第20話 敗走
助ける事に決めた。
心の中で、春樹は自分に言い聞かせる様に呟いた。
当面の危険を回避するまでだ。末永く保護する訳では無い。
同時にそんな言い訳までもが脳裏に浮かぶあたり、つくづく自分は映画の主人公には向いてないな、と嘆息する。
「おーい! こっちだ! 走れますか!?」
搬入口の周辺を見渡し、慎重に感染者の有無を確かめてから、一気にドアを開け放つ。
外に出るなり大声を張り上げたのだ。車から出てきた4人は、すぐにこちらに気付いて歩き出す。
子ども2人と、母親は無傷だ。だが、父親の方は怪我をしているらしく、走って向かってくる様子は無い。
母親に肩を預けつつ、せいぜい早歩きといったペースでこちらへと近付いてくる。
それに合わせてか、子ども達も走り出す気配は無い。あくまでも4人は歩いて搬入口へ向かう。
遠目には、さらにゆっくりと歩を進める感染者達の姿。どう見てもこちらを捕捉している。
結構な数の感染者がここに殺到してくるであろう事は、もはや明らかだ。
舌打ちをしつつ、春樹は4人の下へ向かう。一刻も早く、彼らをモールの中に連れて行かなければならなかった。
状況は、あまり良くない。外をうろつく無数の感染者に、自分達の存在を盛大にアピールしてしまった。
そして、更にまずい事に、感染者は春樹達のすぐ近くにも居た。
……父親の頭上の『球』は、白だった。つまり、感染している。
正気を保っている様子から見て、まだ発症はしていないが、それが何時訪れるのか、春樹にはわからない。
肩で息をしながら、今の現状を整理する。一行は、2階のフードコートに戻って来ていた。
搬入口からここに至るまでにある全てのドアに施錠と簡単なバリケードを作ってきたが、そんなものは気休めに過ぎない。
それに加えて、内側に時限爆弾を抱え込んでしまった厄介な事態に、思わず頭を抱える春樹。
正直な話、彼らの事は無視してしまいたかった。関わるには、あまりにリスクが高過ぎる。
しかし、彼らは花梨の知人だった。仲間の知人は無視する訳にはいかない。
ここで花梨や真人との間に軋轢を生じさせては、生き残る事が難しくなる。
不信感やわだかまりを抱えたコミュニティは、どこかで必ず致命的な失敗を犯す。
実際目の当たりにした事は無いが、それは容易に想像出来た。
今でこそ、全員が無事揃っているが、ここに至るまでに危ない場面はいくつもあった。
たとえわずかでも、信頼関係の綻びを生む可能性は看過すべきではない。
しかし、これは……
複雑な表情で押し黙ったまま思案に暮れる春樹に、花梨も真人も声を掛ける事が出来ずにいた。
「その傷、どうしたんですか?」
いきなり核心を突く一言に、場の空気が凍りつく。それを言ったのは沙羅だった。
彼女は、布の巻かれた男の右腕と右脚を見つめながら、静かに答えを待つ。
「これは……いや、何でもないよ」
平静を装って、ようやくその一言を返す男に、沙羅の追求は尚も続く。
「まさか、噛まれた、とか? だとしたら、それからどのくらい時間が経っていますか?」
「……ああ、そうだよ。2時間ほど経過している」
観念したのか、男も静かに答える。
「ここには、抗生物質を探しに来たんだ。たしか、処方箋受付の出来る本格的な薬局があったからな」
「……抗生物質?」
「あんたの懸念通り、俺は感染している可能性が高い。それで発症を抑えながら、治療法の確立を待つ」
それは無謀だ。噛まれたら、遅かれ早かれ人を襲いだす。今までに何度も見てきたではないか。
皆が等しく眉をひそめる中、言葉を発したのは花梨だった。
「おじさん。ウチらは今からここを出ます。おじさん達は、どうしますか?」
「じゃあ、一緒に行こうか」
「嫌です。おじさんを、連れて行こうとは思いません」
