猫の手というか(4)
「で、夢魔がなんだってんだ?」
「優香ちゃんが、眠ったまま目を覚まさないんだ」
「優香ちゃん……?」
眉をひそめ、和久は本から顔を上げると、兄を睨む。
「まさか、誰だっけ? とか言わないでよ」
「い、い、言わないよ! あれだろ、ほら、えっと。ど忘れだ」
はっはっはと笑い飛ばしてやり過ごそうとしている兄に、小さくため息をつくと、和久は本に視線を戻して、ぼそりとつぶやいた。
「……僕らの妹だよ」
と、1テンポも2テンポも遅れて、兄の絶叫が書庫を揺らした。
「……なわけないでしょ」
「だ、だよな。びっくりた。マジでびっくりした。あのオヤジどもが、俺たちの目を盗んでイチャついて、うっかり子供ができました、とかいうところを想像しちゃったじゃんか。また想像しちまった、気持ち悪い。おえええ」
「やめてよ。僕まで想像して、気持ち悪くなってくるじゃない……もうやめようか、この話」
「そうしてそうして」
「えっと、優香ちゃんはゆずるの妹だよ」
「ああ、ゆずるのね。あのガキか」
兄は少しだけ遠い目になった。どうやら記憶の中の彼女を思い起こしているらしい。
つられて、和久も、つぶらな瞳の、少し口達者な少女を脳裏に想い描いた。
優香は、ゆずるの異父兄妹である。
ゆずるの父、圭一郎は九堂家の長男で、祖父にとっては、将来この一族を担う大切な一人息子だった。
だが、彼は、ゆずるの母親との婚約が決められていた時からすでに、別に想う女性がいた。無気力状態で、ゆずるの母と結婚したものの、その女性を諦めきれなかったようだ。妻がゆずるを身籠もったと知るや否や、忽然と姿を消した――離婚届だけを残して。
彼としたら、自分に代わる後継者ができれば、問題ないはずだ、ということだったのかもしれない。義務は果たした、と。
当然、圭一郎は、後継者としての資格を失い、二度と九堂家並びにその分家の敷居を跨ぐことを禁じられた。破門である。
不幸なのは、ゆずるの母である。結婚後、わずか四カ月で夫に逃げられた彼女は、特に取りみだした様子もないままに、離縁に応じた。
当時、十六歳だった彼女には、言われるままに結婚し、ゆずるを身籠もり、離婚に応じる以外に、道が残されていなかったのかもしれない。
離婚後、それでも彼女は、ゆずるの母親であり続けようとしていた。両親や、ゆずるの祖父母が勧める再婚の話に頑として首を縦に振ろうとしなかった。
この先の生涯を一人で生きていくと固く決めていた彼女を説得し、再婚させたのは、十歳になったゆずるであった。
『もういいよ。僕はもう大丈夫だから。今度は母さんが、幸せになる番だ』
この一言で、彼女は初めて涙を見せた。
こうして、ゆずるの母親は再婚を決意する。
ゆずるの祖父母は、これを大いに喜んだ。これで、息子の罪滅ぼしができる、そういう気持ちも大きかったのかもしれない。二人はすぐに、彼女の再婚相手を一族から探し出した。
そして、適当とされたのが、和久たちの父親の弟にあたる人物だった。一見、今度もまた、本家の言うがままの結婚に見えた。だが、違うのは、この相手の男が、全てを知って、密かに彼女に思いを寄せていたことにある。そう、彼は、ゆずるの祖父母が、彼女の再婚相手を探していると聞いて、自ら声を上げたのだ。
彼の温かな愛情に包まれ、彼女に笑顔が戻った。そして、彼女の心にも、いつしか愛が芽生える。
両親ともに心から深く望まれた子どもが生まれるまで、時間はかからなかった。
それが優香だ。
だから、ゆずるの妹と言え、優香は本家の祖父母とは血が繋がっていない。
当然、本家で暮らすゆずるとは別に、和久たち大伴の姓を名乗り、別の家で暮らしている。
兄妹が会えるは、祭儀の時など特別な時か、自発的に会おうとした時のみだった。
わざわざ会いに行った時はともかく、祭儀の時の二人の距離は家と家の距離よりも遠く感じ、優香はゆずるのしゃんと伸びた背中しか見ることが叶わない。
兄は次代様、自分は単なる分家の子ども。
家と家の距離よりも、年の差よりも、その違いは果てしなく大きい。
彼女の中で、ゆずるが『憧れのお兄ちゃん』として美化されていくのは想像に易い。
対して、ゆずるも自分に笑顔を振りまく妹を、心から可愛がっていた。
もしかしたら、彼女の存在がゆずるにとって、唯一の救いになっているのではないか、と和久は思っている。
いつも、心の休まらない毎日を送るゆずるにとって、何も考えずに、心の鎧を解くことができる居場所。
憧れもあるかもしれない。
自分も、妹のように、両親に愛された子供として生まれてきたかった、と。
「あの生意気なガキなら覚えてるよ」
兄の一言で、和久は我に返る。本のページも、気がつけば進んでいない。
自分の中のもやもやした思いをごまかすように、和久は笑顔をつくり、兄の話の続きに耳をかたむけた。
「あのガキはなぁ~、俺に向かってバカとか抜かしやがったんだ。あん時はこ~~んなにちっちゃかったけど、今いくつになったんだ?」
言いながら兄は、指で5センチくらいの幅を作ってこちらに見せた。
「小さっ! どこで会ったの、そんな小さな優香ちゃん」
「伯母さんの腹の中。俺がこんにちはって言ったら、『私、ゆずるお兄ちゃんのお嫁さんになるの。あなたみたいなバカとなんて、頼まれても結婚しない。あ、大変! お兄ちゃんにバカが移るから、直久と話すなって言われてたの』とかなんとか言いやがったんだ。ありえないだろう?」
「あはは。あり得ないね」
「だろう? こんな世紀の天才にむかって、バカとかどの面が言うってかんじじゃん?」
「え、そっち!? ……まあいいか。優香ちゃんも、今、小学一年生だよ。随分、美人になったんだから」
「ふん。ガキには興味ないね」
(でも、僕たちのお嫁さん候補だよ。しかもかなり有力な)
和久は、兄のために、心の中だけで呟いた。
一族では、いとこ同士で婚姻を結ぶのが慣例だった。中には、いとこだという理由で、三十歳以上歳の離れた夫婦も存在するくらいだ。十歳の歳の差など、適齢の枠におさまって余りある。
「で、あのガキが夢魔に取り憑かれたのか?」
兄が、見ていた本に飽きたのか、それをポイと後方へ放り投げた。
「十中八九ね」
可哀そうな姿で床に着したその本を拾い上げ、和久はそっと棚に戻してやりながら、話を続けた。