迷子のための星図(スターマップ)
第一章 星のない夜のコンパス
スマートフォンの中で、青い点がくるくると頼りなげに回っている。 画面上の地図は北を指しているはずなのに、私の目の前には見覚えのない巨大な家電量販店のネオンが瞬いていた。目的地のイタリアンレストランは「駅徒歩三分」と書いてあったはずだ。改札を出てから既に二十分が経過している。
「……おかしい」
呟いた声は、金曜夜の新宿の喧騒にあっけなく吸い込まれた。 私は旅行代理店『トラベル・ゲート』に勤める二十七歳、早瀬千尋。職業柄、土地勘や地理に明るいと思われがちだが、実態はこれだ。地図アプリのナビゲーション機能を使ってもなお、私は今、自分が東西南北のどこにいるのかすら把握できていない。
右足のヒールが靴擦れを起こし始めていた。痛む足を庇いながら、もう一度画面を睨む。現在地を示す青い点は、まるで意思を持った生き物のように、道なき道を浮遊している。 GPSの不具合か、私の脳内コンパスの故障か。答えは明白だった。私はいつだって、正しいルートを選べない。
その時、手の中でスマホが震えた。画面に『梨花』の文字が浮かぶ。 私は小さく息を吐いてから、努めて明るい声を作って通話ボタンを押した。
「もしもし、梨花? ごめん、あと少しで着くから」 『千尋、今どこ? もしかしてまた東口と西口間違えてない?』
電話の向こうから聞こえる声は、呆れを含んでいるものの、どこまでもクリアで雑音がない。彼女はすでにレストランの静かな個室に座り、食前酒でも傾けているのだろう。
「ううん、ちゃんと西口に出たはずなんだけど……なんか、大きな電気屋さんが見えてて」 『電気屋? ……千尋、それ南口じゃない?』 「え」 『もう、しょうがないなぁ。とりあえずそこで動かないで。迎えに行くから』 「ううん、悪いよ。戻るから」 『だーめ。千尋が「戻る」って言って戻れた試しがないでしょ。いいから待ってて』
通話が切れる。暗転した画面に、疲れ切った自分の顔が映り込んだ。 同期入社の篠原梨花。彼女は私とは正反対だ。入社式の日に最寄り駅から本社までの最短ルートを完璧に把握していた彼女は、仕事でもプライベートでも、常に「最短距離」をひた走っている。
五分もしないうちに、人混みを割って梨花が現れた。 流行のペールグリーンのワンピースを完璧に着こなし、髪の一筋まで計算されたような乱れなさ。彼女は私を見つけると、ふっと花が咲くような笑顔で手を振った。
「捕獲完了。ほら、行くよ」
私の腕を取るその手つきは、迷子の子供を扱う母親のように手慣れている。彼女に引かれるまま歩き出すと、驚くことに、私が迷い込んでいた路地からたった二回角を曲がっただけで、目的のイタリアンレストランの看板が現れた。
「……魔法みたい」 「魔法じゃないわよ、ただの地図。千尋の頭の中の地図、そろそろOSアップデートした方がいいんじゃない?」
梨花は悪戯っぽく笑い、重厚な木のドアを開けた。 店内に満ちるガーリックとバジルの香り。案内された奥の個室には、すでに冷えた白ワインのボトルが用意されていた。
「それで? 今日はまた一段と憔悴してるみたいだけど、仕事でなんかあった?」
乾杯もそこそこに、梨花が切り出す。彼女の洞察力は、私の方向音痴と同じくらい正確だ。私はグラスの結露を指でなぞりながら、今日一番の失敗を白状した。
「……お客様の手配、ミスしちゃって」 「手配ミス?」 「京都の『花見小路』にある旅館を希望されてたのに、間違えて似た名前の別の旅館を予約しちゃってて……。当日にお客様から電話が来て発覚したの。なんとか振替できたけど、上司にはこっぴどく叱られたし、お客様の貴重な時間を奪っちゃった」
