迷子のための星図(スターマップ)6
第六章 迷い猫のファインダーと、予期せぬシャッター音
季節は初夏へと移ろい始めていた。 街路樹の緑が濃くなり、アスファルトからの照り返しが少しずつ強くなる頃、私の仕事にも新しい風が吹き込んでいた。
「早瀬、お前に頼みたい案件がある」
朝礼の後、権田部長に呼び止められた。 先日の「金平糖プラン」が社内で意外な評価を得たらしい。「効率重視の『トラベル・ゲート』において、逆にアナログな温かみが新鮮だ」という、皮肉とも称賛とも取れる評価だが、私にとっては十分すぎる進歩だった。
「来月発行する自社の季刊誌『旅の窓』の特集取材だ。埼玉の秩父エリア。古い神社や自然を巡る、少し大人向けのコースを組みたい」 「取材、ですか?」 「ああ。今回は外部のフォトグラファーと二人で回ってもらう。記事の執筆はライターに頼むが、お前にはロケハンと、現場での進行管理を任せる」
進行管理。その四文字を聞いた瞬間、背筋が凍った。 それはつまり、時間通りに目的地へカメラマンを誘導し、スムーズに撮影を終わらせるという、私にとって最も難易度の高いミッションだ。
「あの、私で大丈夫でしょうか……。その、地理的な不安が……」 「お前の『迷子力』を見込んでのことだ」 「はい?」 「今回のテーマは『再発見』だ。有名な観光地をなぞるだけならネットで十分だ。お前なら、普通の人間が見落とすような場所を見つけてくるだろう。……期待してるぞ」
部長はバシッと私の背中を叩いた。 期待されるのは嬉しい。けれど、初対面のカメラマンと二人きりでのロケハンという事実は、私の胃をキリキリと締め上げた。もしまた、「君といると疲れる」と言われたらどうしよう。 私はデスクに戻り、精神安定剤代わりの金平糖を一粒、口に放り込んだ。
取材当日。西武秩父駅の改札前。 私は約束の十五分前に到着し、駅の構内図と睨めっこしていた。 待ち合わせの相手は、フリーランスのフォトグラファー、**梶谷唯人**さん。 事前に聞いた情報では、二十八歳。風景写真を中心に活動しており、その作風は「静寂の中に物語がある」と評判らしい。 芸術家肌の人だろうか。気難しい人だったらどうしよう。私が道を間違えた瞬間に舌打ちされたら、泣いてしまうかもしれない。
「……早瀬さん?」
不意に背後から声をかけられた。 振り返ると、そこに立っていたのは、くたびれたカーキ色のフィールドジャケットを羽織り、首から一眼レフをぶら下げた男性だった。 髪は無造作にセットされ(あるいは寝癖かもしれない)、少し猫背気味。身長は高いが、威圧感はない。むしろ、どこか頼りなげな大型犬のような雰囲気があった。
「あ、はい! トラベル・ゲートの早瀬千尋です。初めまして!」 「初めまして。梶谷です。……そんなに直立不動にならなくても大丈夫ですよ」
彼は少し困ったように笑った。その笑顔は、作り込まれた梨花の婚約者・直樹さんのそれとは違い、力の抜けた、人懐っこいものだった。
「今日はよろしくお願いします。ええと、まずは駅からバスで『羊山公園』に向かいまして、そこから……」 私は作成してきたスケジュール表を差し出そうとしたが、梶谷さんはそれを軽く手で制した。
「スケジュールは大体頭に入ってます。でも、今日はロケハンですよね? あまりカチカチに決めずに、気になった場所で止まりながら行きませんか」 「えっ、でも、効率よく回らないと日が暮れてしまいますし……」 「光の状態を見たいので、日が暮れるのも計算のうちです。それに」
彼はファインダーを覗く仕草をした。 「予定調和の写真って、つまらないんで」
その言葉に、私は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。 つまらない、か。 効率を最優先する梨花なら「何を甘いことを」と一蹴しそうだが、今の私には救いの言葉に聞こえた。
