迷子のための星図(スターマップ)8
第八章 ピンボケの恋と、雨上がりの休戦協定
嵐のような一夜が明けて、東京の空は嘘のように晴れ渡っていた。 出社した私は、恐る恐る隣のデスクを覗き込んだ。 梨花はすでに出社していた。 けれど、いつもの彼女とは何かが違っていた。七センチのピンヒールではなく、歩きやすそうなローヒールのパンプス。完璧に巻かれていた髪は、無造作な一つ結びになっている。
「……おはよう、梨花」 「おはよう、千尋」
返ってきた声は少し掠れていたけれど、昨日までの刺々しさは消えていた。 彼女はマグカップ(栄養ドリンクではなく、ハーブティーだ)を両手で包みながら、私に小さく微笑んだ。
「昨日はありがとう。……千尋のおかげで、久しぶりに熟睡できた」 「それはよかった。目は腫れてない?」 「蒸しタオルで冷やしたから大丈夫。でも、メイクは薄め。戦闘服を着る気になれなくて」
梨花は自嘲気味に笑った。その「素」に近い顔の方が、今の彼女には似合っている気がした。
「直樹さんと、話せた?」 私が小声で尋ねると、彼女は一度視線を落とし、それから小さく頷いた。
「うん。帰ってすぐに。『もう無理です』って言った」 「えっ、まさか……婚約破棄?」 「ううん、そこまでは。ただ、『結婚式の準備、一度全部ストップしたい』って伝えたの。今のまま進めても、私たちが幸せになる未来が見えないからって」
梨花によると、直樹さんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして驚いていたらしい。彼にとっては順風満帆に見えていた準備が、梨花にとっては地獄の行軍だったことに、ようやく気づいたのだ。
「彼、『なんで言ってくれなかったんだ』って言ってたわ。……私が言わなかったのよね。言えなかったし、言いたくなかった。完璧な私でいたかったから」 「そっか。……で、どうなったの?」 「休戦協定よ。式場には延期の連絡を入れたわ。キャンセル料は痛いけど、心を壊すよりは安い勉強代だと思うことにする」
延期。それは「最短距離」を信条とする梨花にとって、人生最大の足踏みだろう。 けれど、今の彼女の横顔は、スケジュールに追われていた時よりもずっと人間らしく、血が通っているように見えた。
「あとね、課長にも謝ったわ。めっちゃ怒られたけど、なんかスッキリした。失敗しても、世界は終わらないんだなって」 梨花はデスクの上の金平糖の小瓶を指先でつついた。 「千尋の言ってた通り、不格好な時間も、案外悪くないかもね」
梨花の一件が落ち着き、私も自分の仕事に集中できるようになった頃。 私のスマホに一件のメッセージが届いた。 フォトグラファーの梶谷さんからだ。
『今週末、代官山の小さなギャラリーでグループ展をやります。もしお時間があれば、冷やかしに来てください。早瀬さんの好きな“変なもの”も写ってるかもしれません』
変なもの、という一文に思わず口元が緩む。 私はカレンダーを確認した。週末の予定は空っぽだ。元彼と別れてから、私の休日は「寝て終わる」か「一人で映画を見る」かの二択だったけれど、今回は迷わず『行きます』と返信した。
日曜日。代官山のアートギャラリー。 コンクリート打ちっぱなしの無機質な空間に、数人の写真家の作品が展示されていた。 梶谷さんのスペースは、会場の一番奥にあった。 そこに飾られていたのは、壮大な絶景やモデルのようなポートレートではなく、日常の隙間を切り取ったような写真ばかりだった。 雨上がりの水たまりに映る逆さまの東京タワー。 誰もいない早朝の公園のブランコ。 そして、あの日、私たちが秩父で見つけた、ブロック塀の落書きと猫じゃらし。
「……あ」
その写真の前で、私は足を止めた。 『境界線上の猫』というタイトルが付けられている。 行き止まりの壁なのに、ファインダーを通すと、そこにはどこか温かい光と、「ここではないどこか」への入り口があるような不思議な奥行きが生まれていた。
「来てくれたんですね」
背後から、懐かしい声がした。 振り返ると、少しフォーマルなジャケットを着た梶谷さんが立っていた。いつものフィールドジャケットとは違い、少しだけ大人びて見える。
「梶谷さん。……これ、あの時の」 「ええ。早瀬さんが見つけてくれた場所です。この写真、結構評判いいんですよ。『行き止まりなのに、希望を感じる』って」
希望。 私の失敗が、誰かの希望に見えるなんて。
