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迷子のための星図(スターマップ)4

第四章 行き止まりの風景と、甘いコンパス


翌朝のオフィスは、いつものようにキーボードを叩く音と電話の呼び出し音で満ちていた。  私は深呼吸を一つして、部長のデスクの前に立った。手には、昨夜遅くまでかかって仕上げた報告書と、お客様への代替案を記した企画書が握られている。

「……で、これが早瀬なりの再発防止策か?」

権田ごんだ部長が、老眼鏡越しに厳しい視線を向けてくる。  私の提案した内容は、システムによる自動チェックの強化に加え、「予約確定前に、担当者が旅館の周辺地図と口コミを個別に目視確認する」という、極めてアナログな手順を追加するものだった。

「はい。システム上の名前の一致だけでなく、その宿がお客様の要望――例えば『静かに過ごしたい』のか『観光の拠点にしたい』のかという空気感まで確認すべきだと考えました」

部長は鼻を鳴らした。 「手間がかかるな。篠原しのはらのチームが導入してる一括管理ツールを使えば、そんな時間は短縮できるだろう」 「……おっしゃる通りです。ですが、今回のミスは私が機械的にリストを処理しようとした結果起きました。時間はかかりますが、私にはこのやり方が必要だと判断しました」

以前の私なら、部長の言葉に萎縮して「すぐにツールを使います」と言っていただろう。  けれど、昨夜の薫さんの言葉が胸に残っていた。『図面通りにいかない隙間にこそ、人の心が宿る』。  私の不器用さは、効率化ツールでは補えない。むしろ、手間をかけることでしか誠意を示せない。それは「開き直り」に近い覚悟だった。

「……まあいい。ただし、残業は増やすなよ。結果でお客様を納得させろ」 「はい、ありがとうございます!」

席に戻ると、隣のデスクから視線を感じた。梨花だ。  彼女は呆れたように肩をすくめた。

「千尋、またそんな泥臭いこと提案したの? 部長の言う通り、私のチームのツール共有してあげようか?」 「ううん、大丈夫。梨花のやり方はすごいけど、私には使いこなせない気がして。私は私のペースでやってみる」

梨花は不思議そうな顔をした。「ふうん」と短く返し、すぐに手元のタブレットで結婚式の招待客リストの精査に戻る。  彼女の画面の中では、ゲストが属性ごとに完璧に分類され、席次がパズルのように美しく組み上がっていた。迷いのないその指先を見ても、今日は不思議と焦燥感を感じなかった。


午後、私は外回りに出ることになった。  行き先は、谷中やなか。下町情緒が残る、入り組んだ路地の多いエリアだ。  顧客は、老舗和菓子店を営む大将・角田かくたさん。来月の社員旅行の手配を任されていたのだが、私の提案したプランが「若向けすぎて風情がない」と突き返されてしまったのだ。今日はその修正案を持っての再訪問だった。

「谷中かぁ……」

駅を降りた瞬間、私は地図アプリを起動した。  画面上の青い点は、相変わらずふらふらとしている。この辺りは細い道が多く、GPSの精度が落ちやすい鬼門だ。  梨花なら、駅前から迷わずタクシーを拾うだろう。それが最短で確実だ。  でも、私はあえて歩くことを選んだ。角田さんが言っていた「風情」という言葉の意味を、肌で感じたかったからだ。

案の定、私は十分もしないうちに迷子になった。  地図アプリは「右折です」と言っているが、そこには人がすれ違うのがやっとの細い路地しかない。恐る恐る進んでみたものの、行き着いたのは古いアパートの行き止まりだった。

「……やっぱり、だめか」

ため息が出る。頭の中で、元彼・圭介の「疲れる」という言葉と、梨花の「無駄な時間」という言葉がリフレインする。  約束の時間まであと三十分。タクシーを拾おうにも、こんな路地裏には入ってこれない。  焦りが滲む。額に嫌な汗が浮かぶ。

その時、ふと足元に一匹の三毛猫が横切った。  猫は私を一度振り返ると、ひょいと塀の隙間へ消えていった。  何かに導かれるように、私はその隙間を覗き込んだ。  そこには、地図には載っていない小さな抜け道があった。そして、その道の先に、奇妙な看板が揺れているのが見えた。

『金平糖・星屑堂』

星屑。  その単語に反応して、私は吸い寄せられるように足を向けた。  そこは、四畳半ほどの小さな駄菓子屋のような店だった。店先には、色とりどりの金平糖が詰まったガラス瓶がずらりと並んでいる。  夕日に透かされた金平糖は、まるで小さな星のかけらのようにキラキラと輝いていた。