しかし、私の安堵は長くは続かなかった。 羊山公園への道中で、私はさっそくやらかしてしまったのだ。 「近道です」と自信満々に案内した脇道が、なんと私有地の畑の行き止まりだったのだ。
「す、すみません! 地図だとここが繋がっているように見えて……!」
私は真っ青になって謝った。 終わった。初っ端からこれだ。呆れられる。怒られる。「やっぱり担当を変えてくれ」と言われる。 元彼・圭介の冷ややかな視線がフラッシュバックして、私は足元のアスファルトしか見られなくなった。
カシャッ。 軽快なシャッター音が響いた。
「え?」 顔を上げると、梶谷さんがカメラを構えていた。レンズの先にあるのは、私ではなく、行き止まりの古いブロック塀だ。 そこには、誰かが落書きしたらしい下手くそな猫の絵と、本物の猫じゃらしが風に揺れていた。
「いいですね、ここ」 「は……?」 「このブロック塀の質感と、光の入り方。観光客は絶対に来ない場所だ。……早瀬さん、ナイス誘導です」
彼は本気で言っているようだった。 屈み込んで、猫じゃらし越しに太陽を狙い、何度もシャッターを切る。 その横顔は真剣そのもので、さっきまでの頼りなげな雰囲気は消えていた。
「あ、あの……怒ってないんですか?」 「なんで?」 「だって、道を間違えて、無駄な時間を……」 「無駄じゃないですよ。この光景に出会えたんだから」
彼は立ち上がり、プレビュー画面を確認して満足げに頷いた。
「僕、方向音痴の人って才能だと思ってるんです」 「才能?」 「ええ。目的意識が強すぎる人間は、目的地しか見ていない。だから道端の花や、光の加減に気づかない。でも、迷う人はキョロキョロするでしょう? その視線が、隠れた被写体を見つけるんです」
彼は私を見て、ニカッと笑った。 「だから今日は、早瀬さんのナビゲート、楽しみにしてます。どんどん迷ってください」
ドキン、と心臓が跳ねた。 それは恋のときめきというよりは、もっと原始的な、驚きに近い反応だった。 今まで「欠点」として矯正しようと必死だった部分を、「才能」と言って面白がってくれる人がいる。 バー『Orbit』の昴さんもそう言ってくれたけれど、現実の仕事相手にそう言われると、また違った種類の熱が頬に集まるのを感じた。
その後も、私たちの珍道中は続いた。 有名な神社の参道を外れて、苔むした石段を見つけたり。 予定していたカフェが満席で、ふと入った古い喫茶店で絶品のプリンに出会ったり。 そのたびに、梶谷さんは「おっ、いいですね」とシャッターを切った。
私が地図アプリと格闘し、右往左往している姿すら、彼はどこか楽しそうに見守っている。 「あ、そっちは川ですね」「じゃあこっちかな」なんて言いながら、彼は決して私を急かさない。元彼のように溜息をつくことも、先に行ってしまうこともない。 私の歩幅に合わせて、時折立ち止まりながら、私の視線の先にあるものを一緒に探してくれる。
夕暮れ時。私たちは秩父市街を一望できる高台の公園にいた。 マジックアワーと呼ばれる、空が紫とオレンジに溶け合う時間帯。 梶谷さんは三脚を立てて、街の明かりが灯り始める瞬間を待っていた。
私は少し離れたベンチに座り、ペットボトルの水を飲んだ。 疲れた。肉体的には確実に疲れている。一万五千歩も歩いたのだから。 けれど、精神的な「疲れ」は不思議となかった。 いつもならデートの後に感じる、「相手を楽しませられなかった」という罪悪感や徒労感が、今日は嘘のようにない。
(私、今日、一度も『すみません』って言ってないかも……)
いや、行き止まりの時は言ったか。でも、それ以降は言っていない。 自然体でいられた。迷っても、笑ってもらえた。 それがこんなにも楽なことだなんて。
「早瀬さん」
