表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/10

迷子のための星図(スターマップ)10

第十章 夜明け前の境界線


氷が溶けて崩れる、カランという音が、水底のような静寂を揺らした。

『Orbit』の空気は、今まで感じたことがないほど張り詰めていた。  右には、熱を持った瞳で「日傘になる」と告げた梶谷さん。  前には、冷ややかな美貌で「箱庭で守る」と微笑む昴さん。

私はその狭間で、身動きが取れなくなっていた。  二人の言葉は、どちらも魅力的で、どちらも私の弱さを的確に突いていたからだ。  傷つくことを恐れる私は、昴さんの差し出す永遠の安らぎに惹かれている。  変わりたいと願う私は、梶谷さんの指差す眩しい世界に憧れている。

「……千尋さん」

沈黙を破ったのは、昴さんだった。  彼はカウンターに肘をつき、私の顔を覗き込むようにして囁いた。

「思い出してください。あなたが初めてここに来た夜のことを。雨に濡れて、靴擦れで足が痛くて、どこにも行けずに震えていたでしょう?」 「……はい」 「外の世界は、あなたには冷たすぎる。効率と正解だけを求める社会は、あなたのその繊細な『迷い』を許してはくれない。……でも、私なら許せます。あなたの弱さを、美しいものとして愛でることができる」

昴さんの指先が、私の頬にかかった髪をそっと払った。その冷たい感触に、ゾクリと背筋が震える。  それは甘美な麻薬のようだった。「頑張らなくていい」「そのままでいい」。その言葉に身を委ねてしまえば、どんなに楽だろう。

「おい」  低い声が割り込んだ。  梶谷さんが、昴さんの手を私の頬から引き剥がすように遮った。強く握られた拳が、カウンターの上で震えている。

「あんたの言ってることは、優しさじゃない。ただの標本作りだ」 「標本?」 「彼女を『迷子』という枠に閉じ込めて、変わらない姿のままピンで留めて眺めていたいだけだろ。それは愛でるんじゃなくて、殺してるのと同じだ」

梶谷さんの言葉に、昴さんの目がスッと細められた。店内の温度が一気に数度下がったような殺気が走る。

「……野暮なカメラマンですね。彼女は『変わること』に傷ついているんですよ。貴方のような強い人間には分からないでしょうが」 「分かるよ。俺だって、傷つくのが怖くてファインダーの裏に隠れてたからな」

梶谷さんは私に向き直った。  その瞳には、今まで見たことのない弱さと、それを上回る決意が宿っていた。

「早瀬さん。俺は、君を守るシェルターにはなれないかもしれない。雨が降れば一緒に濡れるし、道に迷ったら一緒に途方に暮れると思う」

彼は不器用に笑った。 「でも、君が『寒い』と言ったらコートを貸すことはできる。君が『疲れた』と言ったら、休めるベンチを探すことはできる。……俺は、君をガラスケースに入れて眺めるんじゃなくて、泥だらけになってもいいから、隣で手をつないで歩きたいんだ」

――隣で、手をつないで。

その言葉が、私の胸の奥でカチリと音を立てた。  そうだ。私は、梨花が羨ましかった。  彼女のように完璧になりたかったわけじゃない。彼女が自分の足で歩き、選び、時には転びながら進んでいく、その「生身の温度」が羨ましかったのだ。

昴さんの箱庭は美しい。けれど、そこには「時間」が流れていない。  私はポケットの中の金平糖を強く握りしめた。ゴツゴツとした痛み。それが、私の「現在地」だ。

「……昴さん」  私は震える声で、けれどはっきりと名前を呼んだ。

「私、やっぱり行きます」 「……火傷しますよ?」 「はい。火傷しても、転んで怪我をしても……私は自分の足で、外の空気を吸いたいです」

私は顔を上げた。 「ここで雨宿りしている間、私は守られていました。でも、『迷子』であることは、『どこかへ向かおうとしている』ことでもあるんです。……止まってしまったら、私はもう迷子ですらなくなってしまう」

昴さんは息を呑み、私の瞳をじっと見つめ返した。  やがて、彼は深く、長く息を吐き出した。その表情から、憑き物が落ちたように力が抜けていく。

「……そうですか。あなたはもう、出口を見つけてしまったんですね」

彼は寂しげに笑うと、私の前に置かれていた『ピンク・ムーン』のグラスを下げた。代わりに、小さな紙切れを一枚、カウンターに置く。  それは、この店のショップカードだった。

「行きなさい。……でも、覚えておいてください。星は巡るものです。もし外の世界で傷ついて、どうしても歩けなくなったら、その時はまた羽を休めに来ればいい。ここはいつでも、あなたの現在地を照らす灯台ですから」

それは、彼なりの精一杯の「さよなら」と「エール」だった。  独占するのではなく、送り出すことを選んでくれたのだ。

「ありがとうございます。昴さん、あなたのカクテル、世界一美味しかったです」

私は深く頭を下げた。  そして、隣で待っていてくれた梶谷さんの方を向いた。  彼は黙って、私の手を取った。大きく、温かく、少しゴツゴツした手。  その体温が、私に勇気をくれた。

「行こう、早瀬さん」 「……はい!」

私たちは重い木の扉を押した。  カラン、という鐘の音が、今までで一番高らかに響き渡った。  それは、私の長い雨宿りの終わりを告げる音だった。

外に出ると、雨は上がっていた。  湿ったアスファルトの匂いと、都会の排気ガスの匂い。  『Orbit』の中の整えられた香りとは違う、雑多で生々しい夜の空気を、私は胸いっぱいに吸い込んだ。

「……寒くない?」  梶谷さんが、心配そうに私の顔を覗き込む。 「少し寒いです。でも、すごく気持ちいい」

私は空を見上げた。  ビルの隙間から見える空は狭く、星なんて一つも見えない。  けれど、私の隣には、今一番確かな引力を持つ星がいる。

私は握られた手に、きゅっと力を込めて握り返した。  地図アプリは起動しない。  今夜は、この温もりだけを頼りに、どこまでも迷って歩いていける気がした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