最高に使いたくない最後の手段(2)
笑ってる。
嬉しそうに笑ってる。
余裕なんだ。あいつは、ゆずるの力なんて、これっぽっちも恐れていない。
そんなに、力の差があるってことなのか。
――――死。
その一文字が頭を埋め尽くしていく。
想像してしまう。せずにはいられなかった。
文字通り、喰われる自分の姿を。
自分の腕や足に噛みついて。
むちゃむちゃと肉を喰いちぎり。
ずるずると血を啜り……びしゃびしゃと内臓を、骨をしゃぶるそのおぞましい姿を!
「うっ……」
急激に胃が熱くなり、強い吐き気がこみ上げて来たが、なんとか堪える。
でも、体の震えを止めることはできそうにない。
怖い。
そんな言葉では言い表せないほどの恐怖に、言葉も出ない。
ふと、ゆずるが呟いた。
「大人しく――喰われてやると思うなっ!」
ゆずるが両手を胸の前で、パンと打ち鳴らし、強力な上昇気流が巻き起こった。さすがの直久も、その風が結界を張る時に起こる現象だということは知っている。
ゆずるが張る結界ならば、一族最高級の結界だ。これを破れる強力な妖魔は、そういない。そして、強力な妖魔だとしても、小さな穴を開けて、結界をこじ開けるまで、時間がかかるはずだ。
(そうか、時間稼ぎだ)
直久はピンときた。
その間に、ゆずるの使役する妖狼たちが、優香を見つけ出してくれれば。そうすれば、狼たちはこっちに戻ってくる。
(助かるっ!! 助かるんだっ!!)
直久は、ぐっと歯を噛みしめ顔を上げると、まっすぐ夢魔を睨んだ。だが、夢魔はまったく答えていないようにも見える。逆に、夢魔の表情は、余裕の色が濃くなった気さえした。
気のせいだろうか。
気のせいであってほしい。
直久には、そう祈るように夢魔を睨み続けることしかできなかった。
「ふ~ん、結界はったの?」
面白いことするなあ、と言いながら、こちらをじっと見ている。
じっと見ている。
結界に不完全なところが無いか、探しているようにも見えた。
でも、ゆずるが作った結界だ。完璧に決まっている。
(どうだ、手が出ないだろう!! うちの、ゆずるをナメてもらっちゃ困るぜっ!!)
普段、自分がこれほどまでゆずるを頼りに思ったことがあっただろうか。
ゆずるの力を、ゆずる自身を信じたことがあっただろうか。
大丈夫。
このまま、夢魔が手だしできないでいる間に、式神たちがゆずるの妹を連れて戻ってくる。
そうに決まってる!
直久が自分たちの勝利を確信して、思わず口元を緩めた、その時だった。
「すごい、きれいな結界だね」
夢魔はぼそっと呟いた。
そして――ニタリと笑った。
「でもさ、忘れてない? ここ、ボクの住処だよ」
ゆずるの横顔が、ギクリと強ばるのが分かった。それと同時に、夢魔はパチンと指を鳴らした。
次の瞬間。
まるで空気が爆発したのではないかという大きな音が、響き渡った。
この音には覚えがある。今冬、ゆずるの張った結界が、壊れた現場に居合わせたことがあったのだ。その時に、同じように、風船が破裂したような軽い爆発音がしたのだ。
(まさか……そんなにあっさりと結界が……)
直久の悪い予感は、すぐに肯定されることとなった。
すっと夢魔は視界から消えたかと思うと、一瞬にしてゆずるの目の前に現れた。
「――っ!!」
目視できないほどの速さで、ゆずるの首を片手で掴むと、夢魔は嬉しそうに言った。
「今のボクに、出来ないことはないんだよ。君にはできないことだらけだろうけどね」
言い終わるや否や、ゆずるの体を腕一本で持ち上げてしまう。
「ゆずるっ!!」
ゆずるは首を絞めらた状態で宙に浮きながらも、なんとか自由になろうともがいている。苦しさに顔を歪め、夢魔の手を振りほどこうと、喉元を掻き毟っていた。
「やめろっ!!」
直久は、夢魔からゆずるを引きはがそうと手を伸ばしたが、その瞬間にものすごい力で吹き飛ばされた。放物線を描いて着地する直久を待ち構えるように、黒猫の大群がニャアニャア騒ぎ立てる。
体育館の床に叩きつけられた直久が、数十センチスライドして止まったところへ、いっせいに黒猫が押し寄せた。
「うわあああ」
黒猫たちは、鋭い爪と牙をたて、直久を傷だらけにしていく。噛みちぎられるほどの力はない猫でも、地味に痛い。
「いててて。やめろ、おいっ。いてっ! 顔はやめてくれ。いてててっ」
なんとか猫を振り払って立ち上がったものの、次から次へと猫が飛びかかってくる。
その猫を引っぺがしながら、ゆずるのもとへ戻ろうと試みた。
数十匹が足にしがみ付いていて、思うように動けない。
「だーっ! 邪魔くせえっ! ゆずるーーっ!!」
このままじゃ、ゆずるが喰われてしまう。
「ゆずるーーっ!! しっかりしろ、ゆずるっ!!」
必死で叫んだ。
他にできることが思いつかない。
夢魔に首を絞められ、今にも窒息しそうなゆずるを前に。
何もできない。
出来ることが無いっ!
「くっそおっ!! 先詠っ!! 早く帰ってこいっ!!」
ゆずるの死は自分の死。
ひたひたと近寄ってくる死に、抵抗することができない。
強大すぎる力に、虫けらのように殺される自分。
自然界の掟に従い、強き者の糧となる自分。
しょうがない、できないし。
無理。
もういいよ。
そんな言葉を簡単に吐いていた自分を思い出す。
諦めるのか?
今、ここで何もしなければ、ゆずるが死んでしまう。
全てが終わってしまうんだ。
ゲームみたいにリセットできる人生ならそれでいい。
まだ何もしてないのに?
でも、今、ここで何の抵抗もせず、ただ死を受け入れるのか?
(よく考えろ)
まだ何もしてない。
(できることが、何か――あるはずだ)
まだ終わってない。
――『直ちゃんがケガをすれば、その痛みはボク」にも届くようにするんだ。そうすれば、どんな危険な目にあっているのか、すぐに分かるし』
ふいに弟の声が脳裏によみがえった。
(そうだ……その後、カズはなんて言った?)
――『目を覚まして欲しいって時は、直ちゃんをぼっこぼこに殴ってくれればいいわけだから』
(それだっ!!)
直久は、心の中で叫んだ!
自分の体を使って、この危機的状況をなんとか和久に伝える。それしかない。
でも、どうやって?
今、現在すでに、猫に体中、切り傷だらけにされてるが、和久はいっこうに力を貸してくれる様子が無い。
このくらいの傷では伝わらないということなのか、それとも、自分がコケたとしか思われてないのではないだろうか。
つまり、自分の身に危険が及ぶほどの痛みが与えられないと、伝わらないのでは?
(俺に、死にそうになれってか! 最後の手段すぎじゃねっ!?)
だが、今ここに、自分の体を瀕死に追い込むほどの武器も見当たらない。
それに、今ゆずると自分がこの世界から逃げ出したら、優香はどうなる?
ゆずるという大物を逃した夢魔は、怒り狂って優香を喰らうに違いない。
だめだ。
優香を見捨てて帰るなんてできない。
(こんちきしょうっ!! どうしたらいいんだっ!!)