白線の内側まで――
白線の内側は、生存の境界線。
深夜の駅は、いつもより静まり返っていた。
初日となる銀行の業務を終えたサクラは、ホームの白線の内側に、他の乗客たちと同じように直立して立っていた。
誰もが床の白い線から一ミリもはみ出さぬよう、完璧な列を作っている。息を潜め、視線を足元に落とし、ただ待つ。
奇妙なほどの沈黙が、ホーム全体を覆っていた。
頭上から、ノイズ混じりのアナウンスが流れた。
『まもなく、電車が参ります。白線の内側におさがりください。守れなかった部位は、直ちに裁断されます』
悪戯か、と思った瞬間だった。隣に立っていた男が、後ろから軽く押された拍子に、靴の先をほんのわずか線の外へ出してしまった。
次の瞬間、目に見えない刃が通過したように、靴先が音もなくスパッと切り落とされる。
男は叫び声すら上げず、顔を歪めながら、血の滴る足を慌てて内側へ引っ込めた。周囲の乗客は誰一人動かない。
ただ、自分の足元を凝視し続けている。サクラは全身の毛が逆立つのを感じた。この駅は、異常だ。
やがて電車が滑り込む。ドアが開くと、降りる乗客がいるにもかかわらず、列の後方にいた一人が待ちきれずに乗り込もうとした。
その瞬間、天井から巨大な鋼鉄のアームが飛び出し、男の胸を真横から強打した。
ドンという衝撃音とともに、男はホームの壁まで吹っ飛び、吐血する。
『降りるお客様が先です』
冷淡な声が響く。誰も動かない。サクラは理解した。ここは、「完璧なマナー」を強制する場なのだと。
乗り込もうとしたとき、背後から首の不自然に曲がった老婆が近づいてくる。サクラは心臓を激しく鳴らしながら、咄嗟に弾かれたように道を譲った。
優先席に座る男は、スマホに夢中で気づかなかった。次の瞬間、座席がパカッと大穴を開け、男は悲鳴を上げて線路下の闇へ落ちていった。
乗客たちは互いに距離を保ち、完璧な乗車を維持する。サクラもまた、一歩も動かず、誰の邪魔もせず、ただルールに従い続けた。
老婆に道を譲り、降りる人を完全に待ち、指先一つ線の外へ出さない。
極限の緊張で精神が擦り切れそうになりながらも、彼女は毎日、この地獄のホームを生き延びていた。
数ヶ月後。サクラは、いつも通り銀行の受付窓口にいた。
あの駅を経験した彼女や同僚たちにとって、「完璧なルール遵守」と「過剰なまでの丁寧さ」は、もはや骨の髄まで染み付いた習性となっていた。
突然、怒号が響いた。
「動くな! 金をバッグに詰めろ!」
二人組の強盗だった。散弾銃を突きつけられたロビーは一瞬で静まり返る。
しかし、サクラをはじめとする銀行員たちの表情に、パニックも恐怖も浮かばなかった。
「いらっしゃいませ。かしこまりました。ただいまご用意いたします」
サクラは美しくお辞儀をした。奥の社員たちも、マニュアル通りのお客様対応をするかのように、手際よく、極めて丁寧に大金をバッグへ詰めていく。
「早くしろ!」と机を叩かれても、サクラは微笑みを絶やさなかった。
「お急ぎのところ恐れ入ります。あと三十秒ほどでお手続きが完了いたします」
バッグを渡すときも、両手でしっかりと持ち、相手の目を見て頭を下げた。
「お待たせいたしました。またのお越しを、心よりお待ち申し上げております」
強盗たちは完全に拍子抜けしていた。激しい抵抗や泣き叫ぶ人質を予想していたのに、不気味なほど丁寧にあっさりと目的を達成してしまったのだ。
「…おい、なんだこの店、気味が悪ぃな。早くずらかるぞ」
鳥肌を立てた二人は、逃げるように銀行を飛び出した。パトカーのサイレンが遠くから聞こえる中、路地裏へ逃げ込み、地下へ向かう。
「車は捨てて、地下から逃げるぞ!」
二人が駆け込んだのは、薄暗い地下鉄の入り口――サクラたちが毎日使う、あの駅のホームだった。
ちょうど、各駅停車が滑り込み、ドアが開く。中から乗客が降りようとしている。しかし、焦り狂った強盗たちは
「ラッキーだ、これに乗れば逃げ切れる!」と、並ぶ乗客を突き飛ばし、白線を踏み越えて、我先にとドアへ飛び込もうとした。
その瞬間、天井から巨大な鋼鉄の影が高速で振り下ろされた。
頭上から、パチパチとノイズ混じりのアナウンスが流れ始める。
『――降りるお客様が先です。白線の内側におさがりください』
――そして、ホームは再び、完璧な沈黙に包まれた。
読んで頂き有り難う御座います。