「……なんだと。ちょっと噛まれたくらいで、見捨てるのか!?」
声を荒げる父親。間に春樹が割って入り、彼から花梨を遠ざける。
「すみませんが、花梨の言う通りです。いつ発症するかわからないあなたは、危険過ぎる」
「ふざけるな! 俺は人間だ! あいつらとは違う!」
「もうすぐ同じになる。やっぱり、一緒に行動する事は出来ません」
花梨の、父親を突き放す言動によって、春樹の中の迷いは晴れた。ここからは、春樹の仕事だ。
「お前ら、それでも人間か? 自分さえ助かればそれで良いってのか!」
「……それで良いです。申し訳無いが、ここからは別行動になります。俺達の側には来ないで下さい」
冷たく言い放つ春樹。話はそれで終わりだった。男も踵を返し、己が家族に向き直った。
「……薬局に行くぞ。薬を取ってから、ここを出よう。大丈夫さ。父さんはおかしくなったりしない」
「お、お父さん、でも……」
「早く来い! 茜、お前達は父さんを見捨てたりしないよな!?」
男の怒鳴り声に、びくりと沙羅の体が跳ねる。しかし、怒鳴り声が響く前に、既に春樹は彼女の手を掴んでいた。
「……ハルキ」
「花梨、ごめんな。結局こうなってしまった」
「春兄、早く行こう。長く居るのは危ないからさ」
男に促されて、ただの階段に成り果てたエスカレーターを降りていく彼の妻、子ども達。
花梨の友人である茜は何度もこちらを振り返ったが、花梨はついに彼らを1度も見ようとしなかった。
このモールの屋上は、駐車場になっている。そこから地上まで緩やかなスロープがあり、そこを通って一行はここを出る事になる。
念のため入り口のゲートは閉鎖していたが、今に至るまで感染者がここに近付く事は無かった。
生きた人間の姿を視認出来なかったからだろう。
あくまでも、感染者達は直線的に生存者を追い掛ける。
人間の通った道を行く。人間のくぐった出入り口に固執し、人間の篭った場所をこじ開ける。
待ち伏せや先回りをしたり、別の侵入経路を探る様な知性は無いらしい。
その駐車場の一角。店内入り口のすぐ側に、春樹達の『ノアの箱舟』はあった。
ここに来るまで、一行は終始無言だった。気まずい沈黙が包む。
だが、少しでも早くここを離れるべきだった。モール内にいつ感染者が侵入してくるか、誰にもわからない。
幸い、車の確保も出来ていたし、物資の積み込みもほぼ完了している。
そう時間を掛けずに、ここを脱出出来るだろう。
道路地図をダッシュボードに放り込み、車のエンジンをかける。
エンジンの音に異常も無く、走行に何の支障も無さそうだ。
全員が乗車した事を確認し、運転席の春樹がブレーキペダルから足を離したその時、出入り口から2人が現れた。
女のこの方は、服に血が付いている。
「春兄、ちょっと待って!」
子ども達だった。その姿を見て、反射的に花梨が車を降りてしまった。
エンジンを切らずに、春樹も運転席を飛び出す。助手席の沙羅に後部座席の真人もそれに続く。
「花梨……お父さんと、お母さんが……」
「茜! ごめん、ごめんね……!」
言葉を遮り、彼女を抱き締める花梨。泣いている様だった。
「ねえ、ハルキ……」
「……大丈夫だ。あの子達は、感染していない」
「……そう」
2人の『球』は赤だった。先程までの『点滅球』では無い。あの女の子が、生きる道を切り開いたのだ。
何があったかは、想像がつく。
「2人とも、早く乗って。ここを出るよ」
努めて優しく、春樹は促した。泣きじゃくりながらも、後部座席に乗り込む茜と陸。
もうここに留まる理由は無かった。車は静かにモールを後にする。
「花梨。お父さんはね、私と陸を庇って噛まれたんだよ」
茜のその一言が、ちくりと春樹の胸を刺した。




