサンショウウニ亜目のシラヒゲウニからは、本格的な夏を迎える直前に良質な身を採る事が出来る。
ちなみに、ウニはオス・メス共に食用になるが、その可食部位は生殖腺である。
つまり、オスなら精巣、メスなら卵巣という事になる。
産卵を間近に控えたその時期、生殖腺が発達し、食べ頃になる。
殻の中央を割って内臓を洗い落とすと、鮮やかな黄色の身が現れる。それこそが良太の目的の物であったが、完全にアテが外れてしまった。
真冬のこの時期では、食用のウニの身は全く採れないと言って良い。
もっとも、良太が両親に連れられてウニ捕りを目の当たりにしたのは、梅雨が明けた直後の事だったが、彼にはその時期が重要であった事など、知る由も無い。
この島の遊び場を知り尽くした良太だが、食糧事情には全く無頓着であった事に今更ながらに痛感させられたのだった。
無論、彼だけに責任があるとは到底言えるものではない。
食生活に困窮していた戦中・戦後の時代ではないのだ。現代を生きる子どもにとって、食べ物はコンビニやスーパーへ行けば何でも手に入るものだった。
世界がおかしくなってから、周辺のそれらの食べ物はあらかたあさり尽くしてしまった。
今はそこに行っても何も得られない。
いくら自然に囲まれた環境で育った良太といえど、自然の中から食料を得る術は持ち合わせていなかった。
2人がしばらく食用にならないウニを相手に悪戦苦闘を続けている内に、海辺の天気に変化が訪れた。
先程まで眩しいくらいに照り付けていた太陽が雲間に隠れ、風も強くなってきている。
太陽が見えなくなるだけで、ここまで周囲の印象が変わってしまうものなのか。
影を潜めていた『冬の海』が、いつの間にか2人を包んでいる。
気温も低下し、足下の水も冷たく感じられる様になってきた。
陸はぶるっと身震いをしながら空を見上げ、自分より少しだけ沖に居る良太に向かって声を掛ける。
「ねえ、良太。寒くなってきたよ? 遅くなると大人の人に怒られるし、そろそろ帰ろう?」
「も、もうちょっと。もしかしたら、少し沖の方が、良いヤツが捕れるかも」
陸の言う通り、ここが引き際なのは良太にもわかっていた。
しかし、兄貴分としての見栄が彼に帰るという選択を許さなかった。
不満そうに口を尖らせる陸を余所に、良太は沖へ沖へと歩を進めていく。
仕方なく、陸も箱眼鏡を片手に浅瀬の探索を続行するのであった。
「饒平名さん、陸を見ませんでしたか?」
物資の搬入を手早く済ませた春樹は、出迎えた桐子に向かって開口一番質問を投げ掛ける。
「陸くん? そう言えば今日はまだ見てないですね。朝食の時も居なかったし……」
「もし見かけたら、俺が探してたって伝えてもらえませんか? ちょっと用があるんで」
桐子が頷くのを確認し、春樹は歩き出す。今日はまだ陸の姿を見ていない。
ショッピングモールの一件以来、ずっと彼は沈んだままだったが、最近になって友達が出来たらしい。
同い年の友人は、陸に子どもが本来持つ無邪気な笑顔を取り戻してくれたらしく、陸の活動は活発になっていた。
実際は良太に追従しているだけなのだが、それが今回は春樹にとって心配の種になっている。
病院敷地内のあちこちで陸の行方を聞いて回ったが、一向に足取りは掴めない。
そこへ、手分けして陸を探していた沙羅が戻ってきた。
「春樹! あの子、良太君と一緒に海に行ったって……!」
「……っ! 嫌な予感と嫌な出来事ってのは、どうしてこうタイミングを合わせてくるかな……!」
駆け出す春樹。沙羅は懸命に追いすがり、陸の行った海岸の場所を伝える。
