第23話 生命の岐路
『安里屋ユンタ』という民謡がある。これは、本島よりさらに南西約500キロメートルに点在する島々に、昔から伝わる物語。
日本の最果ての、とある島での男女の恋のやりとりを謡ったものだ。
かつてその島に実在した安里屋クヤマは、絶世の美女。
偶然その島にやってきた王府の若い役人が、彼女に一目惚れをして自らの妻にと声を掛ける。
美しくも聡明な彼女は、言葉巧みに役人のアプローチを飄々とかわし、ついに彼のものにはならなかった。
あの手この手で迫る役人を、とんちの利いた絶妙な返しで、角をたたせる事無く退ける。
そんな男と女の駆け引きを面白おかしく歌うこの民謡は、最果ての群島だけでなく、この県全域で人気のあるものの1つである。
この逸話の特筆すべき点は、あまりにも異なる2人の身分にある。
当時、南西諸島はある王国が支配しており、その権力は絶大だった。
最果ての小島にやってきた男は、王府の人間といえど末端の下級役人でしかない。
それでも、庶民から見れば支配者そのもの。その意向に逆らうなど考えられなかった。
当然、そんな男から言い寄られたのだ。本人の意思に関係なくクヤマは男の妻になるしかない。
下手に拒んではクヤマ本人だけでなく、彼女の親類や島の人間にまで咎が及ぶ事になる。
そんな周囲の心配をものともせず、役人の面子を潰さぬまま、尚且つ自分の意志を貫く。
クヤマのその姿は島の住民達だけでなく、王府の役人達の心をも感嘆させるに至り、結局誰も咎められる事もなく、下級役人の恋は失恋に終わる。
最後に、役人はクヤマへの恋慕と負け惜しみを込めてこう言い残し去っていくのである。
「マタハーリヌチンダラカヌシャマヨ」
また会いましょう、美しき人よ
真人は、ショッピングモール内にある楽器店から、三味線を1つ持ち出していた。
慣れた様子で真人が旋律を奏で、花梨はそれに声を乗せている。
いつの間にか病院内の人間が便乗し、今では大合唱に発展している。
中には踊りだす老人達もいた。
この民謡を選んだのは花梨だ。なるべく楽しい歌を、と真人が悩んでいた所、真っ先に提案した。
それは正解だった様で、施設内は久しぶりに笑い声で賑やかになった。
その輪の中には事務員の饒平名桐子の姿もあった。
余裕を失い、殺伐とした空気が病院内を支配していく様を、有効な手立ても無く見ているだけだった彼女にとって、4人の新入りは歓迎に値する幸運だった。
桐子自身、ここまで緊張を緩めるのは久しぶりだった。
気が付けば、率先して大声で笑い、手拍子を打つのであった。
皆の喜ぶ様子を、志喜屋茜は複雑な表情で遠くから眺めていた。
正直、春樹の事は苦手だった。
元々、茜は人見知りで内向的な少女だった。特に、男性に対してはどう接して良いかわからない。
花梨とは小さな頃から仲が良かったが、異性である真人とはどことなく距離を置いて過ごしてきた。
この島から遠く離れた本土からやってきた大人2人。花梨から話は聞いていたが、会うのは初めてだった。
その上、両親を失い気が動転していたとはいえ、口論になり、彼のやり方を拒絶した。
お世辞にも第一印象が良いとは言えなかった。
沙羅の方は自分と弟の陸に対して優しく接してくれるが、基本的に春樹の側を離れる事は無い。
春樹を嫌う自分の味方になってくれるとは思えなかった。
茜にとって、花梨は親友だ。何でも相談してきたし、されてきた。
2人の間に隠し事は無く、あらゆる感情や行動を共有してきた。
だから、茜は花梨の事なら何でも解るし、花梨は茜の事なら何でも解る。
だから、茜は今の花梨を見て戸惑っていた。彼女は、男の人の前であんなに屈託無く笑う娘だっただろうか?
