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迷子のための星図(スターマップ)5

第五章 完璧な円周率と、割り切れない涙


デスクの隅に置いた小瓶の中で、金平糖が蛍光灯の光を浴びて微かに光っている。  仕事中、思考が行き詰まると、私はその瓶を軽く振るようになった。カサカサという乾いた音が、焦る心拍数を少しだけ下げてくれる気がするからだ。

「早瀬さん、先日の角田様の件、アンケートの評価すごく良かったですよ。『あんなに歩かされたのは初めてだが、あんなに面白い土産話ができたのも初めてだ』って」

後輩の女の子が、給湯室で声をかけてくれた。 「ありがとう。……まあ、歩かせすぎちゃったのは反省点なんだけどね」  私は苦笑いしながらコーヒーを注ぐ。  以前なら「歩かせて申し訳ない」と落ち込んでいただろうけれど、今は「それもまた旅の味」と、少しだけ図太く受け止められるようになっていた。  私の迷走は、相変わらず治っていない。今朝も駅の出口を間違えて遠回りした。でも、「迷ったついでに新しいパン屋を見つけたからよしとする」というふうに、自分への減点をやめたのだ。

デスクに戻ると、梨花が眉間に深い皺を寄せてスマホを睨んでいた。  いつも涼しげな彼女にしては珍しく、キーボードを叩く音が荒い。

「……梨花? 大丈夫?」 「え? あ、うん。平気」

梨花は瞬時に表情を「仕事モード」に戻したが、その瞳の奥には隠しきれない疲労の色が滲んでいた。 「週末のドレス試着、千尋も来てくれるよね? 直樹さんも来るけど、男の人ってドレスの違いなんて分からないから。千尋の意見が必要なの」 「うん、もちろん。楽しみにしてる」

彼女は完璧なスケジュール管理で結婚準備を進めているはずだ。それなのに、なぜあんなに追い詰められた顔をしているのだろう。  私は手元の金平糖の瓶を見つめながら、一抹の不安を覚えた。


日曜日。表参道のドレスサロンは、純白の光に満ちていた。  シルク、レース、チュール。並べられたドレスの数々は、女性たちの夢を具現化したものだ。しかし、今の梨花にとって、それは夢というより「処理すべきタスク」の山に見えるのかもしれない。

「お待たせしました。こちら、新作のマーメイドラインです」

カーテンが開き、ドレス姿の梨花が現れる。  息を呑むほど美しかった。体のラインに沿った流麗なシルエットは、彼女のスタイルの良さを完璧に引き立てている。

「わあ……すごい。梨花、モデルさんみたい」  私が素直に感嘆の声を上げると、梨花は鏡の前でポーズを取りながら、厳しい目で自身の姿をチェックした。 「ラインは綺麗なんだけど、トレーン(裾)が少し長すぎて動きにくいかも。披露宴での動線を考えると、もう少しコンパクトな方がいいかな……」

彼女は振り返り、ソファに座っている婚約者の直樹さんに問いかけた。 「直樹さん、どう思う? さっきのAラインと、どっちがいい?」

直樹さんは、スマホから顔を上げ、人の良さそうな笑顔を浮かべた。 「うん、すごく綺麗だよ。梨花に似合ってる」 「……それはさっきも聞いた。私が聞いてるのは、会場の雰囲気と私の骨格に、どっちがよりベストかってこと」 「ええ? 難しいこと言うなぁ。俺はどっちも素敵だと思うし、梨花が好きな方を選べばいいよ。君が主役なんだから」

君が主役。君の好きなように。  一見、優しくて寛容な言葉だ。けれど、私は見てしまった。その言葉を聞いた瞬間、梨花の口元が微かに引きつったのを。

「……そう。ありがとう」

梨花の声は、氷のように冷えていた。  その後も試着は続いたが、空気は徐々に重くなっていった。  直樹さんは決して不機嫌なわけではない。ただ、「結婚式は女性のためのものだから、男の自分が口を出すのは野暮だ」と信じて疑わないのだ。だからこそ、全ての決定権を――つまり、全ての責任と決断のコストを、梨花一人に丸投げしている。

「休憩しましょうか」  私が助け舟を出すと、梨花は小さく頷き、試着室へと消えた。


サロンの近くにあるカフェのテラス席。直樹さんは「ちょっと仕事の電話があるから」と席を外しており、私と梨花の二人きりになった。  アイスティーのグラスについた水滴が、テーブルに小さな水たまりを作っている。

「……疲れた」

梨花が、糸が切れたように呟いた。  その一言は、いつも完璧な彼女からは想像もできないほど弱々しいものだった。

「直樹さん、優しそうな人だけど……ちょっと任せすぎな感じ?」  私が恐る恐る聞くと、梨花は自嘲気味に笑った。

「優しいよ。優しすぎるくらい。でもね、『君の好きにしていいよ』って言葉は、今の私には一番残酷な言葉なの」

彼女はストローを指先で回す。 「式場選びも、招待状のデザインも、料理のコースも、全部私がリサーチして、比較検討して、プレゼンして、彼が『いいんじゃない?』ってハンコを押すだけ。二人の結婚式のはずなのに、私一人でプロジェクトを回してるみたい。……これなら、仕事してる方がマシよ。仕事なら、上司も部下ももっと真剣に議論してくれる」