「他の写真も素敵ですね。なんか、見てると静かな気持ちになります」 「ありがとうございます。僕は、ピントがバチッと合っている写真も好きですけど、少しボケていたり、揺れていたりする写真の方が好きなんです。その方が、見る人の想像力が入り込む隙間があるから」
想像力の隙間。 それは、バー『Orbit』で薫さんが言っていた「庭の遊び」や、昴さんが言っていた「大航海時代の地図」と同じだ。 完璧じゃなくていい。隙間や揺らぎの中にこそ、物語が宿る。 私の周りには、いつの間にかそんな優しい哲学を持った人たちが集まっている。
「……早瀬さん、この後時間ありますか?」 「え?」 「もしよかったら、お礼に何かご馳走させてください。ロケハンの時のお礼もまだちゃんとできてないし」
デートの誘い? いや、違う。「お礼」だ。これはビジネスの延長線上の、社交辞令的な食事だ。 私は瞬時に自分の中で言い訳を組み立て、高鳴る心臓を落ち着かせた。
「あ、はい。ぜひ。……でも、私にお店選びは任せないでくださいね。迷ってたどり着けないので」 「はは、分かってます。僕の行きつけでよければ」
梶谷さんが連れて行ってくれたのは、ギャラリーから少し歩いた路地裏にある、小さなビストロだった。 看板も小さく、一見さんには入りにくい雰囲気だが、ドアを開けると活気に満ちた空間が広がっていた。
「ここのパテ・ド・カンパーニュが絶品なんです。あと、ワインも変なラベルのやつがいっぱいあって面白いですよ」
彼は慣れた様子で注文していく。 運ばれてきた料理はどれも美味しく、私たちは仕事の話や、お互いの趣味の話(彼が古いカメラを集めるのが趣味で、私が最近バー通いを始めたことなど)で盛り上がった。
ワインが二杯目に入った頃、話題は自然と「写真」の話に戻った。
「僕ね、昔は報道カメラマンになりたかったんです」 梶谷さんがグラスを回しながら言った。 「真実を、ありのままに、鋭く切り取るのが正義だと思ってた。でも、ある現場で、あまりにも悲惨な状況をレンズ越しに見た時に、シャッターが切れなくなっちゃって」
彼の表情が少し曇る。 「レンズのピントを合わせれば合わせるほど、現実の残酷さが浮き彫りになって、自分がただの傍観者であることが辛くなったんです。……それからですね、少し視点を変えて、日常の中にある『見過ごされがちな光』を撮るようになったのは」
「……そうだったんですね」 「だからかな、早瀬さんを見てると、撮りたくなるんです」
突然の言葉に、私はフォークを取り落としそうになった。 「え……?」
「早瀬さんは、自分のことを不器用だとか、ダメだとか思ってるみたいですけど。僕には、あなたが世界に対してすごく誠実に向き合ってるように見えるんです。迷うっていうのは、それだけ丁寧に道を選ぼうとしてるってことでしょう?」
彼は真っ直ぐに私の目を見た。 その瞳は、ファインダーを覗く時のような、真剣で、でもどこか熱を帯びた色をしていた。
「ピントが合ってなくてもいいんです。迷って、ブレて、遠回りしてる早瀬さんの姿そのものが、僕にはすごく魅力的な被写体に見える。……いや、被写体としてだけじゃなくて」
彼はそこで言葉を切り、照れくさそうに頭をかいた。 「……すみません、酔ったかな。なんかキザなこと言いました」
心臓が、早鐘を打っていた。 「被写体としてだけじゃなくて」。その言葉の続きを、期待してもいいのだろうか。 それとも、これも彼のアーティストとしての感性が言わせた言葉なのだろうか。
私はグラスのワインを一気に煽った。 顔が熱いのは、アルコールのせいにしておこう。
「……梶谷さんの写真は、優しいですね」 私がやっと絞り出したのは、そんな月並みな言葉だった。 「私、自分の迷子癖がずっと嫌いでしたけど、梶谷さんに撮ってもらった後ろ姿を見て、初めて『これも私なんだ』って思えました」
「それは光栄です」 彼は嬉しそうに微笑んだ。
「また、撮らせてくださいね。今度は、迷子になって泣きそうな顔じゃなくて、何か美味しいものを見つけた時の顔とか」 「……はい。美味しいものなら、任せてください。鼻は利くので」
私たちは顔を見合わせて笑った。 窓の外では、いつの間にか通り雨が降っていたらしい。濡れたアスファルトが街灯を反射して、キラキラと光っている。 梨花とは「休戦協定」。 そして梶谷さんとは、まだ名前のつかない、けれど確実に何かが始まりつつある関係。 私の人生のピントはまだボケたままだし、地図もあやふやだ。 でも、この曖昧な視界の先に、うっすらとピンク色の光が見え始めていることだけは、確かな気がした。