旅行代理店の社員としてあるまじきミスだ。地名や位置関係の把握が苦手な私が、なぜこの職を選んでしまったのか。それは単に「旅行が好き」という漠然とした憧れからだったけれど、好きであることと適性は別物だと、入社五年目にして痛感する日々だ。
「まあ、千尋らしいと言えばらしいけど」 梨花はパテをクラッカーに載せながら、さらりと言った。 「私なら、予約システムに入力する前にダブルチェックを入れるフローを組むかな。そもそも、その旅館のリスト、使いにくくない? 私ならエリア別にソートし直すけど」
彼女の言葉は、いつだって正論だ。ぐうの音も出ないほど正しい。 梨花は入社三年目でチームリーダーに抜擢され、来期からはさらに大きなプロジェクトを任されるという噂だ。彼女の人生には「迷い」や「無駄」がない。目的地を設定したら、そこへ至る最短かつ最適なルートを瞬時に弾き出し、軽やかに駆け抜けていく。
「でね、私の話も聞いてくれる?」
梨花が声を弾ませ、左手の薬指を私の目の前にかざした。 そこには、小ぶりだが質の良さそうなダイヤモンドが、店内の間接照明を受けて煌めいていた。
「え……嘘、まさか」 「直樹さんにプロポーズされたの。来年の春、挙式予定」
直樹さん。大手商社に勤める、これまた非の打ち所のない好青年だ。付き合って二年、同棲して一年。梨花が以前話していた「二十七歳で婚約、二十八歳で結婚」というライフプラン通りの展開。
「おめでとう、梨花! すごい、本当に計画通りだね」
心からの祝福だった。けれど、その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かがきしむ音がした。 彼女の指輪の輝きが、私の薄暗い現状を照らし出す。 私はどうだ。仕事では初歩的なミスを繰り返し、プライベートでは三ヶ月前に「君といると、なんだか疲れる」という曖昧な理由で彼氏に振られたばかり。 人生の地図を持たない私は、いつも同じ場所をぐるぐると回っている気がする。
「ありがとう。式場もね、もう三つに絞ってあるの。来週ブライダルフェアに行って決めるつもり。新居も、今のマンションの更新時期に合わせて引っ越せるようにリサーチ済みだし」
梨花はスマートフォンを取り出し、完璧にスケジュールされたカレンダーアプリを私に見せた。色分けされた予定は、美しいモザイク画のようだ。 そこには「迷子」になる隙間など、一ミリたりとも存在しない。
「千尋もさ、もう少し効率的に生きなよ。人生って意外と短いんだから、迷ってる時間がもったいないよ」
ワインを含んだ梨花の唇が、艶やかに笑う。 その言葉は、私の胸に刺さっていた小さな棘を、さらに深く押し込んだ。
店を出たのは二十二時を過ぎた頃だった。 梨花は迎えに来た直樹さんの車に乗り込み、幸せそうな笑顔を残して去っていった。「送っていくよ」と言われたけれど、これ以上二人の完璧な世界を見せつけられるのが辛くて、私は「すぐそこが駅だから」と嘘をついて断った。
本当は、駅がどっちかもよくわかっていないのに。
夜風が湿り気を帯びてきた。雨の匂いがする。 私はトレンチコートの襟を立て、とりあえず人波の流れに逆らうように歩き出した。 駅へ向かうはずの足は、なぜか騒がしい大通りを避け、路地裏の雑踏へと向かっていた。明るすぎるネオンも、幸せそうなカップルたちの笑い声も、今の私にはノイズでしかない。
静かな場所に行きたい。 自分の不甲斐なさを突きつけられない、どこか遠くへ。
ふと、ポケットの中でスマホの画面を確認しようとしたが、反応がない。 充電切れだ。 私の唯一の命綱である地図アプリが、このタイミングで沈黙した。
「……最悪」