幼い頃から一緒に過ごしてきたという真人や、同性の沙羅に対してならまだわかるが、春樹の前でも花梨は明るく振舞う。
花梨は自分と同じ様に引っ込み思案な娘だったはずだ。
真人が傍らに居ない時は、自ら積極的に他人に関わろうとせず、1人で本を読んでいる事が多い物静かな女の子。
似た者同士。故に声を掛けた。すんなりと友達になれた。
ここへ来てもうすぐ1週間になるが、春樹に見せる花梨の笑顔は茜を困惑させた。
ひょっとしたら、蔵田さんはすごく良い人なのかも知れない。
春樹から意識的に距離を置き続ける茜の心中に、小さな棘の様に罪悪感が痛みを与えるのであった。
茜の弟、志喜屋陸は海岸に来ていた。隣りには、病院に来てから友達になった石垣良太がいる。
「陸、ウニ捕りに行こうぜ」
まるで散歩にでも出掛ける様に言う良太に、陸は純粋な好奇心から同行する事にした。
良太は生まれも育ちも久我丹島である。ここの事なら大体のものは知っている。
久我丹島は橋一本のみで本島につながる小島だ。元々小さく狭い事もあって、彼は幼い頃からこの島を隅々まで探索してきた。
タイワンカブトムシが好んで集まる木や、掌よりも大きく成長したジョロウグモの住む藪。
ヤンバルクイナの親子がよく通る秘密の小道に至るまで。不思議な事は良太に聞けば何でも教えてくれる。
同い年の良太を、陸は兄貴分として慕っていた。
子どもにとって、自分が知らない事を教えてくれる存在は羨望の対象になりやすい。
姉に似て大人しい性格の陸は、対照的に明るく積極的な良太によく懐いていた。
良太もまた、素直に自分の後をついてくる陸を弟分として大切に思っている。
久我丹島には子どもが少ない。100人をようやく超える程度の人口を構成するのは、大半が年寄り連中である。同年代の友達など数えるほどしかいなかった。
島には1つだけ小学校もあるが、全校生徒の数は10名にも満たない。廃校寸前といった状況だ。
久我丹島を徹底的に探検し尽くした良太は、退屈な時間を潰す事に躍起になっていた。
世界がおかしくなってからも、そんな彼の生活に大きな変化は訪れなかった。
日常が非日常へ。不謹慎である事はなんとなく自覚していたが、興奮も刺激も無い緊急事態は、良太を少なからず落胆させていた。
そこにやってきた大人しく従順な弟分は、彼を調子に乗せるには十分過ぎたのだろう。
100人以上の人間が生活していく上で、食べ物というのは思いの外大量に消費されていく様で、大人達がよく食料の確保を議題に話し合っている姿を、良太はよく目にしていた。
春樹らが車を持って現れてから、その状況はかなり改善されているが、悠々自適にはほど遠いのが現状と言える。
つまり、良太は手柄が欲しかった。可愛い弟分への見栄もあったかも知れない。
畑は大人達が管理しており、子どもの自分に出る幕は無い。
そこで、彼は誰も居ない海に活躍の場を求めてやってきたのだ。
2月目前。南国であるこの島も、それなりに寒い冬の真っ只中である。
しかし、温暖化の影響か、天気の気まぐれか。ここの所ずっと快晴が続いており、今日もとても暖かい。
靴を脱いで恐る恐る浅瀬に足を踏み入れてみるが、冷たいとは思わなかった。
「陸、大丈夫だ。お前も入って来いよ。旨い物いっぱい捕って帰ろうぜ」
蔵田春樹は、能山沙羅を伴って住み慣れた街をドライブしていた。
「ここに来てから、ずっと繰り返しているルーチンワークだ」
自嘲気味に沙羅に喋りかける。
「そう? わたしはこれはこれで楽しいと思うけどな、ドライブデート」
もちろん、ただのデートなどであるはずも無く、2人は今日も物資の確保に奔走するのであった。
病院内での春樹の仕事は、専ら食料を始めとした物資の回収作業だ。
日々車を走らせ、街中に放置された文明生活の残滓から、使えそうな物を拾い集め住処へと持ち帰る。
感染者が跋扈する街を歩き回る危険な仕事故に誰もがやりたがらなかったが、外からやって来た彼らに選択肢など残されていなかった。
沙羅が言う様に、ドライブとでも思わなければやってられない。春樹は密かにそう思う。
毎日の様に大量の荷物を持ち帰る春樹に、病院内の人間も春樹に一目置く様になっていた。
『使える』存在として認識されたために、すんなりとコミュニティの一員として受け入れられたのは僥倖だった。
少なくとも、真人や花梨達の安全は、当面は保障されたと言って良いだろう。
危険を冒す日々に価値は十分にあった。
とは言うものの、実は2人はそれほどのリスクを負ってはいない。
持ち帰った物資のほぼ全てが、自宅に備蓄していた物で占めていたからだ。
つまり、町中を駆けずり回って集めるのではなく、一箇所に大量に置いてある物を車に載せて持ち帰るだけの簡単なお仕事だった、というカラクリがある。
不本意な形で放棄した拠点であったが、ここにきて有効に活用出来る機会に恵まれた。
もちろん、感染者への警戒は厳重にする必要はあったが、2人の物資調達任務は今日も無事完遂されるのであった。
「今日は少し早目に帰ろうか」
手早く車に荷物を詰め込んだ春樹が、傍らで感染者の1人を『処理』する沙羅に声を掛けた。
「もう? でも、周りに感染した人は少ないし、まだいけるんじゃないの?」
「ああ。でも、気になる事があってさ」
春樹がこう言う時、沙羅は口を挟まない。春樹の心配事は『球』がらみのものである事がほとんどだからだ。
帰り道を走るワンボックスは、いつもより少しだけ速い。
「……毎日、なるべく全員の顔を見る様にしてるんだけどさ」
独り言の様に、運転席で春樹が呟く。
「誰かの『球』がおかしくなったりしてた?」
「いや。今日もいつもと同じだったよ。皆『赤』。この場合、現状維持って事で良いのかも知れないんだけど……」
「そう、今日はまだ会ってない人がいるのね?」
「うん。心配し過ぎなのかも知れないけど、そいつが今日に限って万が一『点滅』になってたら、と思うとね」




