迷子のための星図(スターマップ)10
第十章 夜明け前の境界線
氷が溶けて崩れる、カランという音が、水底のような静寂を揺らした。
『Orbit』の空気は、今まで感じたことがないほど張り詰めていた。 右には、熱を持った瞳で「日傘になる」と告げた梶谷さん。 前には、冷ややかな美貌で「箱庭で守る」と微笑む昴さん。
私はその狭間で、身動きが取れなくなっていた。 二人の言葉は、どちらも魅力的で、どちらも私の弱さを的確に突いていたからだ。 傷つくことを恐れる私は、昴さんの差し出す永遠の安らぎに惹かれている。 変わりたいと願う私は、梶谷さんの指差す眩しい世界に憧れている。
「……千尋さん」
沈黙を破ったのは、昴さんだった。 彼はカウンターに肘をつき、私の顔を覗き込むようにして囁いた。
「思い出してください。あなたが初めてここに来た夜のことを。雨に濡れて、靴擦れで足が痛くて、どこにも行けずに震えていたでしょう?」 「……はい」 「外の世界は、あなたには冷たすぎる。効率と正解だけを求める社会は、あなたのその繊細な『迷い』を許してはくれない。……でも、私なら許せます。あなたの弱さを、美しいものとして愛でることができる」
昴さんの指先が、私の頬にかかった髪をそっと払った。その冷たい感触に、ゾクリと背筋が震える。 それは甘美な麻薬のようだった。「頑張らなくていい」「そのままでいい」。その言葉に身を委ねてしまえば、どんなに楽だろう。
「おい」 低い声が割り込んだ。 梶谷さんが、昴さんの手を私の頬から引き剥がすように遮った。強く握られた拳が、カウンターの上で震えている。
「あんたの言ってることは、優しさじゃない。ただの標本作りだ」 「標本?」 「彼女を『迷子』という枠に閉じ込めて、変わらない姿のままピンで留めて眺めていたいだけだろ。それは愛でるんじゃなくて、殺してるのと同じだ」
梶谷さんの言葉に、昴さんの目がスッと細められた。店内の温度が一気に数度下がったような殺気が走る。
「……野暮なカメラマンですね。彼女は『変わること』に傷ついているんですよ。貴方のような強い人間には分からないでしょうが」 「分かるよ。俺だって、傷つくのが怖くてファインダーの裏に隠れてたからな」
梶谷さんは私に向き直った。 その瞳には、今まで見たことのない弱さと、それを上回る決意が宿っていた。
「早瀬さん。俺は、君を守るシェルターにはなれないかもしれない。雨が降れば一緒に濡れるし、道に迷ったら一緒に途方に暮れると思う」
彼は不器用に笑った。 「でも、君が『寒い』と言ったらコートを貸すことはできる。君が『疲れた』と言ったら、休めるベンチを探すことはできる。……俺は、君をガラスケースに入れて眺めるんじゃなくて、泥だらけになってもいいから、隣で手をつないで歩きたいんだ」
――隣で、手をつないで。
その言葉が、私の胸の奥でカチリと音を立てた。 そうだ。私は、梨花が羨ましかった。 彼女のように完璧になりたかったわけじゃない。彼女が自分の足で歩き、選び、時には転びながら進んでいく、その「生身の温度」が羨ましかったのだ。
昴さんの箱庭は美しい。けれど、そこには「時間」が流れていない。 私はポケットの中の金平糖を強く握りしめた。ゴツゴツとした痛み。それが、私の「現在地」だ。
「……昴さん」 私は震える声で、けれどはっきりと名前を呼んだ。
「私、やっぱり行きます」 「……火傷しますよ?」 「はい。火傷しても、転んで怪我をしても……私は自分の足で、外の空気を吸いたいです」
私は顔を上げた。 「ここで雨宿りしている間、私は守られていました。でも、『迷子』であることは、『どこかへ向かおうとしている』ことでもあるんです。……止まってしまったら、私はもう迷子ですらなくなってしまう」
昴さんは息を呑み、私の瞳をじっと見つめ返した。 やがて、彼は深く、長く息を吐き出した。その表情から、憑き物が落ちたように力が抜けていく。
「……そうですか。あなたはもう、出口を見つけてしまったんですね」
彼は寂しげに笑うと、私の前に置かれていた『ピンク・ムーン』のグラスを下げた。代わりに、小さな紙切れを一枚、カウンターに置く。 それは、この店のショップカードだった。
「行きなさい。……でも、覚えておいてください。星は巡るものです。もし外の世界で傷ついて、どうしても歩けなくなったら、その時はまた羽を休めに来ればいい。ここはいつでも、あなたの現在地を照らす灯台ですから」
それは、彼なりの精一杯の「さよなら」と「エール」だった。 独占するのではなく、送り出すことを選んでくれたのだ。
「ありがとうございます。昴さん、あなたのカクテル、世界一美味しかったです」
私は深く頭を下げた。 そして、隣で待っていてくれた梶谷さんの方を向いた。 彼は黙って、私の手を取った。大きく、温かく、少しゴツゴツした手。 その体温が、私に勇気をくれた。
「行こう、早瀬さん」 「……はい!」
私たちは重い木の扉を押した。 カラン、という鐘の音が、今までで一番高らかに響き渡った。 それは、私の長い雨宿りの終わりを告げる音だった。
外に出ると、雨は上がっていた。 湿ったアスファルトの匂いと、都会の排気ガスの匂い。 『Orbit』の中の整えられた香りとは違う、雑多で生々しい夜の空気を、私は胸いっぱいに吸い込んだ。
「……寒くない?」 梶谷さんが、心配そうに私の顔を覗き込む。 「少し寒いです。でも、すごく気持ちいい」
私は空を見上げた。 ビルの隙間から見える空は狭く、星なんて一つも見えない。 けれど、私の隣には、今一番確かな引力を持つ星がいる。
私は握られた手に、きゅっと力を込めて握り返した。 地図アプリは起動しない。 今夜は、この温もりだけを頼りに、どこまでも迷って歩いていける気がした。




