虎穴に入らずんば(3)
ゆずるが慎重な足取りで歩き出した。その手に引っ張られるようにして、直久も鉄棒の脇を通って、校庭の中央へと足を進めた。
ゆずるの呼んだ式神の『先詠』が二人を先導してくれるとあって、先ほどよりも直久の足取りも心も軽くなっていた。つられて口も軽くなったらしい。
「さっき、風なんとかは、何て言ってたんだ?」
直久が問うと、意外にもゆずるはするすると話始めた。
「風酔だ。こいつは、酒さえあればあとはいらない、って単純な奴だ。『俺に飲んでほしいって人間の方から酒を持ってくるからしかたない』とかほざいているから、仕事を言いつけた」
「人間の方から持ってくる?」
そう言いながら、いつもより饒舌だな、と直久は不思議に思った。
正直なところ、無口なゆずると二人っきりになるのはご遠慮したいところだったから、ちょうどいい。
どうせ、いつもより機嫌がいいのか、それとも、死と隣り合わせの緊張感で、逆にハイテンションになっているのか。きっとそんなところだろうから。
「名前だろう。『風酔神社』なんて偉そうに掲げてるから、人々が酒の神様なんて崇めるんだ」
直久の眉が寄る。
「風酔神社って、あの風酔神社か?」
「そうだ。他に何がある」
直久が知っている神社は、直久たち双子の姉の夫の実家だ。夫といっても、やっぱり一族の者で、直久にとっては父方の従兄にあたる。
「待て待て。じゃあ、何か? さっきの『先詠』っていうのも……」
恐る恐る直久が問うと、ゆずるがさらりと言ってのけた。
「そうだ。お前の家に住んでる妖狼の事だ」
直久は、一瞬何を言われたかわからなかった。
(ちょっと……まて)
つまり、家の『先詠神社』にいるのは、神様なんかじゃなくて、妖怪だというのか!?
そんでもって、今、目の前にその妖怪がいるっていうのか?
全然見えないけどっ!!
「えええええええっ!」
突然叫んだ直久に、逆に驚いたのはゆずるだ。
「ば、ばか!」
ゆずるは慌てて直久の口を両手で塞ぐ。
「夢魔に気づかれたらどうするんだ」
「んが」
そうだった。隠れているんだった。
直久は、謝意を表すように、両手をこすり合わせた。それを見てゆずるが渋々、口を解放してくれる。
「まさか、俺の家が、妖怪の寝床だとは思わなかったわ」
「俺は、お前がそれを知らないで生きてきたことに驚く。表向きは、神を祀っていることになっているが、一族の中ではそこが九匹の妖怪の住処になっているということは、当たり前のことだ」
「そうだったのか……」
「だから、九の神社を我々は守っているのだろう?」
なるほど、と直久は思った。
「じゃあ、『朝霧神社』も……」
「そうだ。だが『朝霧』という妖狼には俺も会ったことがない。どこかで眠っているらしい」
「眠ってる?」
「小夜が死んでからずっと、眠りについているんだ」
直久は、また小夜か、と思った。
さっきから、何かにつけてその名前が出てくる。
今まで自分の一族について出来る限り考えないようにしていたから、気にならなかった。だけど、こうして話しを聞けば聞くほど、その謎の女の名ばかりが登場する。
いったいどんな女だったんだろうか。
『小夜』がいなければ、自分はこの世にいない。
だが、『小夜』さえいなければ、自分たち一族も存在しないし、そしたら、自分はこんなに悶々と人生について悩んだり、普通の人間としての暮らしにあこがれたり、自分にはキラキラ光って眩しい携帯ショップの前を逃げるように走りぬけることも無かったのだ。
全ては、一族が神様のように崇める『小夜』とかいう女のせいじゃないか。
「朝霧は……」
ゆずるの声に直久は、ゆずるの顔を見やる。
