虎穴に入らずんば(2)
◇
ゆずるが直久の半歩前を慎重に進み、教室の入り口まで数分かけて辿りついた。
そんなに用心しなければならないのかと、直久は内心、縮みあがるほどの恐怖を感じていた。自分には見えないが、ゆずるの目には何か不気味なものでも見えているのだろうか。
ゆずるの横顔を見ても、それが並大抵の警戒心ではないことがすぐにわかる。
直久にはただの小学校の教室だというのに。
目に見えないという事実が、ますます直久を恐怖の奈落へと引っ張りこもうとしているように思えてならない。
ゆずるが、一呼吸置いてから、ゆっくりとドアに手を伸ばす。まるで、何かを覚悟したかのようなゆずるの強い瞳に、直久の喉がごくりと鳴る。
「開けるぞ」
ゆずるが言った。
(そ、そんなにやばいのかよ!)
心の中でそう叫びつつ、直久はなんとか声が震えないように「おう。いいぞ」と答えた。
ガラガラっと音を立てて、教室のドアが開けられた。
眼の前に現れたのは廊下――ではなく鉄棒。
(て、鉄棒!? なんでこんなところに?)
手を伸ばせば触れるほどの至近距離に、直久の腰あたりの高さの鉄棒が数個並んでいたのだ。その隣にはブランコ、遠くの方にはバスケットゴール、サッカーゴールが見え、その奥に、今自分たちがいるはずの校舎がある。これはどう見ても……。
「……校庭だ……」
そう言った直久の声は、驚きにかすれてしまう。
教室を開けたというのに、その向こうにあったのは校門から校舎を見た風景であった。
信じられない。
いったいどうなっているんだ。
直久は呆然となったまま立ち尽くすしかなかった。
だが、逆に隣からは、ほっとしたように息を吐く音が聞こえてきたから、ますます直久はキツネにつままれたような顔になる。
明らかに、直久の知っている小学校とは違うのに、というか、現実ではありえない光景が広がっているっていうのに、なんでゆずるが安心したような顔をしているのか、さっぱり理解できない。直久はゆずるの顔をまじまじと見つめ、その答えを探した。
その視線に気が付いたゆずるが、バツの悪そうな顔を一瞬見せ、すぐにいつもの無表情な顔に戻してしまう。
「夢の中の空間はおかしいって言ったろ? あるべき所にあるべき物がないっていうのはよくあることだし、こんな場所にこんな物があるはずないのにあるっていうのも、よくあることだ」
「つまり、教室のドアを開けたら、校庭じゃなくて砂漠が広がっていたかもしれなかったわけか?」
「砂漠や草原ならまだいい。火の海だったり、深海だったりしたら、死ぬぞ。確実にな」
突然、ゆずるの口から飛び出した“死”という言葉に、直久はぎくりとなった。
「ゆ、夢の中で死んだらどうなんだ!?」
直久の声が、勝手に上ずった。
「二度と目を覚ますことなく眠り続ける。肉体は現実の世界に残っていたとしても、魂は死んでる状態になる。そのまま肉体が何年も眠り続けることもあれば、魂の死と同時に肉体が腐敗していくこともある」
「……ここで死んだら、終わりってことかよ……」
「そうだ」
ゆずるの言葉に、直久は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
実は自分がものすごく危険な所に居るんじゃないだろうか。
しかも、自分一人では何もできないというのに。
身を守る術も持ち合わせていなければ、家に帰る方法も知らない。
何だって、こんなところに来てしまったのだろう。今頃、家ですやすや寝ているはずだったのに。
(ここで死んでも、ゆずるとはぐれても、俺は死ぬとか……ありえなくない?)