春樹の脳裏には幼い頃の記憶。命を救えなかった数多の経験の中でも、最悪に近い失敗の記憶。
あの子の表情がフラッシュバックする。『球』を亡くした冷たい亡骸の感触が掌に蘇る。
考え過ぎであって欲しい。取り越し苦労で終わって欲しい。
都合の良い逃避である事は重々承知しながらも、今は一刻も早く陸の下へと春樹は走る。
海の事故は唐突に訪れる様に見えて、実は周到に条件が整うのを待っている。
自然の悪意は犠牲者を無作為に選んだりはしない。犠牲者は知らない内に悲劇へのパズルを完成させてしまっているのである。
無論、好き好んでそのようなパズルを組み上げてしまう者などそうはいない訳で、人は条件を満たしてしまった者の『運が悪かった』と嘆く他に術を知らない。
この日、『運が悪かった』のは陸の方であった。
何度呼びかけても生返事だけで帰宅に応じない良太に痺れを切らし、陸は実力行使に出る事にした。
随分遠くに行ってしまった良太よりもさらに沖の方に素早く回り込み、耳を掴んで大声で「帰ろうよ!」と怒鳴る……筈だった。
どこまで沖に行っても水深は膝下程度。どこまでも果てしなく続く遠浅の潮間帯にも思えた海岸は、ある場所を境に急激に深くなっていた。
「あっ……!!」
陸の叫び声が響いたのはほんの一瞬。次の刹那には、小さな少年の体は冷たい海の中にあった。
持っていた箱眼鏡も手放してしまい、泳げない陸にとって水面へ浮上するための拠り所は皆無であった。
半狂乱になり、そこが水中であるのも忘れて叫ぼうとする陸。
物凄い速さで肺の中の空気と周りの海水が入れ替わっていく。それに伴い、さらに海底へと導かれる身体。
人間の身体が水に浮くのは肺に取り込んだ空気に拠る所が大きい。それを自ら手放してしまった陸は、水面へと帰還する術を完全に失ってしまった。
時間にして数秒ほどであろうか。呆気にとられていた良太は慌てて水中に手を突き入れる。
しかし、その数秒の間に、陸の身体は海底に向かって随分沈んでしまっていた。
虚しくその手は海水を掻き、最早陸が近くには居ない事を悟る良太。
すぐに大きく息を吸い込み、潜水を開始する。泳ぎは得意だった。少なくとも、小学校で自分より速く泳げる子どもは存在しない。
良太の、致命的な過信であった。
溺れる人間を救助する場合、決して正面から近付いてはならない。
パニックに陥った要救助者にしがみ付かれ、自分も溺れる二次災害が発生する為だ。
正面から陸の腕を掴みあげる良太。
かろうじて意識のあった陸は、その『蜘蛛の糸』を、力の限り引き寄せた。引き上げようとする良太をも上回る力をもって。
救助する者が、要救助者に。パニックは伝染し、良太もまた、水面へと至る術を失う。
そうさしたる時間的な差も無く、2人は海底で意識を手放す事になった。
春樹と沙羅が現場である海岸に到着した頃、波打ち際には人だかりが出来ていた。
その中心には、2人の少年が横たわっており、周りの者達はちょうど諦めた所だった。
絶望的に、遅かった。
春樹が早目の帰還を提案し、沙羅と共に車に乗り込んだ時、既に陸と良太は海中に居た。
それから2人が病院に帰って来るまでの30分強、少年達は暗い海底に横たわっていた。
たまたま海岸を散歩していた漁師の老人が、波間に漂う箱眼鏡と季節はずれのウニを満載したたらいを不審に思い、付近を捜索。
沈んでいた2人を発見し、海岸に運び出したのはつい先程の事だった。
その場で蘇生処置が施されたものの、2人が目を覚ます事はなかった。
懸命な処置は春樹らがやってくるまで15分近く続けられていたが、沈痛な面持ちで老人を遮る漁師仲間の手によって打ち切られた。
