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迷子のための星図(スターマップ)3

第三章 琥珀色の羅針盤と、回り道の先客


目の前に置かれたグラスの中には、夕暮れを煮詰めたような琥珀色の液体が揺れていた。  大きな球体の氷が一つ。それが液体の中でゆっくりと回転する様は、まるで小宇宙に浮かぶ惑星のようだ。

「『アンバー・コンパス』。古い船乗りたちが愛したラム酒をベースに、少し甘めのベルモットと、オレンジピールで香り付けをしてあります」

昴さんが静かに解説する。  グラスを手に取ると、柑橘の爽やかさの中に、どこか懐かしい、焦がした砂糖のような香りが混じっていた。一口含むと、まろやかな甘みが舌の上でほどけ、喉の奥を熱く撫でていく。

「……優しい味です。昨日のとは全然違う」 「昨夜の『ポラリス』は冷たい星の光でしたが、今夜は、荒れた海を航海する船乗りのための暖炉のようなイメージですから」

暖炉。その言葉の通り、アルコールが胃に落ちると、冷え切っていた心がじんわりと温められていくような感覚に陥った。  私はグラスを見つめたまま、ポツリと漏らした。

「私、船乗り失格ですね。羅針盤どころか、自分の現在地も見失って、ただ漂流してるだけですから」 「漂流、ですか」 「はい。……元彼に言われたんです。『君と一緒にいると、ナビの再検索画面を見てるみたいで疲れる』って」

昨日は言えなかった具体的な言葉が、アルコールの力を借りてするりと口から出た。  一度口に出してしまうと、ダムが決壊したように言葉が溢れ出してくる。

「一生懸命やってるつもりなんです。でも、それが全部裏目に出て、重荷になって。仕事でも、良かれと思ってやったことがミスに繋がって。……私、何のために頑張ってるのかわからなくなっちゃいました」

昴さんはグラスを拭く手を止めず、私の独白をただ静かに聞いていた。相槌を打つでもなく、否定するでもなく。その静寂が、今の私には何よりも救いだった。

「重荷、と言われましたか」

しばらくして、彼は独り言のように呟いた。

「星には重力があります。重力が強いからこそ、周囲の惑星を引き寄せ、軌道を作ることができる。重さというのは、その星が持つ『引力』の証でもあるんですよ」 「引力……」 「軽やかな彗星も美しいですが、どっしりと構えた恒星には、また別の魅力がある。あなたは、ご自身の重さを欠点だと思い込んでいるようですが、それは誰かを強く惹きつける力になるかもしれません」

彼の言葉は、あまりにも浮世離れしていて、すぐには腑に落ちなかった。けれど、「重くていい」と言われたことは、私の肩に乗っていた見えない重りを少しだけ軽くしてくれた気がした。

カラン、とドアベルが鳴った。  振り返ると、一人の女性が入ってきたところだった。  濡れたような艶のある黒髪をショートボブにし、仕立ての良さそうなグレーのセットアップを着こなしている。年齢は四十代半ばくらいだろうか。背筋がピンと伸びていて、一目で「仕事ができる人」だとわかる雰囲気を持っていた。  梨花が二十年後に歳を重ねたら、こんな風になるのかもしれない。私は反射的に身構えた。

「いらっしゃい、かおるさん」 「こんばんは、昴さん。……あら、今日は先客がいるのね」

女性――薫さんは、私の方を見てにこりと微笑んだ。その笑顔は、意外なほど柔らかく、人懐っこいものだった。  彼女は私の二つ隣の席に座り、慣れた様子でオーダーする。

「いつもの、お願いできる? 今日はもう、頭がパンクしそうで。数字と図面は見飽きたわ」 「かしこまりました。いつものギムレットですね」

彼女は建築家か何かなのだろうか。鞄から分厚い革の手帳を取り出し、カウンターに置いた。  私は気まずくて視線をグラスに戻したが、彼女の方から声をかけてきた。

「素敵なカクテルね。それ、メニューには載ってないやつでしょ?」 「あ、はい。マスターにお任せで作っていただいて」 「ふふ、なるほど。昴さんにお任せってことは、あなたも何か『迷い事』かしら?」