「朝霧は、小夜が死んだ後、長い長い眠りに付いた。一族の誰も、朝霧の姿を見た者はいない。人間の世界に絶望したためだと伝え聞いている」
「絶望?」
「分かる気がする。人間の愚かさと醜さに、嫌気がさしたんだろうな。でももう一つ理由がある気がする」
「もうひとつ?」
「……いや、何でもない。先を急ぐぞ」
直久は静かにゆずるの顔を見つめた。その表情はどことなく寂しげに見えて、なんとなくかける言葉を見失った。
とその時だった。
ゆずるが、はっとしたように顔をこわばらせた。
ビリビリと電気のようなゆずるの緊張が繋いだ手を通して、直久にまで伝わってくる。
何かがあった。
直久はゆずるの視線の先を追う。
何も見えない。
瞬きしても、目を凝らしてみても。
自分には何も見えない。
「どうした?」
不安に耐えかねて、直久が口を開いた。間髪いれずにゆずるが、ナイフのような目で睨みつけてきた。
「黙ってろ」
直久は口を閉ざすしかなかった。
ゆずるはこの時、はっきりと聞いた。
一瞬だったが、不気味な笑い声だった。
まるで夢魔が、自分たちを嘲り笑うかのように。
まさか、気付かれたのだろうか。
飛んで火に入る夏の虫。そう言いたいのだろうか。
『ゆずる、聞こえたか?』
ゆずるたちの一メートルほど先を歩いていた獣が、こちらを振り返ることなく話しかけてきた。
「聞こえた」
ゆずるは、ごくりと喉を鳴らした。
『近いぞ。急いだ方がいい』
ゆずるの身長の倍は体高があるその妖獣は、まるで体重を感じさせない軽い身のこなしで宙に舞うと、足音も立てずに、ゆずるのすぐ隣へと降り立った。巻き起こった風がゆずるの髪を揺らす。
『乗れ』
「わかった」
そう言うと、ゆずるは直久を振り返った。不安そうにこちらを見つめ返している直久を、少し不憫に思う。
きっと何が何だかわかっていないに違いない。
分からないことが、どれほど恐怖を与えるか。
見えないことが、どれほど不安を作り出すか。
ゆずるには痛いほど分かった。
ゆずる自身、月に一度、新月の日に、直久のように“無能”になるのだから。
だから、少しでも直久を安心させてやりたくて、式神を呼んだのだ。
「直。式神が運んでくれる。絶対に大きな声を出すなよ」
直久の眉が詰められた。
「わ、わかった」
その返事と同時に、式神の先詠が直久の襟もとを咥え、自分の背へと放り投げた。
「うっ……」
思わず声を上げそうになったのだろう。直久が、必死に自分の口を両手で押さえ悲鳴をこらえた姿のまま宙を舞う。そして、そのまま大きな妖狼の背にべちゃりと不格好に着地した。
さらに妖狼は、ゆずるのことも同じようにして背に放った。だが、ゆずるはひらりと身を翻して、すとんと収まる。
「ど、ど、ど、ど、ど……」
直久がこれ以上ないくらい目を丸くして、わけのわからないことを言いだした。どうなっているんだ、と言いたいのだろう。
それもそうだ。直久にはこの大きな獣の姿が見えていないのだ。自分たちが宙に浮いているとしか考えられないに違いない。
地面から数メートルの高さに浮いたまま、足元を見下ろせば普通の人はかなりの恐怖を感じるものだ。
「落ち着け。落ちたりはしない。歩いて移動するより、先詠の背中に乗ったほうが安全だ」
「ゆ、夢だ。これは夢だ……」
「おい、聞いてるのか?」
放心状態の直久を、ゆずるは覗きこんだ。が、ほぼ同時に妖狼が話しかけてきたので、すぐに意識をそちらに奪われた。
『動くぞ。掴まれ』
「待て」
慌ててゆずるは直久の両手首をつかんだ。そして、自分のウエストに回す。
「直、しっかりしろ。俺に掴まれ。振り落とされるぞ」
「え、な、うわああっ」
