迷子のための星図(スターマップ)2
第二章 昼下がりの迷宮と、消えた足跡
翌朝、目覚めた瞬間に襲ってきたのは、こめかみを締め付けるような鈍痛と、強烈な自己嫌悪だった。 カーテンの隙間から差し込む白い陽光が、散らかったワンルームの部屋を容赦なく暴き立てている。脱ぎ捨てられたトレンチコート、片方だけ裏返ったストッキング。そして、サイドテーブルには一枚のコースター。 濃紺の厚紙に、金色のインクで『Orbit』と記されたそれを手に取ると、昨夜の出来事が夢ではなかったことが証明された。
「……また、やっちゃった」
私は呻き声を上げてベッドに倒れ込んだ。 知らない店に入り浸り、知らない男性に人生相談をし、挙句の果てに「迷子になりたい」などとポエムのような台詞を吐いた。思い出せる限りの言動すべてが、今の私には致死量に近い恥ずかしさだ。 けれど、不思議と胸の奥は軽かった。二日酔いの頭痛とは裏腹に、心臓の鼓動は凪いでいる。あの静謐な空間と、昴というマスターの低い声が、ささくれ立った神経を鎮静剤のように落ち着かせてくれていたのかもしれません。
スマホのアラームが鳴る。現実への呼び出し音だ。 私は重い体を起こし、鏡の前で自分の顔を作った。目の下の隈をコンシーラーで隠し、笑顔の練習をする。 「おはようございます。今日も一日、頑張ります」 鏡の中の私は、どこにでもいる「ちゃんとした社会人」の顔をしていた。中身がどれほど迷子でも、制服を着てメイクをすれば、それなりに見える。それが大人の擬態能力だ。
出社してすぐ、私は昨日ミスをした京都の旅館とお客様への謝罪メール、そして再発防止策のレポート作成に追われた。 キーボードを叩く指先が重い。フロアの向こう側では、梨花が電話口で流暢な英語を話し、海外のホテルと交渉している声が聞こえる。彼女のデスクは今日もモデルルームのように整然としていて、私のデスクはと言えば、付箋と資料の雪崩が起きかけていた。
「千尋、ちょっといい?」
昼休み、サンドイッチを齧りながら資料を整理していると、梨花が声をかけてきた。手には有名パティスリーの紙袋を持っている。
「これ、ブライダルフェアのお土産。引き菓子選びの参考にしてるんだけど、よかったら食べて」 「わあ、ありがとう。……順調そうだね」 「うん。今週末はドレスの試着。直樹さんが『何でも好きなの着ていいよ』って言ってくれてるから、三着くらい候補絞ってて」
梨花の笑顔は、曇りのない晴天そのものだ。 彼女の話を聞いていると、結婚というプロジェクトがいかに効率的に、かつ華やかに進行しているかがわかる。そこには「誤算」や「停滞」といった文字はない。
「そういえばさ、千尋。あの後、ちゃんと帰れた?」 「えっ」 「タクシー呼ぼうとしたら断るし、なんかふらふら歩いていくし。心配したんだよ」 「あ、うん。大丈夫。ちょっと酔い覚ましに散歩してから電車乗ったから」
嘘をついた。あの不思議なバーのことは、なぜか梨花には教えたくなかった。彼女の論理的な思考回路にかかれば、「怪しい店」「時間の無駄」と一蹴されてしまいそうで、あの場所の魔法が解けてしまう気がしたからだ。
「ならいいけど。……ねえ、千尋もさ、そろそろ新しい人探したら? いつまでも圭介さんのこと引きずってても仕方ないよ」
圭介。 その名前が出た瞬間、サンドイッチの味がしなくなった。
「引きずってないよ。もう三ヶ月も前のことだし」 「そう? でも千尋、別れてからずっと自信なさげだもん。圭介さんみたいなタイプが合わなかっただけだって。次はもっとおおらかな人がいいよ」
梨花は悪気なく言い放ち、デスクに戻っていった。 私はパソコンの画面を見つめたまま、動けなくなった。 三ヶ月前に別れた元彼、圭介。彼は、私の「方向音痴」が、単なる地図上の話だけではないことを決定的に突きつけた人だった。
彼との交際は一年続いた。几帳面で真面目な彼は、私が道に迷っても最初は「しょうがないなぁ」と笑って迎えに来てくれた。だから私は、彼に嫌われないように必死だった。 彼の役に立ちたくて、彼の負担になりたくなくて、私は私なりに努力をした。 デートの前日にはストリートビューで道を予習し、電車の乗り換え時間を調べ、天気予報をチェックした。梨花のようにスマートに振る舞おうと、自分なりに「完璧な彼女」を演じようとしたのだ。
決定打となったのは、半年前の箱根旅行だった。 私がプランニングを任された、一泊二日の記念旅行。私はガイドブックを三冊買い込み、分刻みのスケジュール表を作った。 『10:00 箱根湯本着』『10:30 スイーツの名店へ移動』『11:45 美術館行きのバスに乗車』――。 完璧なはずだった。けれど、現実は私の計画通りにはいかない。 バスは渋滞で二十分遅れ、私が目当てにしていた店は臨時休業。代わりの店を探そうとスマホを取り出すも、焦りで操作がおぼつかない。山道で方向感覚を失い、反対方向のバス停へ彼を誘導してしまった。
「ごめん、ごめんね。すぐに戻るバス探すから」 雨が降り出した山道のバス停で、私は半泣きになりながら謝り続けた。 濡れた前髪、泥のついた靴、狂っていくスケジュール。 隣に立つ圭介の顔色は、次第に曇っていった。怒鳴られたわけではない。彼はただ、深く、重い溜息をついたのだ。
