迷子のための星図(スターマップ)9
第九章 双子の星と、引力の迷路
九月に入り、東京には早い秋雨前線が停滞していた。 窓を叩く雨音を聞きながら、私はデスクで小さな溜息をついた。 仕事は順調だ。秩父の特集記事は好評で、梶谷さんと組む仕事も増えた。梨花も「休戦」のおかげで少しずつ元気を取り戻し、直樹さんとの話し合いをゆっくりと進めている。
問題は、私自身のプライベートだ。 スマホの画面には、梶谷さんからのメッセージが残っている。
『来週の日曜、江ノ島の花火大会に行きませんか? 秋の花火もいいもんですよ』
デートの誘いだ。今回は「お礼」という名目もない、純粋なお誘い。 行きたい。すごく行きたい。 でも、指が送信ボタンの上で止まってしまう。 彼と一緒にいるのは楽しい。けれど、距離が縮まるにつれて、かつてのトラウマが鎌首をもたげるのだ。「私の不器用さが、また彼を疲れさせてしまうのではないか」「付き合うことになったら、幻滅されるのではないか」。 好意を持たれるのが怖い。幸せになるのが怖い。 私は典型的な「こじらせ」を発動して、返信を保留にしたまま二日が過ぎていた。
逃げるようにして、私はまた新宿の路地裏へ足を運んだ。 雨の日は、『Orbit』の客入りは少ない。今日も私が最初の客だった。
「いらっしゃいませ」 扉を開けると、いつものように昴さんが迎えてくれた。 けれど、今日の彼は少し雰囲気が違っていた。いつものベスト姿ではなく、黒いタートルネックのニットを着ている。それが彼の白い肌と、少し伸びた前髪を際立たせ、どこかプライベートな部屋に招かれたような錯覚を覚えさせた。
「雨、強かったでしょう」 昴さんがタオルを差し出してくれる。その指先が、受け取る私の手にふわりと触れた。いつもならすぐに離れる手が、今日は一瞬だけ長く留まった気がした。
「……ありがとうございます。あの、今日は少し迷ってしまって」 「そうですか。でも、私はあなたが来る予感がしていましたよ」 「え?」 「雨の音には、迷い人を呼び寄せる周波数があるんです」
彼は静かに微笑み、いつもの席へ私をエスコートした。 今日のカクテルは、淡い桜色の液体だった。
「『ピンク・ムーン』。満月の夜に願い事をすると叶うと言われていますが……今のあなたには、願い事よりも『決断』が必要な顔をしていますね」
ドキリとした。この人は、どこまでお見通しなのだろう。 私はカクテルを一口飲み、観念して梶谷さんからの誘いの件を話した。行きたいけれど、踏み出すのが怖いこと。また失敗して傷つくのが嫌なこと。
「……私、ここが心地よすぎるんです。昴さんの作るカクテルを飲んで、星の話を聞いて、今のままで十分幸せなんじゃないかって」
変化を恐れる私の弱音。 いつもの昴さんなら、「星は動くものですから、あなたも動いてみなさい」と背中を押してくれるはずだった。 しかし、彼はグラスを拭く手を止め、長い沈黙のあと、低く呟いた。
「……なら、行かなければいい」 「え?」 「無理に変わる必要なんてない。外の世界が怖いなら、ずっとここにいればいいんです。ここはシェルターですから」
その声の冷たさと甘さに、私は顔を上げた。 昴さんは、カウンター越しに私をじっと見つめていた。その瞳は、いつもより深く、暗い光を宿している。
「千尋さん」 名前を呼ばれた。いつもは「お客様」か、少し距離を置いた呼び方なのに。 彼はカウンターから身を乗り出し、私のグラスの横にそっと自分の手を置いた。
「私はね、あなたが迷って、傷ついて、ここへ逃げ込んでくるのを待っているんです」 「待ってる……?」 「ええ。あなたが正しい道を歩き出したら、もうここには必要なくなるでしょう? それが、私は少し寂しい」