小さな溜息が漏れる。 これこそが私の人生だ。肝心な時に準備不足で、詰めの甘さが露呈する。 ここがどこなのか、駅がどっちなのか、完全にわからなくなった。周囲を見渡せば、シャッターの閉まった商店や、古びた雑居ビルが立ち並ぶ、見知らぬ裏通り。新宿にこんな寂れた場所があったなんて知らなかった。
ぽつり、と頬に冷たいものが当たった。 雨だ。それも、あっという間に本降りになりそうな気配。 私は慌てて雨宿りできる場所を探した。軒先が深そうなビルを見つけ、駆け込む。
そこは、レンガ造りの古めかしい建物の入り口だった。 一階には看板らしきものはなく、ただ重厚な木の扉があるだけ。いや、よく見ると扉の横に、真鍮製の小さなプレートが掲げられている。
『Stargazer's Lounge Orbit』
オービット。軌道。 バーだろうか。扉の隙間からは、微かに温かい光が漏れている。 普段の私なら、こんな隠れ家のような店に一人で入る勇気なんてない。けれど、雨足は強くなる一方で、靴擦れした足は限界を訴えていた。それに、今の私は「迷子」だ。どうせ迷っているなら、どこに行き着いても同じではないかという、自暴自棄に近い開き直りがあった。
私は意を決して、重いドアノブに手をかけた。 カウベルのような、しかしもっと深く澄んだ音がカランと鳴り響く。
店内に入った瞬間、鼻腔をくすぐったのは、古い紙の匂いと、深煎りのコーヒーの香り。そして微かなアルコールと紫煙。 外の雨音が嘘のように遮断された静寂の中に、ジャズともクラシックともつかない、ピアノの旋律が静かに流れている。
「いらっしゃいませ」
低く、落ち着いた声がした。 カウンターの向こうに立っていたのは、一人の男性だった。 白いシャツに、ダークネイビーのベスト。年齢は三十代半ばくらいだろうか。整った顔立ちをしているが、どこか浮世離れした雰囲気を纏っている。手にはシェイカーではなく、なぜか分厚い洋書が握られていた。
店の中を見渡して、私は息を呑んだ。 天井だ。 高い天井一面に、無数の星が描かれている。ただのペンキ絵ではない。小さなライトが埋め込まれているのか、あるいは特殊な投影機を使っているのか、それらは本物の夜空のように瞬き、緩やかに回転しているようにさえ見えた。 壁には古地図や六分儀、天球儀といったアンティークな品々が並び、ここはバーというよりも、古い天文台の書庫のようだった。
「あの、すみません。雨宿りをさせていただきたくて……」
濡れた肩を縮こまらせて言うと、男は静かに本を閉じ、カウンターの端の席を手で示した。
「どうぞ。ここは、逃げ込んできた人のための場所ですから」
不思議な言い回しだった。 私はおずおずとハイチェアに腰を下ろした。 店内に客は私一人。カウンターの中の彼――マスターは、温かいおしぼりと、水の入ったグラスを差し出した。
「メニューはありません。今の気分や、求めているものをおっしゃっていただければ、それに合ったものをお作りします。アルコールは大丈夫ですか?」 「あ、はい。……弱くはないです」
求めているもの。 梨花ならきっと、「すっきりとした辛口のシャルドネ」とか「明日からの英気を養えるカクテル」と即答するだろう。 でも、今の私は何が欲しいのだろう。 自分がどこにいるのかも、どこへ行きたいのかもわからない。ただ、足が痛くて、心が寒くて、自分が情けないだけ。
「……自分が、どこにいるのかわからなくなるような、そんな味のお酒はありますか?」
口をついて出たのは、そんな突拍子もないオーダーだった。 言った後で恥ずかしくなり、顔が熱くなる。なんて面倒な客だと思われただろうか。 しかし、マスターは驚く様子もなく、むしろ僅かに口元を緩めたように見えた。
「迷子になりたい、ということですか?」 「……いえ、もう迷子なんです。ずっと」