『……千尋さ』 『なに? ごめんね、本当にごめん』 『謝らなくていいよ。たださ、なんか……疲れるんだよね』
雨音に消え入りそうな声だったけれど、その言葉は鋭い刃物となって私の心臓を貫いた。
『千尋と一緒にいると、ずっとナビの再検索画面を見てる気分になる。一生懸命なのはわかるけど、その一生懸命さが、俺には重荷なんだ』
疲れる。重荷。 私が彼のためにと思って積み上げた努力は、彼にとっては私自身の不器用さを隠すための見苦しい足掻きにしか見えなかったのだ。 結局、その旅行の帰り道、私たちはほとんど口を利かなかった。そして数ヶ月後、よそよそしい期間を経て、別れを告げられた。
私は自分が「欠陥品」なのだと知った。 地図が読めないだけなら愛嬌で済むかもしれない。けれど、私は人生の歩み方において、相手を疲れさせてしまう。 梨花のように、相手をリードしたり、心地よいペースで並走したりすることができない。いつも迷子になって、「ごめんなさい」と言いながら、相手の足を引っ張ってしまうのだ。
定時を過ぎると、私は逃げるようにオフィスを出た。 雨は上がっていたけれど、空気は湿っていて生温かい。 まっすぐ家に帰る気にはなれなかった。気がつくと、足は新宿駅の南口ではなく、昨夜迷い込んだあの路地裏の方角へ向いていた。
もう一度、あの店に行きたい。 『Orbit』。あそこでなら、私は迷子のままでいいと言ってもらえる気がしたから。
昨夜の記憶を頼りに、大通りから一本入った路地を進む。 確か、角に古本屋があって、その先の自動販売機を左に曲がったはずだ。 しかし、昼間の光の下で見る街の景色は、昨夜とはまるで違っていた。 古本屋だと思っていた場所はシャッターの閉まった空き店舗で、自動販売機などどこにもない。似たような雑居ビルが連なり、無機質な室外機が低い唸り声を上げているだけだ。
「……あれ?」
私は立ち止まり、周囲を見回した。 レンガ造りの古めかしい建物。重厚な木の扉。真鍮のプレート。 それらしい建物を探して、私は十分、二十分と歩き回った。
ない。 どこにもない。 昨夜、確かに私はそこにいたはずなのに。温かいおしぼりの感触も、星空の天井も、青いカクテルの味も、鮮明に覚えているのに。まるで狐につままれたようだ。
「……やっぱり、夢だったのかな」
路地の突き当たりで、私は膝に手をついた。 靴擦れの痛みがぶり返してくる。 結局、私はあの店にすら、自力でたどり着けないのだ。一度行けた場所にさえ戻れない。私の方向音痴は、ここまで救いようがないのか。
失意のまま踵を返そうとした時、ふと、風に乗って微かな香りが漂ってきた。 深煎りのコーヒーと、古い紙の匂い。 ハッとして顔を上げる。匂いは、雑居ビルの間の、人が一人通れるかどうかの細い隙間から流れてきているように感じた。
吸い寄せられるようにその隙間へ足を踏み入れる。 薄暗い通路を抜けると、そこには小さな中庭のような空間があった。そして、その奥に――昨夜見たレンガの壁が、ひっそりと佇んでいた。
あった。 正面の通りからではなく、裏道のような場所に入り口があったのだ。 昨日の私は、どれだけデタラメなルートでここに行き着いたのだろう。自分でも呆れるけれど、見つけられたことに安堵して、力が抜けた。
扉の前には、昨日は気づかなかった小さな黒板が出されていた。 チョークで流麗な筆記体が書かれている。
『Tonight's Theme: Lost & Found』
落とし物、あるいは、迷いと発見。 まるで私を待っていたかのような言葉に、私は思わず苦笑した。 重い扉を開けると、カラン、とあの音が鳴る。 「いらっしゃいませ」 カウンターの中で、昴さんが顔を上げた。昨夜と同じ、静かで落ち着いた佇まい。でも今日は、眼鏡をかけていて、それが一層「書庫の番人」のような雰囲気を醸し出していた。
「あ……こんばんは」 「おや」 彼は私を認めると、眼鏡の位置を指で直し、ふわりと目を細めた。
「昨夜の迷い人ですね。よく、たどり着けましたね」 「……実は、三十分くらい迷いました。昨日どうやって来たのか全然思い出せなくて」 「それはそれは。でも、二度目の航海成功、おめでとうございます」
彼は大げさに拍手をする真似をした。 その茶目っ気に、今日一日張り詰めていた心が緩んでいくのを感じた。
「あの……また、雨宿りさせてもらってもいいですか? 今日は雨、降ってないですけど」 「構いませんよ。ここは心の雨宿りをする場所でもありますから」
案内されたのは、昨日と同じ端の席。 私はハイチェアに座り、天井の星空を見上げた。回る星々を見ていると、自分がちっぽけな存在に思えて、旅館のミスも、梨花の輝きも、圭介の溜息も、少しだけ遠くの出来事のように感じられた。
「今日は何を?」 昴さんが尋ねる。 私は少し考えてから、昨日の自分の言葉を思い出した。
「……少し、苦くないものを。昨日の自分を、許してあげられるような味がいいです」
昴さんは「承知しました」と短く答え、琥珀色のボトルを手に取った。 迷子の私が、今日見つけた唯一の確かな場所。 星図のない旅はまだ始まったばかりだけれど、ここが私の「北極星」になるのかもしれない。そんな予感を抱きながら、私は彼がグラスに氷を入れる涼やかな音に耳を傾けた。




