迷子のための星図(スターマップ)7
第七章 滲んだ招待状と、行き止まりの非常口
六月に入り、東京は梅雨入りの発表を待たずして連日の雨に見舞われていた。 湿った空気はオフィスの中にまで入り込み、書類の紙を重くし、働く人々の心に灰色の膜を張っていくようだった。
私のデスクの隣で、梨花が小さな舌打ちをした。 「……なんで、ここがズレてるのよ」 彼女の画面には、結婚式の席次表と、引き出物のリストが表示されている。Excelのセルが一つズレたせいで、親族への引き出物が友人のものと入れ替わっていたらしい。
「梨花、手伝おうか? チェックくらいなら私がやるよ」 私が声をかけると、梨花は血走った目でこちらを見た。 「大丈夫。自分でやるから。千尋に頼んで、もしまたミスがあったら、二度手間になるでしょ」
その言葉は鋭利な刃物のようだったけれど、今の彼女に悪意がないことは分かっていた。彼女はただ、溺れているのだ。タスクという名の泥沼の中で、完璧という藁をもごうとして必死なだけ。 彼女のデスクには、栄養ドリンクの空き瓶が三本並んでいた。肌はカサつき、自慢の艶髪もどこかパサついている。
「……そっか。無理しないでね」 私は引き下がるしかなかった。 今の私には、まだ彼女のテリトリーに踏み込む資格がない。彼女の目には、私はまだ「助けが必要な不器用な子」として映っているからだ。
事件が起きたのは、その日の午後三時だった。 フロアに、課長の怒鳴り声が響き渡った。
「篠原! これはどういうことだ!」
シンと静まり返るオフィス。全員の視線が集まる先で、梨花が青ざめた顔で立ち尽くしていた。 「申し訳ございません……。確認漏れでした」 「確認漏れ? お前らしくないな。ハワイの提携ホテルとのオンライン会議、時間を現地時間と日本時間で間違えてすっぽかすなんて。先方は激怒してるぞ!」
時差の計算ミス。 入社一年目の新人ならいざ知らず、海外案件のエースである梨花が犯すとは考えられない初歩的なミスだった。 「すぐに先方に連絡して謝罪しろ。……結婚準備で浮かれるのは勝手だがな、仕事に穴を開けるなら話は別だぞ」
課長の捨て台詞が、フロアの空気を凍らせた。 梨花は唇を噛み締め、「……はい」と消え入りそうな声で答えた。その拳は、爪が食い込むほど強く握りしめられていた。
定時を過ぎ、雨足は強まっていた。 残業をしている社員もまばらになったオフィスで、梨花はまだパソコンに向かっていた。ハワイへの謝罪メールと、スケジュールの再調整に追われているのだろう。 直樹さんからは、きっと『今日は式場で打ち合わせじゃなかったっけ?』という呑気なメッセージが届いているに違いない。
私は自分の仕事を片付けながら、タイミングを計っていた。 このまま帰るわけにはいかない。 ポケットの中のスマホが震えた。梶谷さんからだ。
『今日、秩父の記事の初稿が上がりました。早瀬さんの迷子エピソード、いい感じにコラムに入れたので怒らないでくださいね(笑)』
添付されていた写真には、あの日の夕暮れ、私が道端の猫じゃらしを真剣に見つめている背中が写っていた。 『迷うことは、世界を広げること』。そんなキャプションが添えられている。 ……今の私なら、大丈夫かもしれない。 迷子のプロとして、迷宮入りしてしまった彼女を連れ出せるかもしれない。
私は意を決して立ち上がり、梨花のデスクへ向かった。
「梨花」 「……先に帰ってて。まだ終わらないから」 彼女は画面から目を離さずに言った。キーボードを叩く指は震えている。
「帰らないよ。梨花も、もう終わりにしよう」 「何言ってるの。リカバリーしなきゃいけないのに。私がやらなきゃ、誰も……」 「梨花!」
私は強めに彼女の名前を呼び、その手首を掴んだ。 驚いて顔を上げた梨花の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「……もう、無理だよ」 梨花の声が震えた。堰を切ったように、嗚咽が漏れる。 「全部、ちゃんとやりたいのに。仕事も、結婚式も、直樹さんとの生活も、完璧にしなきゃいけないのに……。頭が回らないの。数字が入ってこないの。私、どうしちゃったんだろう。こんなの私じゃない……」
崩れ落ちるようにデスクに突っ伏して泣く彼女の背中は、驚くほど小さかった。 彼女は自分自身に「完璧」という呪いをかけ、その重圧に押し潰されてしまったのだ。 私は何も言わず、彼女の肩を抱いた。 効率的な解決策も、論理的なアドバイスも、今の彼女には毒でしかない。
「……行こう、梨花」 「どこへ……? 仕事が……」 「仕事なんて、明日私が朝イチで手伝う。課長には私が頭を下げる。だから今は、ここから逃げよう」
