表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
迷子のための星図(スターマップ)  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/12

迷子のための星図(スターマップ)12

第十二章 ピントの合った世界


十月の海風は、想像していたよりもずっと冷たかった。  江ノ島へと続く弁天橋は、季節外れの花火大会を楽しむ人々で溢れ返っている。浴衣姿こそ少ないものの、厚手のニットやストールを羽織ったカップルたちの熱気で、橋の上は少し汗ばむほどだった。

「すごい人ですね……。はぐれないようにしないと」

私は人混みに揉まれながら、隣を歩く梶谷唯人かじや・ゆいとさんの袖を少しだけ掴んだ。  今日の彼は、いつものフィールドジャケットではなく、少し厚手のメルトンコートを着ている。それがまた、彼を少し大人びて見せていて、私は駅で待ち合わせた瞬間から、心拍数が上がりっぱなしだった。

「大丈夫ですよ。早瀬さんがどっちに行こうとしても、僕が見失いませんから」

梶谷さんはそう言うと、袖を掴んでいた私の手をそっと取り、自分のコートのポケットに入れた。 「えっ」 「こっちの方が温かいでしょう?」

ポケットの中で、彼の手が私の手を包み込む。  彼の体温が指先から伝わり、それが電気のように全身を駆け巡った。  私の顔は、きっと今の夕焼けよりも赤い。  こんなベタな少女漫画みたいな展開、私の人生のシナリオにはなかったはずだ。梨花ならスマートに微笑むところだろうけれど、私はと言えば、足がもつれて転ばないように必死で歩くのが精一杯だった。


会場となる砂浜は、既に色とりどりのレジャーシートで埋め尽くされていた。  私たちは少し離れた、波打ち際に近い場所に腰を下ろした。ここなら人もまばらで、波の音もよく聞こえる。

「……ここ、穴場ですね。さすが梶谷さん」 「ロケハンの賜物です。真正面から見るのもいいけど、少し斜めから海面に映る光を見るのが好きでね」

彼はコンビニで買ってきた温かい缶コーヒーを開け、私に渡してくれた。  スチール缶の温もりにホッとする。  空は群青色から漆黒へと変わりつつあり、遠くに見えるシーキャンドルの灯台が瞬き始めていた。

ふと、私は彼の荷物が少ないことに気づいた。  いつもなら肌身離さず持っているはずの、愛機の一眼レフがない。

「あれ? 梶谷さん、今日はカメラは?」 「置いてきました」 「えっ、どうしてですか? 花火、撮らないんですか?」

写真家にとって、花火は絶好の被写体のはずだ。ましてや、彼は「光」を撮るのが好きな人なのに。  梶谷さんは缶コーヒーを一口飲むと、視線を水平線に向けたまま静かに言った。

「ファインダー越しだと、どうしても『構図』や『タイミング』を考えちゃうんです。仕事の目になっちゃうというか」  彼は私の方を向き、少し照れくさそうに笑った。 「今日は、早瀬さんと同じ景色を、同じ解像度で共有したかったから。レンズというフィルターを通さずに」

同じ景色を。同じ解像度で。  その言葉は、どんな愛の囁きよりも深く、私の胸に染み込んだ。

――ドーン。  不意に、腹の底に響く音がした。  見上げると、夜空に巨大な光の華が咲いていた。  始まりの合図だ。

ヒュルルル……という音と共に、次々と光の粒が打ち上げられる。  赤、緑、金、銀。  バー『Orbit』のプラネタリウムで見た、整然とした静かな星空とは違う。  爆発音と共に四散し、一瞬で消えていく、儚くも力強い光の奔流。  それは、昴さんが言っていた「火傷するほどの現実の光」そのものだった。

でも、怖くない。  ポケットの中で繋がれた手があるから。  隣に、同じ空を見上げている人がいるから。

「……綺麗」  私が呟くと、梶谷さんがこちらを見た。  逆光になった彼の顔はよく見えないけれど、その瞳に花火の光が映り込んでいるのが分かった。

「早瀬さん」  花火の音に負けないように、少し大きな声で彼が呼んだ。

「はい」 「僕ね、君のことが好きです」

時が止まった気がした。  頭上では、スターマインが連続して炸裂し、視界を真っ白に染め上げている。  その轟音の中で、彼の言葉だけが、くっきりと輪郭を持って耳に届いた。

「被写体としてじゃなくて。一人の女性として、早瀬千尋さんが好きです」

彼は、ポケットから手を出して、改めて私の手を両手で包み込んだ。  その手は少し震えていた。  ああ、この人も緊張しているんだ。私と同じように。

「僕と一緒にいると、道に迷うこともあるかもしれない。雨に降られることもあるかもしれない。……それでも、僕の隣にいてくれませんか?」

私は、涙で滲む視界を必死で拭った。  かつて、私は自分の不器用さが誰かを疲れさせると思っていた。  私の描く地図は間違いだらけで、誰かと歩く資格なんてないと思っていた。  でも、この人は言ってくれる。  「迷子であること」ごと、私を愛してくれると。

「……私、方向音痴ですよ。デートの場所も間違えるし、また変な行き止まりに連れて行っちゃうかもしれません」 「大歓迎です。君となら、行き止まりだって観光名所になる」 「……私、可愛げもないし、考えすぎて重たい女ですよ」 「知ってます。その重力が、僕を引き寄せて離さないんです」

彼は悪戯っぽく笑い、それから真剣な表情に戻った。

「千尋さん。僕の人生のヒロインになってください。……ピントは、もう君に合ってるから」

涙が頬を伝って落ちた。  それは悲しみの涙でも、自己憐憫の涙でもない。  私の世界にかかっていた霧が晴れ、すべての色彩が鮮やかに浮かび上がってくるような、歓喜の涙だった。

「……はい。私でよければ、いくらでも」

私が頷くと、彼は安堵したように息を吐き、私を抱き寄せた。  冷たい海風の中で、彼の体温だけが熱い。  コートの匂いと、微かなコーヒーの香り。    頭上ではクライマックスの金色の花火が降り注ぎ、柳のように海面へと垂れ下がっていく。  その光の中で、私たちは初めてキスをした。  不格好で、少ししょっぱくて、でも世界で一番温かいキスだった。


帰りの電車。  混雑する車内で、私たちは並んでつり革に捕まっていた。  繋いだ手は、もうポケットの中ではなく、堂々と絡ませている。

ふと、窓ガラスに映る自分たちの姿を見た。  そこには、少し髪が乱れて、鼻の頭を赤くした私がいた。  梨花のような完璧な美女ではない。  でも、隣にいる彼に向けている笑顔は、私が今まで見た自分の中で、一番いい顔をしていた。

ポケットの中には、お守りの金平糖が一粒。  そして私の隣には、最強のパートナー。

私の人生の地図は、まだ空白だらけだ。  これから先、私たちは何度も迷い、喧嘩し、道を間違えるだろう。  でも、きっと大丈夫。  「迷う」ということは、「未知の幸せを探す」ということだと、今の私は知っているから。

電車の揺れに合わせて、私たちの肩が触れ合う。  その心地よいリズムに身を任せながら、私は心の中で小さく呟いた。

――さようなら、ひとりで震えていた迷子の私。  ――はじめまして、二人で迷う新しい世界。

車窓の外には、東京の夜景が流れている。  その無数の光の一つ一つが、まるで私たちを祝福する星屑のように見えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