図星を突かれて、私は言葉に詰まった。  私の動揺を見て取ったのか、薫さんは楽しそうに笑う。

「驚かなくていいわよ。この店に来る人は、みんな何かしら迷ってるんだから。私だってそうよ」 「えっ……そうなんですか?」

私は思わず彼女の顔をまじまじと見てしまった。  知的で、洗練されていて、迷いなど無縁に見える。それこそ、最短距離で成功への階段を登ってきた人のように見えるのに。

「そうよ。私なんて、迷子のベテランだわ」

薫さんは運ばれてきたギムレットを一口飲むと、ふう、と長い息を吐いた。

「私は造園の仕事をしてるんだけどね、若い頃は完璧な図面を引くことに命を懸けてたの。一ミリの誤差も許さない、幾何学的に美しい庭。それが正解だと思ってた」 「……すごいですね」 「でもね、ある時、発注ミスで予定していた樹木が届かなくて、代わりに形の悪い、枝がねじれた木を植えなきゃいけなくなったの。私は絶望したわ。私の完璧な計画が台無しだって」

彼女はグラスの縁を指でなぞる。

「でも、数年経ってその庭を見に行ったら、施主さんが言ったの。『このねじれた木の影が、時間によって表情を変えて一番気に入ってるんです』って。私が計算して植えた整然とした並木よりも、アクシデントで植えられたその木の方が、愛されていたのよ」

その話は、私の胸の奥に深く突き刺さった。  計算外のアクシデント。望まなかったイレギュラー。  それは、私の人生そのものだ。

「それからね、私は『遊び』の部分を作るようになったの。図面通りにいかない部分、自然に任せる余白。そういう『隙間』にこそ、人の心が宿るんじゃないかってね」

薫さんは私に向き直り、優しい目で言った。

「あなたも、何か計画通りにいかなくて悩んでるのかもしれないけど、その『ズレ』が、いつか誰かにとっての心地よい木陰になるかもしれないわよ」

私は何も言えなくなって、ただコクコクと頷いた。  涙腺が緩みそうになるのを必死で堪える。  梨花は言った。「効率的に生きなよ」と。  元彼は言った。「疲れる」と。  でも、この人は、「ズレ」を「木陰」だと言ってくれた。

「……ありがとうございます。私、仕事でミスばかりで、自分が嫌になってたんですけど……少しだけ、勇気が出ました」 「いいのよ。迷子の先輩からの、お節介なアドバイス」

薫さんは悪戯っぽくウインクをして、グラスを傾けた。

その時、昴さんがカウンターの奥から一枚の古い紙を取り出した。  それは、羊皮紙に描かれた古地図のようだった。けれど、私が知っている世界地図とは形が違う。

「これは、大航海時代の地図です」

昴さんが地図を広げる。そこには、大陸の形もあやふやで、海の至る所に恐ろしげな怪魚や、架空の島々が描かれていた。

「当時の人々にとって、海は未知の恐怖でした。でも、彼らはわからない場所を『空白』にはしなかった。想像力で怪物を描いたり、楽園を描いたりして、地図を埋めていったんです」 「想像力……」 「ええ。正確な地図アプリは便利ですが、そこには『想像の余地』がありません。迷子になるということは、自分だけの地図に、自分だけの怪物や楽園を描き足すチャンスでもあるんですよ」

千尋さんの地図には、今、どんな絵が描かれていますか?  昴さんの問いかけに、私は自分の心の中を覗き込んだ。  そこにはまだ、失敗のバツ印と、行き止まりのマークしかない。  でも、もしそこに、薫さんの言う「ねじれた木」や、昴さんの言う「想像の楽園」を描き足せるとしたら。

「……まだ、真っ暗です。でも、少しだけ星が見えてきた気がします」

私がそう答えると、昴さんと薫さんは顔を見合わせて、柔らかく微笑んだ。


店を出ると、空はすっかり晴れ渡っていた。  都会の空だから満天の星とはいかないけれど、ビルの隙間に、一つだけ強く輝く星が見えた。あれが何という星なのか、私にはわからない。北極星なのか、金星なのか、あるいは人工衛星なのかもしれない。  けれど、名前なんてどうでもよかった。  ただ、その光が「こっちだよ」と瞬いているように見えたから。

ポケットの中でスマホが震えた。  画面を見ると、仕事用のチャットアプリの通知だった。  『明日の朝イチで、例の件の報告書を提出すること。部長が確認したいそうです』  送信者は上司。  一瞬で現実に引き戻される。胃がまたきゅっと縮む感覚。  明日になればまた、効率と正確さを求められる戦場に戻らなければならない。私は依然として仕事のできない社員だし、方向音痴のままだ。

でも。  私は空の星をもう一度見上げた後、スマホの画面に向かって小さく呟いた。

「わかってます。でも、今はまだ、帰り道を探検中ですから」

私はヒールの音を響かせて歩き出した。  駅までの道はまだあやふやだ。たぶん、また少し迷うだろう。  それでも、昨日の夜よりは、足取りが軽い気がした。  私の迷走も、いつか誰かのための木陰になるかもしれない――そんな淡い期待を、琥珀色のカクテルの余韻と共に抱きしめながら


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