迷子のための星図(スターマップ)11
第十一章 完璧な地図の裏側
秋の陽だまりが、散らかったリビングの床に長い影を落としていた。 私のマンションに千尋が来るのは、私が会社で泣き崩れたあの日以来のことだ。
「ごめんね梨花、この字、ちょっと右に寄っちゃったかも」 「ううん、大丈夫。それくらいの方が『手書き感』があっていいよ」
ローテーブルを挟んで、私と千尋は向き合っていた。 テーブルの上には、書き損じの便箋と、インクの瓶、そして千尋が持ってきてくれた老舗洋菓子店のクッキー缶が広がっている。 私たちは今、一度白紙に戻した結婚式の招待状を、一枚ずつ手書きで作成していた。
以前の私なら、発狂していたかもしれない。 フォントの統一もされていない、行間もまちまち、インクの滲みもある。こんな「非効率」で「不完全」な招待状なんて、私の美学が許さなかったはずだ。 でも不思議と、今の私はこの作業を心地よく感じていた。 ペン先が紙を引っ掻く音や、千尋が時々「あちゃー」と声を上げるリズムが、張り詰めていた神経を解きほぐしてくれる。
私はペンを走らせながら、向かいの千尋を盗み見た。 彼女は、少し変わった。 見た目が劇的に変わったわけではない。相変わらず服のセンスは少し野暮ったいし、今日も来る途中に駅の出口を間違えたらしい。 けれど、纏っている空気が違う。 以前のような、常に何かに怯えているような頼りなさが消え、代わりに芯のある穏やかさが備わっている。
「……ねえ、千尋」 「ん?」 「最近、綺麗になったね」
私が率直に言うと、千尋は目を丸くして、それから頬を染めた。 「ええっ? やめてよ、何も変わってないよ」 「ううん、変わった。……あのカメラマンさんと、うまくいってるの?」
千尋の手が止まった。彼女は恥ずかしそうに視線を逸らし、小さく頷いた。 「……うん。まだ『付き合う』とか、はっきりした言葉はないんだけど。でも、来週末も会うことになった」 「そっか。よかったね」
心からの祝福だった。でも同時に、胸の奥でチクリと小さな棘が疼いた。 それは嫉妬だった。恋人ができたことへの嫉妬ではない。 千尋が持つ「自由」への、どうしようもない憧れと嫉妬だ。
私はペンを置き、冷めかけた紅茶を一口飲んだ。 「私ね、ずっと千尋のことが心配だったの。『この子は私がついててあげなきゃ、どこで野垂れ死ぬかわからない』って」 「あはは、ひどいなぁ。でも事実だけど」
千尋は苦笑いしてクッキーを齧った。 私は窓の外、整然と立ち並ぶビル群に目を向けた。
「でもね、本当はずっと羨ましかったのかもしれない」 「え? 私が?」 「うん。私はね、千尋。ずっと高速道路を走ってたの」
私の人生は、最短距離を行く高速道路だった。 良い大学に入り、良い会社に入り、同期で一番に出世し、ハイスペックな彼氏と結婚する。 ナビが示すルートは完璧で、舗装も綺麗で、景色を見る余裕なんてなくても、スピードメーターだけを見て走っていれば安心だった。 でも、高速道路には欠点がある。 一度乗ってしまうと、簡単には降りられないこと。そして、もし事故が起きたら、逃げ場がなくて立ち往生してしまうこと。
「私がこの前、あんな風に壊れちゃったのは、高速道路でガス欠になったからよ。降り方も、給油の仕方も分からなくて、ただパニックになってた」
私は千尋を見た。 「でも、千尋は違う。あなたは獣道を行くじゃない? 泥だらけになって、転んで、何度も行き止まりにぶつかって。……見てるこっちはハラハラするけど、だからこそ千尋は『戻る強さ』を持ってる」
道に迷うということは、自分の足で地図を描き直すということだ。 行き止まりを知っている人は、別のルートを探すしなやかさを持っている。 あの雨の夜、千尋が私をあの不思議なバーへ連れ出してくれた時、私は初めてその「強さ」に触れた気がした。
「私が遭難した時、助けてくれたのは、完璧な地図を持った人じゃなくて、迷い方を知っている千尋だった。……悔しいけど、完敗よ」
私が笑うと、千尋は困ったような顔をして、それから真剣な眼差しで私を見返した。
「買いかぶりすぎだよ、梨花。私なんて、梨花が作ってくれた道のおこぼれを歩いてただけだもん」 千尋は、書き上げたばかりの招待状の一枚を手に取った。 そこには、少し不格好な字で『篠原梨花』と私の名前が書かれていた。
「でもね。高速道路を降りた梨花は、もっと素敵だよ」 「え?」 「完璧じゃなくなった梨花は、すごく人間くさい。今の招待状の方が、印刷されたやつよりずっと、受け取った時に嬉しいと思う」
千尋の言葉に、鼻の奥がツンとした。 直樹さんも言っていた。『君が好きにしていい』じゃなくて、『一緒に迷おう』と言ってほしかった私。 今、私は不格好な手書きの文字の中で、ようやく自分自身の輪郭を取り戻しつつある。
「……ありがとう。千尋」
私は涙をごまかすために、クッキーを一つ口に放り込んだ。甘くて、バターの香りが濃厚で、でもどこか素朴な味。
「ねえ、そのクッキー、美味しいでしょ?」 「うん。どこの?」 「私がロケハンの時に迷い込んだ路地裏で見つけたお店のなの。有名じゃないけど、おばあちゃんが一人で焼いてて」
得意げに話す千尋の顔は、かつての卑屈な表情とは別人のように輝いていた。 彼女はもう、私がいなくても大丈夫だ。 梶谷さんという新しいガイドと一緒に、あるいは彼女自身のコンパスで、これからもどんどん私の知らない景色を見つけに行くだろう。
少し寂しいけれど、それ以上に誇らしかった。 私の親友は、世界一かっこいい迷子なのだから。
「さてと! あと五十枚。頑張って終わらせて、夜はパーッと美味しいワインでも飲みに行かない?」 私が提案すると、千尋はパッと顔を輝かせた。 「賛成! あ、でもお店選びは梨花にお願いしていい?」 「もちろん。千尋に任せたら、隣の県まで行っちゃいそうだしね」
私たちは顔を見合わせて、久しぶりに学生時代のように声を上げて笑った。 テーブルの上のインクの染みは、まるで新しい星図のようだった。 正反対の私たちが描く軌道は、これからも付かず離れず、お互いを照らし合いながら続いていくのだと、確信できた午後だった。




