『婚約破棄されたので、請求書(複写式・実費精算)を置いていきますわ』
『婚約破棄されたので、請求書(複写式・実費精算)を置いていきますわ』
シャンデリアが眩いばかりの光を放つ王立学園の大広間。
卒業記念パーティーの喧騒がふっと途切れたのは、中央の壇上に上がった第一王子エリオットが、これ見よがしに銀のフォークでグラスの縁を鳴らした瞬間だった。
チーン、と甲高い音が冷え切った大理石の床を滑っていく。
エリオットの腕には、桃色の巻き髪を揺らし、これでもかとばかりに上目遣いで周囲を威嚇する男爵令嬢、シェリーが絡みついていた。安っぽい香油の甘ったるい匂いが、ここまで風に乗って漂ってくる。
「我が婚約者、エレノア・クロムウェル公爵令嬢! 前へ出よ!」
エリオットのよく通る声が響き渡る。
私は、手にしていたシャンパングラスを給仕の盆へ静かに戻した。
ネイビーブルーの夜会服の裾を翻し、一筋の乱れもない歩調で壇の前へと進み出る。背筋をピンと伸ばし、扇を胸の前で優雅に畳んだ。
「お呼びでしょうか、エリオット殿下」
「とぼけるな、この冷酷な氷の女め!」
エリオットは勝ち誇った笑みを浮かべ、シェリーの腰を引き寄せた。シェリーは「きゃっ」とわざとらしい声を上げ、これ見よがしにエリオットの胸板にすり寄る。
「貴様は己の立場に驕り、真実の愛で結ばれたこの可憐なシェリーを執拗にいじめたな! 彼女の教科書を破り捨て、階段から突き落とそうとし、挙句の果てにはサロンで暴言を浴びせたと聞いている! 嫉妬に狂った悪女など、次代の王妃に相応しくない! よって貴様との婚約を破棄し、シェリーを新たな正妃として迎えることをここに宣言する!」
広間がざわめいた。
周囲の貴族たちが息を呑み、憐憫と好奇の視線が私に集中する。
――ああ、やっと来た。
私は胸の内で、深く、深く、万感の思いを込めて安堵の息を吐いた。
待っていたのだ。この阿呆が公の場でやらかすのを、今か今かと待ちわびていたのだ。
「……殿下。今のお言葉、取り消すおつもりは毛頭ございませんのね?」
「ふん! 往生際の悪い女だ! 大勢の証人の前で宣言したのだ、撤回などするものか! さあ、己の罪を恥じ、泣いて詫びるがいい!」
「かしこまりました」
私が即座に、鈴を転がすような美声で快諾すると、エリオットは鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。
「……は?」
「婚約破棄、喜んでお受けいたしますわ。つきましては、業務の引き継ぎ並びに清算の手続きに入らせていただきます」
私は壁際に控えていた我が家の私設秘書にスッと右手を上げた。
秘書のアラン――眼鏡の奥の瞳を冷ややかに光らせた筋骨隆々の男が、ずっしりと重そうな革張りのアタッシェケースを抱えて壇上へと歩み寄ってきた。
バチン、と金具を外す重厚な音が静まり返った広間に響く。
「な、なんだそれは?」
「引き継ぎ資料及び、損害賠償請求明細書ですわ」
私はアタッシェケースから、電話帳ほどの厚みがある羊皮紙の束を取り出し、壇上のエリオットの足元へ『ドン!』と置いた。埃が舞う。
「まず、シェリー様への嫌がらせの件ですが。そちらの三枚目をご覧ください。日時、場所、および私の分刻みのアリバイ表です。破られたとされる教科書の日、私は王宮の主計局にて殿下の滞納された遊興費の帳簿合わせを行っておりました。階段から突き落とされたとされる日、私は隣国の特使団との通訳兼接待に出ておりました。サロンでの暴言? その時間、私は領地から届いた小麦の収穫高の監査中でしたわ」
「な、何をでたらめを……!」
「でたらめではありません。すべて宰相閣下と近衛兵の署名付きです。ついでに申し上げますと」
私はシェリーに向き直り、極上の微笑を浮かべた。
「シェリー様。殿下の懐からくすねた金で誂えたそのドレス、我がクロムウェル商会が卸している最高級シルクですわね。まだ代金が未納となっております。そして、殿下に『貧しい我が家のために』とおねだりされたという療養所建設費用の名目の補助金ですが、調査の結果、全額が王都の一等地にあるホストクラブに消えておりました。指名ナンバーワンの美少年剣士のサイン入り領収書が、そちらの十枚目に添付されてございます」
シェリーの顔から血の気がサーッと引いた。桃色の頬が、一瞬で青白い陶器のようになる。
「な、なんのことかしら……わ、私、そんな……」
「シェリー、それは本当なのか!?」
「殿下、話の腰を折らないでいただけます? 本題はここからですわ」
私はパンッと扇を鳴らした。アランがもう一束、さらに分厚い書類を取り出す。
「殿下。私は過去五年間、殿下に代わって王太子業務の約八割を代行してまいりました。毎朝の官僚たちへの決裁印の押印、年間三十回に及ぶ地方視察の報告書作成、および隣国との外交文書の翻訳と起草。これらはすべて『将来の夫を支える妻の務め』として無償で請け負ってまいりましたが、婚約が破棄された以上、ただの不当な労働搾取に該当いたします」