梨花の目から、ふわりと涙がこぼれ落ちた。  完璧なメイクが、涙の跡で滲む。  私は慌ててハンカチを差し出した。

「ごめん、千尋。私、贅沢だよね。好きな人と結婚できるのに、こんなことでイライラして」 「ううん、贅沢なんかじゃないよ。梨花は頑張りすぎてるんだよ。最短距離で、最高の結果を出そうとして」

私は、彼女の手をそっと握った。  いつも私を引っ張ってくれた、頼もしい手。でも今は、その手は冷たくて、微かに震えている。    効率的な人生。無駄のない選択。  それは確かに素晴らしいけれど、人生には「二人で迷う時間」も必要なのかもしれない。  直樹さんは、梨花なら一人で正解にたどり着けると信じているのだろう。でも、梨花が欲しかったのは「正解への承認」ではなく、「一緒に迷ってくれる共犯者」だったのではないか。

「……ねえ、梨花。ドレス、決めなくていいんじゃない?」 「え?」 「今日決めなきゃいけないって誰が決めたの? まだ時間はあるし、今日はもう、甘いケーキ食べて、直樹さんの愚痴言って帰ろうよ」 「でも、スケジュールが……」 「スケジュールなんて、書き直せばいいよ。私なんて、人生のスケジュール、白紙だらけだし」

私が笑うと、梨花は涙目のまま、ふっと吹き出した。 「……本当ね。千尋にスケジュールのこと言われるなんて、私、相当重症だわ」

梨花はハンカチで涙を拭い、大きく深呼吸をした。  完璧な円を描こうとして、コンパスの針を強く押し当てすぎて、紙に穴が開いてしまった。そんな彼女の痛みが、私には痛いほど分かった。


その日の夜。  私は梨花を駅で見送った後、自然と足が『Orbit』へと向いていた。  今日は迷わなかった。二回目に行った時に見つけた、あの細い路地裏の入り口。金平糖の瓶をポケットに入れて、私は扉を開けた。

「いらっしゃいませ」  いつもの低い声。昴さんは今日はカウンターで古い時計の修理をしていた。小さな歯車やネジが、黒いビロードの上に散らばっている。

「こんばんは。……今日は、友達が迷子になりかけているのを見てきました」  私は席に着くなり、そう報告した。 「彼女は地図を持ってるのに、コンパスが正確すぎて、苦しんでいました」

昴さんは作業の手を止め、ルーペを外した。 「完璧な円周率、ですね」 「円周率?」 「ええ。円周率は3.14の後に無限に続きます。決して割り切れない。宇宙において、真に完璧な『円』や『球体』は存在しないと言われています。地球だって少し歪んだ楕円ですし、星の軌道もそうです」

彼はピンセットで小さな歯車を摘み上げた。 「完璧であろうとすることは、自然の摂理に逆らうことです。だから苦しい。……そのご友人に必要なのは、きっと『割り切れない部分』を愛してくれる誰か、あるいは自分自身でしょう」

「割り切れない部分……」

私はポケットから、星屑堂の金平糖を取り出し、カウンターに置いた。 「これ、お土産です。甘くて、形がいびつで、全然完璧じゃないお菓子」

昴さんは目を見開き、そして嬉しそうに笑った。 「これは素敵なお土産だ。……では、これに合う一杯を作りましょう」

彼が作ったのは、温かいホット・バタード・ラムだった。  マグカップの中で溶けるバターと、散らされた金平糖。湯気とともに甘く芳醇な香りが立ち上る。  一口飲むと、体の芯から力が抜けていくようだった。

「梨花にも、これを飲ませてあげたいな」 「いつか、連れてきてあげてください。ここは迷子のための場所ですが、迷いたくないのに迷ってしまった人の場所でもありますから」

私はマグカップを両手で包み込んだ。  梨花の完璧な世界に入った亀裂。それは彼女にとっては恐怖だろうけれど、私には、彼女が初めて「人間らしく」なったようにも見えた。    もし彼女が道に迷って座り込んでしまったら、今度は私が、この金平糖のような不格好な灯りを差し出せるかもしれない。  かつて彼女が私を導いてくれたように、今度は私が、彼女の「回り道」に付き添えるかもしれない。

天井の星図を見上げる。  無数の星々は、それぞれの速度で、それぞれの歪んだ軌道を回っている。  ぶつかりそうでぶつからない、絶妙なバランスで。  私と梨花も、そんな連星のようになれるだろうか。

外は冷たい風が吹いていたけれど、私の胸の中には、確かな温もりが灯っていた。


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