私は彼女のパソコンを強制終了し、バッグを手に取らせた。 抵抗する気力もないのか、梨花は幼児のように大人しく私に従った。
オフィスを出ると、外は土砂降りだった。 タクシー乗り場には長蛇の列ができている。 「タクシー、呼ぶ?」 梨花が鼻声で聞いた。いつもの彼女なら、アプリで迎車を手配しているところだ。 「ううん。歩こう」 「えっ、雨なのに?」 「うん。雨に濡れたい気分だから」
私は傘を開き、梨花を中に入れた。 相合傘なんて、学生時代以来かもしれない。 私たちは新宿の雑踏を歩き出した。いつもの梨花の「最短ルート」ではない。私が先導する、あてどのない迷走ルートだ。
「千尋、どこ行くの?」 「秘密。……でも、きっと梨花が今一番必要な場所」
雨音に包まれた街は、信号機の光がアスファルトに反射して、水彩画のように滲んで見えた。 十分ほど歩いて、私は見慣れた路地裏へと曲がった。 何度来ても分かりにくい、あの場所へ。
「こんなところに店なんてあるの?」 「あるよ。私がやっと見つけた、隠れ家」
レンガ造りの建物の前で立ち止まり、私は重い木の扉を開けた。 カラン、という深い鐘の音が、雨音を断ち切るように響く。
店内には、いつもの静寂と、古い本の匂いが満ちていた。 天井の星図が、ゆっくりと回転している。
「いらっしゃいませ」 昴さんがカウンターから顔を上げた。 濡れた私たちを見て、彼は一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。
「こんばんは、千尋さん。……そして、迷えるご友人も」
梨花は呆気にとられていた。 天井の星空、アンティークの調度品、そして現実離れした雰囲気のマスター。 彼女の知る「効率的な東京」のどこにも属さない空間が、そこにはあった。
「ここ……何?」 「『Stargazer's Lounge Orbit』。迷子のための止まり木だよ」
私は梨花をカウンター席に座らせた。 昴さんが温かいおしぼりを差し出す。梨花はそれを受け取り、冷え切った顔を埋めるようにして深呼吸した。
「マスター、彼女に『リセット』できるものを」 「承知しました」
昴さんは頷き、バックバーから透明なボトルを取り出した。 梨花はまだ、夢の中にいるような顔で周囲を見回している。
「千尋、よくこんな場所知ってたね」 「うん。人生に迷いに迷って、たどり着いたの」 「……ふふ、千尋らしい」
梨花の表情に、微かに血色が戻った。 コト、と置かれたのは、真っ白な陶器のカップだった。中には温かいミルクベースのカクテル。ナツメグの香りが湯気と共に立ち上る。
「『ブランデー・エッグノッグ』です。欧米では風邪を引いた時や、心身が弱った時によく飲まれる、滋養のある一杯です」 「……ありがとうございます」
梨花が一口飲むと、張り詰めていた糸が完全に切れたように、肩の力がすとんと抜けた。 長い溜息と共に、彼女の目からまた一筋、涙がこぼれた。でもそれは、オフィスで流した絶望の涙とは違う、浄化の涙に見えた。
「私ね、千尋」 カップを見つめながら、梨花がぽつりと話し始めた。 「怖かったの。立ち止まるのが。止まったら、もう走り出せないような気がして。直樹さんに失望されるのも、会社で評価が下がるのも怖くて……全部完璧にしなきゃって」
「知ってるよ」 私は隣で、自分の『ポラリス・ネブラ』を揺らしながら答えた。 「でもね、梨花。星だって、ずっと同じ速度で回ってるわけじゃないんだって。速くなったり、遅くなったりしながら、バランスを取ってるの」
私が昴さんの受け売りを言うと、昴さんがカウンターの奥でウインクをした。
「完璧じゃなくていいよ。招待状の宛名がズレてても、引き出物が間違ってても、死ぬわけじゃない。直樹さんが本当に梨花を愛してるなら、泣きじゃくってる梨花も見せてあげなよ」
梨花は私を見た。 その瞳は潤んでいたけれど、以前のような鋭い光は消え、穏やかな凪を湛えていた。
「……千尋、強くなったね」 「ううん。相変わらず迷子だよ。でも、迷うのも悪くないって知ったから」
私はポケットから、あの金平糖の小瓶を取り出して、梨花の前に置いた。 「これ、あげる。迷った時に食べると、ちょっとだけ甘くて、元気が出るよ」
梨花は小瓶を手に取り、いびつな形の砂糖菓子を光に透かした。 「……不格好ね」 「でしょ? でも、美味しいんだよ」
梨花は小さく笑って、金平糖を一粒口に入れた。 外の雨音はまだ止まない。 けれど、この「行き止まり」のような店の中で、私たちはようやく、正しい呼吸を取り戻していた。
滲んだ招待状も、行き場のない焦燥も、ここではただの過去の記録になる。 迷子の私が案内した、最初で最高の「非常口」。 梨花の頬に、久しぶりに自然な色が戻ってくるのを、私は安堵と共に眺めていた。




