鬼ごっこ(3)
◇
何処までも続くと思われた暗闇は、ゆずるの予告通り、突然終わりを迎えた。
直久たちは、目の前に突如として出現した金属の引き戸の前に仁王立ちしていた。
「開けるぞ」
そう言ったのは直久の方だった。
すっかり元気というか、普段の調子を取り戻した彼は、若干の躊躇を見せたものの、気持ちよいほどの思い切りの良さで、その引き戸を開け放った。
だが、すぐに直久は小首を傾げた。扉は見た目よりも重さが感じられず、襖でも開いたかのような感触を覚えたのだ。肩すかしをくらった気分である。
(軽っ!! ゆ、夢だからかっ!?)
一瞬自分が怪力になったのかと錯覚しそうになったが、それもすぐにどうでもよくなった。
扉の向こうに広がっていたのは――。
「体育館……?」
直久の記憶にもしっかりと残っている。直久たち双子、そしてゆずるが小学校の卒業式を行ったのも、この場所なのだから。
「行こう」
ゆずるは、呆然とする直久の横をすりぬけて歩きだした。慌てて直久もそれに続く。
と、その瞬間。
────ジャジャン!!
まるで、直久たちの入場を歓迎するかのように、ピアノの音が体育館の空気を揺らした。
「な!?」
慌てて直久は視線を走らせる。その視線も、すぐに異様な物に吸い込まれるようにして動けなくなった。
体育館のステージのグランドピアノの前に、真っ赤な物体がある。いや、真っ赤な頭をして人物がいる。かなり長身に見えた。
緑、黄色の洋服で全身を被うその様はどこから見ても異様だ。目がチカチカしそうな原色の配色に直久は目眩さえ起こしそうになった。
(何だ、あれ!!)
その原色の人物、否、物体が、突如激しく動き出した。
『ねこふんじゃった ねこふんじゃった
ねこふんづけちゃったら ひっかいた
ねこひっかいた ねこひっかいた
ねこびっくりして ひっかいた 』
突然のピアノ弾き語り。曲目は、『ねこふんじゃった』というチョイス。
直久もゆずるも呆然となった。
いったい何が始まったというのか。
まったく状況が飲み込めない中、なおもそのリサイタルは続く。
『わるいねこめ つめをきれ
やねからおりて ひげをそれ
ねこ ニャーゴ
ニャーゴ ねこかぶり
ねこなでごえ あまえてる
ねこごめんなさい ねこごめんなさい
ねこおどかしちゃって ごめんなさい
ねこよっといで ねこよっといで
ねこかつぶしやるから よっといで』
世辞にも美味いとは言えないダミ声がビリビリと空気を揺らしているせいか、鳥肌が立ってきた。
(そ、そんな歌詞なんだ……)
この状況をどうしたらいいものか。一緒に歌った方がいいのか、踊った方がいいのかな。
そんなことを本気で悩み始めた直久は、ゆずるに救いを求めて、その顔を覗きこんだ。
が、すぐに、はっと息を飲む。ゆずるの表情はいついなく険しいものだった。
「ゆずる?」
「こいつだ」
ゆずるが唸るように言った。
「こいつが、夢魔だ」
「え? 夢魔ってつまり……」
「優香を連れ去った張本人だ」
「ええっ!?」
だって、出会ったらまずいんじゃなかったか?
ゆずるの力でも敵わないって言ってなかったか?
つまり。
これって。
(大ピンチーーっ!?)
がーんと、後頭部を殴られたような衝撃が、直久の全身を駆け巡った。
しかしながら、直久が機能停止していたのは数秒のこと。こういう時の直久は頭の回転が恐ろしく速い。すぐさま踵を返した。
「やばくない!? いや、やばいって。帰ろう。今なら間に合う。気持ちよさそうに歌ってる間に、お暇しようぜ! そうしよう、引き返そう」
ところが、直久の首根っこをゆずるが引っ掴む。
「無駄だ。とっくに気づかれて、閉じ込められた」
「ひえええええ」
気持ちよさそうに歌う夢魔の声が、さらに直久を恐怖に凍りつかせていく。
『ねこふんじゃった ねこふんじゃった
ねこふんづけちゃったら とんでった
ねことんじゃった ねことんじゃった
ねこおそらへとんじゃった
あおいそらに かささして
ふわり ふわり くものうえ
ゴロニャーゴ ニャーゴ ないている
ゴロニャーゴ みんな とおめがね
ねことんじゃった ねことんじゃった
ねこすっとんじゃって もうみえない
ねこグッバイバイ ねこグッバイバイ
ねこあしたのあさ おりといで』
「直!」
ゆずるが急に直久の腕を引っ張って体育館中央へと導いた。
どうしたのかと背後を振り返る。
猫だ。
直久の背後にいつの間にか黒ネコが座っていた。
どこからきたのだろう。ずっと直久たちの後を追いかけてきていたのだろうか。
首をかしげていると、すぐ隣でゆずるがさらに体をこわばらせるのがわかった。
何だろうとゆずるの視線を追う。
「なっ!」
右も左も黒ネコが座ってこちらを見ている。一匹ではない。
まさか、と思い背後を振り返る。
――増えてる!
