5 虎穴に入らずんば
5 虎穴に入らずんば
ぱちりと直久の目が開いた。
げ、と息をのむほど至近距離にゆずるの顔がある。
直久は、反射的に体を起こして、ゆずるから離れようとした。が、まるで自分の体が磁石になったかのように、寝そべっている床から離れようとしない。
「ふん……ふぬぬ……」
唸りながら、腹筋に力を入れて、起き上がろうと何度か試みたものの、首から下は指一本動かせそうもなかった。
いったいどうなってるんだ。
小さく息を吐くと、直久はゆずるにあらためて視線を送る。
これは、ゆずるが目覚めるのを待つしかなさそうだ。
自分ではどうすることもできない、そういう領域に首を突っ込んだことを、肌で感じて少し不安を感じた。
頭では理解していた。弟やゆずるの見ている、この世とは別次元にある魔物の世界。
実際に体で感じるのと、頭で理解するのとではまるで違う。
肌の毛がぶわっと逆立つような静けさが、妙に気持ち悪くて、自分に弱気を連れてくるような気がした。
このまま、じっとしていると悪い方向にばかり考えがいってしまいそうだ。それはまずい。
自分から『楽観』の文字を取ったら、残りは『イケメン』だけになってしまうではないか。
「おーい、ゆずる、早く起きろよー」
声をかけたものの、ゆずるは気持ちよさそうに眠っていて微動だにしなかった。
そういえば、こんなに間近でゆずるの顔を見るのは初めてだ。
(こいつ……こんな顔をしてたっけ?)
ゆずるは毎日、授業が終わるとすぐさま帰宅し、薄暗い本殿で祝詞を奉じることで一族の安全を祈願しているという。
汗臭い体育館で、走り回っている自分とは違い、日焼けはおろか、しみやそばかす一つ見当たらない真っ白なゆずるの肌は、まるでゆで卵のようにつるっとしていて、柔らかそうだ。頬はうっすらと上気し、唇はぷっくりと膨らんだ果実のような赤い色をしていた。長いまつ毛は、切れ長の涼しげな目を覆い、影を落としている。
(きれいな顔してんなぁ~。芸能人みたいだ……いや、芸能人ていうか……)
前から華奢だとは思っていたが、肩なんか触ったら折れそうなほど細い。
(運動しないで、籠ってばっかりいるから、いつまでも筋肉がつかねーんだよ)
ちゃんと食べてるんだろうか。
一緒に暮らす相手が70過ぎの、干物に成りかけの老人たちでは、こてこての肉料理など食卓にはのぞめない。
そういえば、以前、ゆずるが一度もハンバーガーを食べたことがないと言って、目玉が飛び出るほど直久を驚かせたことがあった。極めつけに、ラーメン、パスタ、たこ焼き、スナック菓子も食べたことが無いと言うから、あんなに美味いものを、食べたことがない生き物がこの地球にいるなんて信じられない、と直久はしばらくの間、ゆずるを不憫に思ったものだ。
(ほんと、ある意味すごい奴だよ、お前は)
直久は心の中でつぶやいた時、ゆずるの瞼がゆっくりと開いた。
直久の胸が、どきんと跳ね上がった。
すこし驚いたように、ゆずるは大きく見開いたが、見る見るうちに、いつもの冷たい表情にもどっていった。
「何を見てる」
不機嫌そうにつぶやくと、ゆずるはすっと体を起こした。
「好きで見てたんじゃねーよ」
ゆずるは直久を無視して、立ち上がろうとし、はっと何かに気が付いたように振り返る。
「いつまで寝ている。早く起きろ」
「よくぞ聞いてくれました。体が動かないんだけど」
「……なるほど」
「なるほどじゃねーよ」
ゆずるは、繋いでいた手を離し、胸の前でパチンと両手を打ち鳴らし、何か呪文を唱えた。とたん、直久の体が自由になる。
「おっ? 動けるぞ?」
直久はぴょんととび起きると、肩や首をぐるぐる回し、体の自由を満喫した。
「お前の体に、薄い結界を張っておいた。外の世界と同じように動くことができるはずだ」
ゆずるは、言い終えるや否や、首を左右にひねり様子を窺う。つられて、直久もあたりを見回した。
(あれ……ここ?)