「いらっしゃい」  店番をしていたおばあちゃんが、日向ぼっこをしているような声で言った。 「お嬢さん、迷子かい?」 「あ、ええと……はい。角田和菓子店に行きたいんですけど」 「ああ、角田さんとこなら、この道を抜けてお寺さんの角を左だよ。地図には載ってないけどね、地元の人間しか通らない近道さ」

お礼を言って立ち去ろうとした私の足を、ガラス瓶の中の光が止めた。  黄色、ピンク、水色。不揃いな突起を持つその砂糖菓子は、昨夜バーで見た『ポラリス・ネブラ』の輝きに似ていた。

「これ、一つください」  私は衝動的に、一番小さな小瓶を手に取っていた。


教えてもらった近道を抜けると、驚くほどあっさりと角田和菓子店の勝手口に出た。  約束の時間ギリギリ。息を切らして暖簾をくぐる。

「遅い!」  開口一番、角田さんの雷が落ちた。頑固職人として有名な彼は、腕組みをして私を睨みつけていた。 「すみません! 道に迷ってしまって……」 「旅行屋が道に迷ってどうする。そんな段取りの悪い人間に、大事な慰安旅行を任せられるか」

もっともな叱責だ。私は平謝りしながら、鞄から修正したプランを取り出した。  しかし、角田さんの表情は険しいままだ。 「どうせまた、ネットの人気ランキング上位の店を並べただけだろう。わしらが求めてるのは、もっとこう、心に残るような……」

言葉に詰まる角田さん。私は意を決して、修正プランの横に、先ほど買った小瓶をそっと置いた。

「これ、来る途中で見つけたんです」 「……あ?」 「道に迷って、路地裏に入り込んでしまって。そこで見つけた金平糖屋さんなんですけど」

私は、自分が迷子になった経緯と、その古い店の佇まい、そしておばあちゃんとの会話を話した。  効率的な移動をしていたら絶対に出会わなかった景色。  地図アプリには載っていないけれど、確かにそこにある温かい場所。

「今回のプランも、確かに有名どころを入れています。でも、移動時間には余裕を持たせて、あえて『自由散策』の時間を多く取りました。皆様の足で、その土地の路地裏にある、ガイドブックに載っていない『星』を見つけていただきたくて」

一気に喋ってしまい、心臓が早鐘を打つ。  これは詭弁かもしれない。自分の方向音痴を正当化しているだけかもしれない。  沈黙が流れた。  角田さんは、金平糖の小瓶を手に取り、光にかざした。そして、ふっと表情を緩めた。

「……星屑堂か。懐かしいな」 「え?」 「子供の頃、よく通ったんだよ。まだあったのか、あそこ」  角田さんは目を細め、小瓶を愛おしそうに撫でた。 「そうか。お前さん、あんなわかりにくい場所によく迷い込んだな」 「はい。才能があるみたいで……迷子の」

私が自虐的に笑うと、角田さんは「はっ」と短く笑った。 「効率よく名所を回るだけが旅じゃない、か。……悪くない。その『余白』のあるプラン、採用しよう」

全身の力が抜けた。  角田さんは、私が持参した金平糖を一粒口に放り込むと、ガリリと音を立てて噛み砕いた。 「甘いな。……でも、悪くない」


会社への帰り道、私は電車の中でスマホを開いた。  仕事用のチャットには、梨花からのメッセージが入っていた。  『お疲れ。角田さんの件どうだった? もしダメそうなら、私が持ってる老舗旅館のコネ紹介するけど』

彼女なりの気遣いだ。以前の私なら、「お願い助けて」とすがっていただろう。  でも、私は親指を動かして返信を打った。  『ありがとう。でも、OKもらえたよ。昔ながらの金平糖が、いい仕事してくれたの』

送信ボタンを押すと同時に、窓の外に夜の街並みが流れていく。  今日はバー『Orbit』には行かない。  まだ、あの場所に行く資格がない気がしたからだ。  昨日の私は、ただ逃げ込んで慰めてもらっただけ。次にあの扉を開ける時は、今日みたいに自分なりの「迷い道の果実」を手土産に持って行きたい。

カバンの中には、自分用に買ったもう一つの金平糖の瓶が入っている。  私はそれを握りしめた。  指先に伝わるゴツゴツとした感触は、不器用な私の生き方そのものだったけれど、今の私にはそれが、どんな宝石よりも確かな「道しるべ」に思えた。

迷うことは、無駄じゃない。  その言葉が、初めて自分の実感として腹の底に落ちた夜だった。


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