陸の側には茜も居た。冷たい陸の身体に縋って泣き叫んでいる。
真人と花梨の姿も、その傍らにあった。周囲の人間と同じく、声を押し殺してすすり泣いていた。
「手を止めちゃ駄目だ!! その子はまだ諦めてないっ!」
人だかりを掻き分け、ようやく2人の下へと辿り着いた春樹は、叫ぶや否や心臓マッサージを再開させた。
良太の身体に覆いかぶさる様に渾身の力を込めて胸を圧迫する。
終わりゆく生命を、必死で繋ぎとめる為に。
「なあ、兄ぃ兄ぃよ……」
見ていられないとばかりに、春樹の肩を掴もうと伸ばされた老人の手は、沙羅によって遮られた。
彼女には解っている。自らの恋人だけが見えるものを。
忍び寄る死の気配。未だ燃え尽きない生命の灯。死の気配は、生の煌きでもある。明暗は常に表裏一体であるらしい。
春樹が諦めないという事は、目の前の良太がまだ生きているという確固たる事実を示している。
それ故に、何人たりとも春樹の邪魔をする事は許さない。それが、今の彼女の役割だった。
『赤球』がけたたましく明滅している。少しでも気を抜けば、今にも消えてしまいそうだった。
止まってしまった心の臓の脈動を己の手によって再現させながら、頭の中は真っ白に染まってゆく。
真人も花梨も、茜も。外に出ていた自分よりも、ずっと早く陸と良太の不在に気付き、行方を追っていたに違いない。
いつも、そうだった。いつも、予め知る事が出来るのに俺は取りこぼす。
どうして、俺はこんなにも迂闊なのだろう。嫌な予感を予感だけに留めてしまった。
今も、こうして陸の命を取りこぼした。もう取り戻す事は叶わない。
しかし、目の前にかろうじて踏み止まっている命がある。
何の罪滅ぼしにもならないが、見過ごす事など到底出来ない。良太の命だけは、繋ぎ止める。
春樹には、もうそれしか考えられなかった。
周囲の奇異な視線にさらされながら、春樹はどれほど心臓マッサージを続けただろうか。
それまで何の反応も返さなかった良太が、聞き取る事も難しい程の、か細い咳を零した。
その小さな咳によって良太の心肺は脈動と呼吸を思い出し、それをきっかけにするかの様に激しく咳き込んだ。併せて、海水が少しだけ口から吐き出される。
意識を取り戻すには至らなかったが、良太の胸は微かに上下している。呼吸が戻ったのは明らかだった。
途端に、周りからは驚愕の声があがり、それはすぐに歓声に取って代わった。
諦めていた子どもの命が目の前で救われた劇的な展開は、その場に居合わせた人間を狂喜乱舞させた。
皆が手に手を取って喜びを分かち合い、涙を流して笑い合った。
命を失った志喜屋陸の姉、志喜屋茜は、その一部始終をどこか他人事の様に眺めていた。
陸の亡骸は未だその胸に抱えたまま。時に生意気で、時に泣き虫だった可愛い弟は、今はただただ冷たい。
……どうして?
どうして皆喜んでいるの? どうしてそんなに嬉しそうなの? どうして陸だけが死んじゃったの?
蔵田さんは、ここに来た当初から陸の事を一切見なかった。
でも、良太君は必ず助かるって確信してた。どうして?
2人とも、海の中に何十分も沈んでて、助かる見込みなんてどこにも無かったのに? どうして?
蔵田さんは、良太君に向かって『その子はまだ諦めてない』って言ってた。陸だけが諦めたって言うの? どうして?
陸は死んだのに、良太君は生きてるの? どうして?
どうして? どうして? どうして……?
陸を失った悲しみよりも、陸を蔑ろにされた怒りよりも。
茜の心の奥底には疑問だけが深く刻み込まれた。
人の生き死には、何処を境に分かれるの?