どこかで見た覚えがある。
正面には、何枚もの窓。右を向けば、黒板。
後ろを振り返る。緑色の壁に、世辞にも上手とは言えないような絵が何枚も貼ってあった。その一枚に、『一ねん三くみ おおともゆうか』の文字を見つけた。
「教室……?」
直久がつぶやくと、ゆずるが小さく頷いた。
「俺たちが通った小学校だな」
「なんか懐かしいなーっ!」
急にこみ上げてきた感情と、記憶の断片が、直久を高揚させた。
外の景色を見ようと、窓へ駆け寄ろうとした時、ゆずるの低い声が飛んできた。
「やめておけ」
直久の足がぴたりと止まる。
「夢の中は、不安定な空間だ。見た目では数十センチの距離が、一瞬で数キロの距離になってしまうこともある」
「……まじかよ」
つまり、直久がゆずるのすぐ隣にいたとしても、突然何キロも引き離されてしまうことがあるということだ。
それは、自力で夢から脱出することができない直久にとって、致命的。永遠に、夢の中に閉じ込められてしまう危険をはらんでいる、ということなのではあるまいか。
(そ、そんなの御免だ!)
ここは素直にゆずるの言うことを聞くのが、無事に現実の世界へ戻る道だと、直久は思った。だから、素直にゆずるの次の言葉を待つ。
「行くぞ。早く優香を探さなきゃならない」
「あっ!」
ゆずるが歩き始めようとしたので、慌てて直久は引き止めた。
「なんだ」
「あの……手を……」
ゆずるの眉間にしわが寄る。
「嫌なんだろう?」
「た、確かに、お前と手を繋いで歩くなんて、夢にしてもたちが悪い。悪いが、お前と離れたら俺、帰れないじゃんっ!!」
「帰れないな」
さらりとそう言って、再び歩き出そうとするゆずるに、直久に本気で慌てる。
「ちょっ!! 待って待って。帰れないな、じゃないでしょう。何、クールな顔で言っちゃってるの。はい、手繋いで!」
ゆずるが、ちっ、と舌打ちをする。もうひと押し、と直久は両手をこすり合わせ、拝むようにして見上げた。
「ね? ね? 可愛そうな直ちゃんのために、手繋ぐくらい、いいじゃなーい」
自分的に可愛らしく、小首を傾げて言ってみた。すると、本当に嫌そうに、まるで直久が地球史上まれにみる汚いものであるかのような顔で、ゆずるが直久の手を取った。
「そ、そんなに嫌!? さすがの直ちゃんも、傷ついちゃうんだけど、その顔」
「黙れ。嫌なら離す」
うんざりした顔でゆずるが短く言い捨てるので、すぐさま直久は口を貝のように固く閉ざした。
こんな酷い扱いは、確かに許すまじきものではあるが、今はゆずるが直久の命綱のような存在である。なんとかご機嫌を取って、家に帰るしかない。文句や報復は、元の世界に帰ってからすればいい。
それに、ゆずるがいつもよりピリピリしているのを感じる。
きっと、夢という不確かな世界の中で、その住人といつ鉢合わせするか分からないという状況が、そうさせているのかもしれない。
その住人と出くわすことが、どんだけ自分たちにとって危険なことなのかは、直久には実感が持てないが、それでも現実の空間とどこか違うということだけは、さっきから肌で感じていた。
直久という荷物を抱え、自分の妹の命を助けるために、自分の命をかけて、敵の巣穴に乗り込む。
それは、誰が考えても、恐怖と重圧に押しつぶされそうなほど、とんでもないことなのではないだろうか。
(だから今は、大目に見てやる。しょうがねーからな)
直久は、そうやってなんとか自分を納得させて、ゆずるの右隣りに並び、歩き出した。