「囲まれた」
ゆずるの声がかすかに震えていた。
あっという間に、直久たちを中心にして、円を描くように黒ネコの輪ができていた。しかもその輪は、じりじりと詰め寄ってくる猫たちによって、徐々に狭まっている。
『ねこふんじゃった ねこふんじゃった
ねこふんづけちゃったら とんでった
ねことんじゃった ねことんじゃった
ねこおそらへとんじゃった』
ピアノの曲は、そのリズムをだんだんと早め、大きくけたたましくなっていく。
そのリズムと同調するように、直久の心が逸る。
気がつけば、体育館は黒ネコで埋め尽くされている。
賭けてもいい。絶対ただのネコじゃない。
直久の野生のカンが警報を鳴らしていた。
逃げろ!
逃げるべきだ!
でもどうやって!?
背中をイヤな汗が、つーっと滴り落ちていく感覚に、全身の肌がざわめいた。
「だから猫は嫌いだ」
ぼそりとゆずるが呟いた。
「ええっ。今そんなこと言ってる場合っ!?」
「ふん。我が家は代々、犬派なんだよ」
毒づきながらも、ゆずるの喉がなる音が聞こえた気がした。
その時、ネコたちの前進が止まった。
同時に、ピアノの音もぴたりと止む。
気持ち悪いほどの静寂が訪れた。
「……」
直久とゆずるが息を飲んで見守る中、夢魔はゆっくりとピアノから離れ、ステージの真ん中まで歩くと、こちらに向かって深々と頭を下げた。
「ご静聴ありがとう」
抑揚のない少年のような声でそう言い終えると、夢魔は大きく跳躍し、あっという間に直久たちの目の前に降り立った。
「こんにちは。ボクはパノン」
そう挨拶する夢魔を前に、直久は呆気にとられた。
真っ赤な髪の毛、白すぎる顔にトマトのような鼻が付き、目の周りには黄色の星が描かれている。
(夢魔って……ピエロだったのか!)
世の中のピエロが全て夢魔であるかのような直久の発言ではあるが、確かにそれはピエロの姿に酷似していた。
「ねえ、ボク、君のこと知ってるよ」
夢魔は、完全に直久を無視するように、ゆずるだけに熱い視線を送っている。
「君、小夜の臭いがするもん」
「…………」
(小夜? 小夜って、あの小夜か? うちのご先祖様の?)
直久が眉をひそめるのと同時進行で、ゆずるの顔がさらに険しくなっていく。
「ボクって天才だね。あの女の子を食べようと思ったんだ。だって、小夜の血を引く人間を食べれば、ボクは強くなるからね。そしたら、もっとすごいものを捕まえちゃった」
「ということは、優香はまだ無事なんだな」
ゆずるが切り返した。
「今、鬼ごっこしてるんだ。飽きたら食べようと思ったんだよ。でも、飽きる前に君が来た。君がもってるれ力はあの子の比じゃないよね。だって君は、九堂家の後継者だろう?」
ゆずるは返事の代わりに、夢魔を睨みつけた。
「あれ、でも変だね」
そう夢魔が言い放った瞬間、その姿が消えた。いや、消えたように見えた。
その動きが速すぎて分からなかっただけで、一瞬にして、夢魔はゆずるの目の前へと移動していた。
「うわっ」
突然、目の前に現れた不気味な顔に、直久は思わず声をあげ、ゆずるも息を飲んだ。
しかも目線は長身の直久とほとんど変わらないことにも驚かされた。
声が少年のようだから、かってに子供のピエロだと勝手に思っていたが、中身はともかく、見た目は大人のナリをしているらしい。
「君、本当に後継者なの?」
ゆずるがとっさに、何か術を唱え、胸元からお札を取り出した。が、その時には、再び夢魔は少し離れた位置に移動してしまう。
「あれあれ~? おかしいな~」
もったいつけるように言うと、夢魔はくるりとこちらを振り返った。
「だって、君――女の子だよね」