霧の彼方
「――有栖様」
誰かの声が響いた。
(そんな名前……だった?)
私はどうやら椅子に座っているようで、ほろ苦い香りがしていた。
記憶を整理する。
私には父がいて、
石段の上には、祖父母がいた。
私には父がいて、
石段の上には、祖父母がいた。
……
……
それだけ?
「ぬいぐるみを、捨てなさい」
感情のない声。
「……?」
静かな水の音。
突然、胸が熱くなった。
何も映さない視界が、わずかに揺れた。
帰りたい……(どうして?)
帰っても、良い事なんかない。それなら――
ふと、苦さの奥から甘い香りがした。
隠された香りに、言葉になる前の感覚がよみがえる。
白い何かが、視界の端に触れた。
【ここは、甘い地の底だ……】
【万華鏡は、"与える"。だが――その先に明日はない】
ノイズのような声。
誰かの名残に、思考の奥が静かに反応した。
私は、本当に、明日を見たいのか……?
……
……
――父だけじゃない。
どうして、
忘れていたんだろう?
……思い出したくなかっただけだ。
クラスメイトは、私を白い目で見る。
同情か、あるいは――。
「元気出せよ、霧野。
暗い顔してると、もったいないぜ」
「霧野さーん。一緒に、カフェに行かない?」
「霧野ねぇ……カワイイけど、俺はパス!
こっちまで暗くなりそうだぜ。……って、き、霧野!?」
そんなことはない。
そんなことは、ないんだ……。
私が見ようとしなかっただけ。世界はいつも、光に満ちていた。
私は、まだ……終われない。
お父さん。
お爺ちゃん、お婆ちゃん。
みんなのこと――忘れたくないよ。
「有栖様」
「ぬいぐるみを、捨てなさい」
「空になりなさい」
私はもう、何も動かなかった。
頬から伝う温度だけが、私の現実だった。