心臓が大きな音を立てた。 これは、どういう意味? 単なる店主としての営業トーク? それとも――。
「花火なんて、騒がしくて儚いだけです。ここなら、雨にも濡れず、永遠に変わらない星空が見られる」 彼は天井の星図を見上げ、それから切なげに私を見た。 「私なら、あなたを迷わせたりしない。……ずっと、この箱庭で守ってあげられますよ」
その言葉は、悪魔の囁きのように甘美だった。 傷つきたくない私にとって、「変わらなくていい」「ここにいていい」という言葉は、何よりも強力な麻薬だ。 梶谷さんは私を外の世界――太陽の下へ連れ出そうとする人。 昴さんは私を夜の世界――星明かりの下へ匿おうとする人。
私は動揺して、視線を泳がせた。 「あ、あの……昴さん、酔ってます?」 「シラフですよ。……でも、あなたを見ていると、時々酔いたくなる」
その時、店のドアが開いた。 カラン、という音が、張り詰めた空気を切り裂く。
「……やってます?」
入ってきたのは、雨に濡れたフィールドジャケットの男。 梶谷さんだった。
「あ」 「え、早瀬さん?」
梶谷さんは目を丸くして私を見た。それから、カウンターの中にいる昴さんと、私の間に流れる奇妙な空気を感じ取ったのか、眉をひそめた。
「偶然ですね。……ここ、早瀬さんの行きつけ?」 「は、はい。梶谷さんはどうして?」 「撮影の帰りに雨宿りしたくて。雰囲気良さそうだったから」
偶然だ。私の「迷子力」が、まさかこんなところで発揮されるなんて。 梶谷さんは私の隣の席に座った。 左に梶谷さん。前に昴さん。 私の胃は、かつてないほど激しく収縮した。
「いらっしゃいませ」 昴さんの声は、瞬時に「プロのバーテンダー」のものに戻っていた。けれど、梶谷さんに向ける視線は、どこか品定めをするように鋭い。 「ご注文は?」 「ビールを。……いや、彼女と同じものを」
梶谷さんは私のグラスを指差した。 昴さんは一瞬だけ口角を上げ、「かしこまりました」と短く答えた。
二人の男性に挟まれて、私は縮こまった。 梶谷さんが、横目で私のスマホを見た。テーブルの上に置きっぱなしだった画面には、まだ返信していない彼へのメッセージ作成画面が表示されていた。
「……返事、迷ってるんですか?」 梶谷さんが低い声で聞いた。 「あ、いや、これは……」 「嫌なら断ってくれていいんですよ。でも」
彼は私の手元にある金平糖の小瓶を見つめ、それから真っ直ぐに私を見た。
「僕は、早瀬さんと見たいんです。ファインダー越しじゃなくて、隣で」
その言葉は、静かな店内に熱を持って響いた。 昴さんが、シェイカーを振る手を止める。 氷の触れ合うカチャリという音が、やけに大きく聞こえた。
「……隣で見る景色は、眩しすぎるかもしれませんよ」 横から口を挟んだのは、昴さんだった。 彼は完成した『ピンク・ムーン』を梶谷さんの前に置く際、少し挑発的な笑みを浮かべていた。 「彼女は、強い光が苦手な『夜の住人』です。無理に連れ出すと、火傷させてしまうかもしれない」
梶谷さんはグラスを受け取り、昴さんを睨み返した。 「彼女が夜の住人かどうかは、彼女が決めることです。それに」 梶谷さんは私に向き直り、強い口調で言った。 「もし火傷しそうになったら、僕が日傘になります。……だから、早瀬さん」
二人の視線が、私の上で交差する。 守ろうとする月と、照らそうとする太陽。 私はその引力の迷路の真ん中で、どちらの手を取るべきか、あるいはどちらも取らずに逃げ出すべきか、激しく迷っていた。
天井の星図が、いつもより速く回っている気がした。 私の安息の地だった『Orbit』は、今夜、最もスリリングな戦場へと変わってしまったのだ。