直久が叫び声をあげたのと同時に、妖狼が風を切って走り出した。反射的に、直久がゆずるに力いっぱい抱きついてきた。
ゆずるの顔がキグリと強ばる。
「……く、くっつき過ぎだ、離れろ!!」
ゆずるは、慌てて直久の頭を押さえて、自分から引きはがそうとした。だが、直久も必死だ。ゆずるから引き離されれば、落ちる。振り落とされる。だから逆に、全力でゆずるに抱きついてきた。
「無理ーーっ!!」
「離れろってっ!!」
「落ちる、落ちる!!」
ゆずるが拒否すればするほど、直久の腕はゆずるの腹部から上部へと移動しながら、がっちりと巻きついてくる。
「や、やめろっ!! 離せっ!!」
「死んでも離さないっ!! だって離したら俺死んじゃうじゃんっ!!」
ゆずるは慌てて、抵抗をやめた。
「分かったから、もっと下に……」
ゆずるはなんとか、直久の腕を自分のウエストの位置に戻した。
『お前たち何やってんだ?』
風速で走りながら、そう言って妖狼がカラカラと笑った。
「うるさいっ!!」
『顔赤いぞ』
「黙れっ!!」
『ヘイヘイ……飛ばすぞ。ちゃんと掴まれ』
妖狼の速度が増した。
かなりのスピードで走っているのに、目の前に見えている校舎が、なかなか近づいてこない。
ゆずるは首を右にひねった。
猛スピードで流れていくのは、鉄棒、ブランコ、サッカーゴール、鉄棒、ブランコ……。
同じものが同じ順番に過ぎ去っていく。
「先詠、駄目だ。このままじゃ、時間の無駄だ」
『そうだな。急がば回れってことか?』
ゆずるは、はっとなって頭上に視線を投げる。
「上だ!」
ゆずるの頭上には、まるで天地が逆さまになったような、学校のプールが自分たちを見下ろしていたのだ。
『なるほど』
途端に、先詠が上に向かって駆けあがった。あっという間に、宙返りするようにして、妖狼がそのプールの水面に着水する。
「うわあああああああ」
視覚に逆らったのが気持ち悪かったのか、ゆずるの背後から直久の悲鳴が聞こえたが、構っていられない。
『ふん。上に進めば、一瞬で次の空間にたどり着くとはな』
「次の入り口はどこだ」
『おそらくこっちさ』
妖狼は得意げに言うと、水中へと勢いよく身を躍らせる。
(まさか、水中か――!)
さすがのゆずるも、着水の直前に息を止め目をつぶった。
「のあああああ」
ばしゃりと音を立てて、ゆずるの体も水中へと投じられるのと、ほぼ同時に、再び背後から叫び声が聞こえた。
数秒後、ゆずるはぱちりと目を開ける。
(やはり、これもフェイクか……)
水の中だというのに、水圧はおろか、水に濡れる感覚すら感じられない。普通に呼吸もできる。
だが、確かに水中であるかのように、口から出た気泡はキラキラ輝きなから頭上へと上っていくし、時折ボコボコっという水音も聞こえた。
なんとも不思議な感覚だった。
衣服や髪は浮力で舞い上がっているように見えるのに、ちっとも濡れてないのだから。
『あったぞ、入口だ』
妖狼は、プールの底にある排水溝めがけて走り続ける。すぐ近くにあるように見えて、かなり遠いようだ。
水面近くでは、十センチほどに見えていた排水溝は、近づくにつれ、どんどん大きくなっていく。
ついに、目の前まできた時には、妖狼よりも数十倍の大きさになっていた。
(なんて大きさだ……)
排水溝の奥の暗闇がゆずるたちを嘲り笑うかのように待ち受けいるように見えた。目を凝らしてみても、黒一色で塗りつぶされた空間は、どこへ続いているのかわからない不気味さを漂わせている。
ゆずるは思わず息を飲んだが、先詠の方は、迷うことなく、まるで次は何が出てくるのかと、楽しむように、排水溝の先にある真っ暗闇へと飛び込んでいった。