ふと名前を呼ばれて顔を上げると、カメラを構えた梶谷さんがこちらを向いていた。 カシャッ。 不意打ちのシャッター音。
「ちょ、ちょっと! やめてくださいよ、今の顔絶対ひどい!」 私は慌てて顔を覆った。化粧も崩れているし、疲れて放心状態だったはずだ。
「いや、すごく良かったですよ」 梶谷さんはモニターを確認しながら言った。 「今日一番、いい顔してました」
「……からかわないでください。私なんて、地味で要領が悪くて、今日はただ歩き回っただけで……」 「そういうとこですよ」 「え?」 「自分の魅力に無自覚で、一生懸命迷子になってる感じ。……被写体として、すごく惹かれます」
被写体として。 その言葉に、私は胸を撫で下ろした。 ああ、びっくりした。一瞬、違う意味かと思ってドキッとしてしまった。 そうだ、彼はプロのカメラマンだ。私の「人間としての面白み」とか「絵になる瞬間」を評価しているだけで、私自身に興味があるわけではない。 むしろ、「変わった生き物」として観察されているだけだ。
(自惚れちゃだめだ、千尋。優しくされたからって、すぐに舞い上がるのは喪女の悪い癖だよ)
私は自分にそう言い聞かせた。 元彼との別れで学んだはずだ。男性の優しさは、必ずしも好意ではない。私の勘違いが、相手を重荷にさせるのだと。
「……ありがとうございます。でも、誌面には載せないでくださいね」 「まあ、それは編集長次第かな」
梶谷さんは悪戯っぽく笑い、再びファインダーを夕暮れの街に向けた。 その背中を見つめながら、私は胸の奥で小さく鳴り続けるシャッター音のような鼓動を、気づかないふりをして蓋をした。
帰りの特急列車。 隣の席で、梶谷さんは機材の整理をしている。 私はスマホを取り出し、梨花にメッセージを送ろうとした。 『今日、ロケハン無事に終わったよ。いいカメラマンさんでよかった』 そう打とうとして、指が止まる。
画面の向こうの梨花は今、どうしているだろう。 日曜日のドレス選びの後、彼女からの連絡は途絶えている。 「自分の好きにしていい」という自由の牢獄の中で、彼女はまだ一人で戦っているのだろうか。
ふと、梶谷さんが話しかけてきた。 「早瀬さんって、何か悩み事あります?」 「えっ、なんでですか?」 「いや、時々すごく遠くを見る目をするから。……迷子の目というか」
この人は、本当によく見ている。カメラマンの観察眼というのは恐ろしい。 私は少し迷ってから、言葉を選んで答えた。
「……友達が、迷子になりかけてるんです。私なんかよりずっと地図を読める子なんですけど、目的地が本当にそこなのか、分からなくなっちゃったみたいで」
梶谷さんは手を止めて、私を見た。 「地図が読めるからこそ、道端の花に気づけないこともありますからね」 「……そうですね」 「その友達には、早瀬さんみたいな『ガイド』が必要なんじゃないですか? 正規ルートじゃない、楽しい抜け道を教えてくれるような」
私みたいなガイド。 私が梨花を導く? まさか。 でも、今日のロケハンで、私は梶谷さんを思いがけない景色へ案内できた。 行き止まりの壁も、苔むした階段も、私の失敗があったから見つけられたものだ。
「……なれるでしょうか。私に」 「なれますよ。今日のロケハン、最高でしたから」
梶谷さんは屈託なく言い切った。 その言葉がお世辞でも何でも、私は嬉しかった。 今日一日で集めた小さな自信のカケラが、ポケットの中の金平糖のように、カラカラと心地よい音を立てて積み重なっていく。
私はスマホの画面を消し、窓に映る自分の顔を見た。 そこには、朝よりも少しだけ、血色の良い私がいた。 この胸の高鳴りが何なのかは、まだ名前をつけないでおこう。 今はただ、この新しい出会いが、私の星図に小さな星を一つ描き足してくれたこと、それだけで十分だ。