いままで、直久が自分の死を身近に感じたことはない。だが、こうもわけのわからない、自分の能力の限界を超えた様を見せられると、意識せざるを得ないじゃないか。
このまま、自分はここで死ぬかもしれないと。
「式神を呼ぶか」
直久は、はっとなってゆずるを見た。ゆずるは、今までになく厳しい表情をしていた。
「式神……」
「ああ。案外、複雑そうだからな」
式神という単語を、瞬時に脳内で“手下の妖怪”という言葉に置き換える。そして、なんとなく違和感を覚えて、それをゆずるに問う。
「何? 今、近くにいないのか?」
和久が今日も突然「僕、家に帰るね」と言い出したのも、その式神の仕業であったが、いつも和久のすぐそばにいるといったイメージを持っていた。守護霊のような、背後霊のようなイメージだ。だから、ゆずるが『呼ぶ』と言うのが不思議だったのだ。今、ゆずるのそばに式神は居ないのだろうか。
なんとなく直久はあたりを見回す。当然だが、見回して見てもやっぱり何も見えない。
「式神の所有の仕方は人によって違う。和久の場合、体内に入れて持ち歩く。体内と言っても、心臓とか、肺とか、具体的な部位に、という意味じゃない」
和久の式神は『雲居』と言って、大蛇の妖怪らしい。人型を取ると、超が百万個付くくらいグラマラスな美女なんだよ、と和久が言っていたのを覚えているが、直久は一度もその“だいなまいとばでー“を拝んだことがない。
だから、どんな感じで弟とその巨乳美人が共存しているのか、妄想すると止まらなくなるのは、ご容赦願いたいところだ。
そんな直久を放置して、ゆずるは続ける。
「言うならば、体の表面にオーラのようにまとわり付かせるようなものだ」
「なーんだ。普段から人型してるわけでも、蛇になってぐるぐるに体に巻きついてるわけでもないわけね」
「……そうだな。この所有の仕方をしている者が式神を喚ぶ時、気を普段の倍以上に体内から放出する。それを餌にして、式神は元々の姿を取り戻し、姿を見せるというわけだ」
「ふうん」
要するに、使わない時はコンパクトサイズで主人の回りを取り巻いていて、いざという時には、主人の霊力を食って実体化して働くということなのか。
(なんか、乾燥ワカメみたいだな。水を吸って、でっかくなるだけじゃなくて、巨乳美人になるワカメなら、めちゃめちゃ売れると思うけど!! ていうか、俺は買う)
腕を組み、うんうん、と一人直久は頷いた。
「で、お前は乾燥ワカメ……じゃなかった、カズとは違って式神がいつもは別のところにいるのか?」
「そうだ。俺は九堂家の人間だからな」
そこで、直久はうっかりその事実を忘れていたことに気が付いた。
同じ一族でも、直久たち分家と、本家の九堂家はまったくの別の次元にいるような、そんな印象を直久は持っていた。
世間一般から見たら、どっちも変わらないのだろう。どっちも、おかしな能力をもつ、ヘンテコな一族だ。だが、曲がりなりにもそのヘンテコな一族の末裔である直久ですら、ヘンチクリンだなっと思うのが九堂家の住人だ。
そのヘンチクリン代表が、直久の祖父であり、次のヘンチクリン代表がゆずるになるわけだから、なんだか不思議だ。
(こうして見てると、俺と何にも変わらないのにな)
自分が“無能”であること以外は――。
直久は、そんなことを考えながら、ゆずるの形のよい唇が再び動き出すのを眺めていた。
「九堂家当主が所有する式神は、その昔、小夜が所有していた式神だ」
小夜の式神の話は、直久でも知ってる。
強大な妖力をもつ一匹の白狼から生まれた九匹の妖狼。
そのうちの八匹を式神として従えることができれば、一族の当主として認められるのである。
「式神たちは、能力も最強クラスだし、性格的にも扱いずらいのが多い。気性が荒かったり、人間嫌いだったり、気まぐれだったりするからな」
(なんだか、うちの姉貴の顔が浮かんだのはキノセイだろうか)
直久は、苦笑いしながら、ゆずるの右手が宙に持ちあがるのを眺めた。ゆずるの形のいい中指と人差し指が、するすると空中に文字を書くように流れる。
(……『炎』と……『刈』?)
「出でよ、炎刈」
ゆずるの声に合わせ、足元から上空に向けて突風が巻き起こった。その風の勢いに、直久は思わず目を閉じ、ゆずるの狩衣の袖がはたはたと舞い上がる音に耳をすませるのが精いっぱいだった。
「先詠、風酔」
ゆずるが式神の名を呼ぶたびに、風が舞い上がる。
(ん? 先詠?)
それは直久の自宅の神社の名前だった。
まさかな、と直久はそれ以上気に留めなかった。
しかし、風が収まったところで、直久は顔を上げ、すぐに眉を寄せることになる。
「風酔。お前、また酒を飲んでたのか?」
ゆずるが明後日の方向を向いて、そう言ったのだ。明らかにそこに誰かが居るかのように、うんざりしたような顔をしながら。しかも、鼻の前で右手をひらひらと仰ぐようにしている。
「もしかして……式神が来たのか?」
直久は、恐る恐る聞いた。それを受けて、ゆずるはあっさりと頷いた。
「ああ。風酔、先詠、炎刈を呼んだ」
「そうなんだ? 俺には何にも見えないけどな」
「酒臭いのは?」
ゆずるが、右前方を睨むようにして言った。
「いや? まったく感じないけど?」
「それはいいな。真昼間から飲んだくれてる奴がいてな。さっきから酒臭くてかなわん」
ゆずるはため息をついた。
「ふうん。式神って酒飲むんだ?」
「浴びるほど飲む奴もいる。今、俺の目の前にな」
ゆずるはそう言ったあと、再び右斜め前方を睨んで「屁理屈を言ってないで、優香を探して来い。炎刈も一緒に行け」と付け加えた。直久は一瞬びっくりしたように目を見張り、ゆずるを眺める。
ああ、なるほど。風酔とかいう式神が何か発言したのか。
なんだか、ゆずるの一人コントを見ているような気分で、可笑しかった。