私は俯いて、カウンターの木目を指でなぞった。
「駅までの道もわからないし、仕事も失敗ばかりだし、友達みたいに人生の地図も持ってない。最短距離を行くのが正しいってわかってるのに、いつも道を間違えて、遠回りばかりして……。だから、いっそ、自分がどこにいるのかさえ忘れてしまいたい」
初対面の相手に、何を愚痴っているのだろう。アルコールが入っていたせいかもしれない。あるいは、この店の持つ浮遊感が、私の心の堰を切ってしまったのかもしれない。
マスターは何も言わず、バックバーに並ぶボトルの一本を手に取った。 深い青色のボトル。彼は手際よく氷をグラスに入れ、その青い液体と、いくつかのリキュールを注ぎ、静かにステアする。その所作は、まるで星の運行を調整する天文学者のように繊細で、正確だった。
コト、と目の前に置かれたのは、夜空をそのまま切り取ったような、深い群青色のカクテルだった。グラスの縁には、星屑のように細かな金箔が散らされている。
「これは?」 「『ポラリス・ネブラ』。当店オリジナルのカクテルです」
彼はカウンターに肘をつき、穏やかな瞳で私を見た。
「お客様、あなたは最短距離が正しいとおっしゃいましたが、本当にそうでしょうか」 「え?」 「星の光は、何万光年、何億光年という途方もない距離と時間をかけて、寄り道をしながら地球に届きます。もし光が最短距離でしか届かないとしたら、私たちは夜空のほとんどを見ることができないでしょう」
彼は天井の星空を見上げた。
「宇宙には、直線なんて存在しません。すべての星は、重力に引かれ、歪められ、回り道をしながら軌道を描いています。でも、だからこそ衝突せずに、美しい調和を保っていられる」
私はグラスに口をつけた。 冷たくて、甘くて、でも奥底にピリッとしたスパイスの香りを感じる。複雑で、深みのある味。喉を通ると、冷えていた体の芯がぽっと温かくなった。
「迷うことは、悪いことじゃありませんよ。迷った人にしか見つけられない星もある。……ここは、そういう人たちが羽を休めるための『止まり木』ですから」
迷った人にしか見つけられない星。 その言葉が、アルコールと共にじんわりと胸に染み渡っていく。 梨花の言っていた「無駄な時間」を、この人は「星の軌道」だと言ってくれた。
「……美味しいです」 「それはよかった」
マスターは初めて、ちゃんとした笑顔を見せた。それは夜空の三日月のように控えめで、優しい光を帯びていた。
「私は昴と言います。この店の店主です」 「私は……千尋です。早瀬千尋」 「千尋さん。いいお名前ですね。千の道を尋ねる、と書くのでしょうか」 「……はい、そうです。数字の千に、尋ねるという字で千尋」
自分の名前の漢字をそう説明されたのは初めてだった。 いつもは「『千と千尋』の千尋です」と説明するのが一番手っ取り早かったけれど、彼にかかると、私の名前はずいぶんと探求的な響きを帯びる。
「でも、名前負けです。私、道は尋ねてばかりで、全然前に進めないんです」 「いいえ。尋ねるということは、進もうとしている証拠ですから」
昴さんは静かに肯定した。 自嘲気味に笑った私の頬に、彼の言葉が温かく触れる。
「なるほど。では、その広い世界を、存分に迷ってみるのも悪くないかもしれませんね」
雨音はいつの間にか遠のいていた。 充電の切れたスマホは、もう気にならなかった。 この「オービット」という店が、新宿のどこにあるのか、明日はたどり着けるのか、それすらもわからない。 けれど、私は今夜初めて、自分が「ここにいてもいい」と思えた。
星図のない航海に出た私の、これが最初の寄港地。 カクテルグラスの中で揺れる氷が、カランと小さな音を立てて、新たな物語の始まりを告げていた。