私は請求書の表紙を指先でトントンと叩いた。
「過去五年分の王太子業務代行費用。国家上級公務員の超過勤務手当および深夜労働割増を適用いたしまして、金貨八千枚。殿下が『俺のツケにしておけ』と言って豪遊された各高級料亭および娼館への未払い金肩代わり分、金貨三千枚。さらに、今回の公の場における名誉毀損慰謝料を合わせまして――合計、金貨二万四千枚となります」
「に、二万四千……!? ふざけるな! そんな金、王族の小遣い予算から払えるわけがないだろう!」
エリオットが顔を真っ赤にして唾を飛ばした。
私は目を細め、心底おかしそうに喉を鳴らした。
「ええ、存じておりますわ。ですから、すでに国王陛下へ事前申請を済ませてございます。殿下の廃嫡に伴う退職金の前借り、および殿下が将来相続されるはずだった王室財産の差し押さえ手続きは、昨夜の時点で完了しております」
「は、廃嫡……!? 父上がそんなことを許すはずが――」
「許すに決まっているだろうが、この大馬鹿者が!!」
大広間の両開きの大扉が、地鳴りのような音を立てて蹴破られた。
姿を現したのは、筋骨隆々たる巨躯に豪奢なマントを羽織った国王陛下その人だった。その後ろには、般若のような形相の王妃陛下と、眉目秀麗な第二王子ユリシーズが控えている。
「ち、父上……!?」
「貴様がエレノア嬢に仕事を丸投げし、女遊びに現を抜かしていたことは疾首の極み! すべて帳簿と証言で裏が取れておるわ! 我が国が破綻せずに済んでいたのは、ひとえにエレノア嬢の卓越した実務能力のおかげであったというのに、それを真実の愛だと? 身の程を知れ!」
国王の咆哮が大広間を揺るがす。近衛兵たちが雪崩れ込んできて、瞬く間にエリオットとシェリーを取り囲んだ。
「エリオット! 貴様を即刻王太子から廃し、北方の開拓地へ流刑とする! そこで己の筋肉を使って一生耕作に励むがいい!」
「そ、そんな……! シェリー、お前が俺のために泣いてくれるよな!?」
すがりつこうとするエリオットを、シェリーは凄まじい力で突き飛ばした。
「寄らないでよ、この無能! 金のない王子なんてただの平民以下じゃないのよ!」
「シェリー……!? 真実の愛はどうなったんだ!?」
見苦しく罵り合う二人を、近衛兵たちが容赦なく引きずっていく。
ドナドナのように連行されていく元婚約者の哀れな背中を見送りながら、私は深く息を吸い、晴れ晴れとした気持ちで微笑んだ。
「ああ、すっきりいたしましたわ」
胸を撫で下ろした私の元へ、第二王子のユリシーズ殿下が静かに歩み寄ってきた。
彼はエリオットとは違い、理知的な鳶色の瞳に、鍛え上げられた無駄のない体躯を持つ極めて有能な方だ。以前から主計局で顔を合わせるたび、的確なサポートをしてくれていた戦友でもある。
「お見事でした、エレノア嬢。あそこまで完璧に外堀を埋めていたとは、恐れ入ります」
「当然ですわ、ユリシーズ殿下。無駄な情けをかけて後腐れが残るのは、帳簿の不一致より許せませんもの」
私がクスリと笑うと、ユリシーズ殿下はふっと口元を緩め、優雅に私の前に跪いた。
そして、私の白手袋の上から、そっと恭しく口づけを落とす。
「……長年、兄の尻拭いをさせてしまい、本当に申し訳なかった。今後は私が王太子として国を背負う。ついてはエレノア嬢、私と正式に婚約を結んでいただけないだろうか?」
周囲の貴族たちから、感嘆と祝福のどよめきが上がる。
誰もが、これぞ真のハッピーエンドだと信じて疑わない瞳で私たちを見つめていた。
しかし。
私は満面の、この上なく輝かしい笑顔を浮かべ――スッと手を引き抜いた。
「お断りいたしますわ」
ピキリ、とユリシーズ殿下の完璧な美貌が凍りついた。
「……え?」
「お断りいたします。私、本日付で『王太子妃候補』を完全に退職いたしましたの」
私は胸元から、もう一枚の美しい透かし彫りの紙を取り出し、ユリシーズ殿下の胸ポケットに軽やかに差し込んだ。
「こちらは有給消化の申請書兼、退職届でございます。明日からは領地に戻り、好きなだけ朝寝坊をして、庭でハーブを育て、昼間から上等なワインを飲んで読書三昧の日々を送る予定ですの。激務の王宮勤務など、もう金輪際ご免被りますわ」
「ま、待ってください、エレノア嬢! あなたなしでこの国の執務をどう回せばいいのですか!?」
「それは新王太子であられる殿下のお仕事ですわ。優秀な殿下なら、徹夜を三日ほど続ければ書類の山も片付くはずです。それでは皆様、ごきげんよう!」
私は完璧なカーテシーを披露すると、唖然とする国王夫妻と青ざめるユリシーズ殿下を残し、颯爽と踵を返した。
カツン、カツンと響くヒールの音は、まるで自由への凱歌のようだった。
夜の風は驚くほど涼しく、見上げた夜空には、雲一つない満天の星がどこまでも美しく輝いていた。




