40、聖騎士団長の帰還②
ラベンダー入りの小袋に亡霊が怯んだその隙に、ハワード卿はウォルター氏の腕を引いてシェーンの部屋の前まで逃げた。それから乗船前に決めておいた回数とリズムで、ドアをノックした。
すぐに、顔色の悪いシェーンが自らドアを開けて二人を迎え入れてくれた。
「済まない、シェーン殿」
「いえ、ロビン殿から話は聞きましたから」
ただでさえ儚げな美貌に不調の翳りが加わったシェーンの姿は、見る者によってはぞっとするほどの色気を感じさせる。ただ、ハワード卿にはシェーンの美貌に慄くような感性はなかったし、どうやらウォルター氏もハワード卿と同様であるらしかった。
「……厄介なことでしたね。破魔の力を持たず、特に身を守る手立てもないのに、水妖の魅了の力だけは漏れ出ているとは」
ハワード卿が持って来た林檎の果汁をちびちび飲みつつ、シェーンがウォルター氏を観察した結果が、その言葉だった。
「ハワード卿が目撃された亡霊は、この方の無自覚の魅了によって、行くべき処へ行くことが出来ないのではないかと。この方の魅了の強さは、おそらく触媒を用いても生者には効果があるまいという程度ですが、死者を惹きつけるには充分ですから」
彼はウォルター氏のロケットペンダントも見せてほしいと頼んだ。ウォルター氏がそれに快く応じると、シェーンはロケットペンダントを掌に乗せ、少し眼を眇めた。
「せっかくの銀がすっかり錆びて、魔除けの効果が落ちていますね。少し磨いて差し上げましょう」
シェーンがトランクから出したクロスで磨くと、ロケットペンダントは元の輝きを取り戻した。
「どうぞ、お返しいたします。これなら亡霊も半径二十フィート以内には近付いて来られないでしょう。ところで、錆が落ちたのでようやく読めるようになったのですが、ロケットの裏面に文字が彫られていますね」
シェーンからロケットを返されたウォルター氏は、慌ててロケットを裏返した。
「……F・J・ターナー。リディアとV・М……」
「Fというのが、本来のウォルター氏のお名前でしょうか?」
シェーンが首を傾げた時、ハワード卿の脳裏に閃くものがあった。
スカーレットタウンで出会った、モリーの祖父の親友アンダーソン氏。もし、彼の名前をもらったのだとしたら?
子どもの名前を付ける時に親友や親族の名前をもらうことはそれほど珍しくない。そう考えるとミドルネームのJも、モリーの祖父から名前をもらった可能性がある。
彼は独りごちるように、思い付いた名前を口にした。
「フレッド・ジェームズ」
「……フレッド・ジェームズ?」
ウォルター氏が、はっとしたようにハワード卿を見た。
「どうして君は、俺の名前を知っているんだ?」
* *
その夜、モリーは編み上がったマフラーを首に巻き、ベッキーの邸の客室の鏡の前に立って見た。
ハワード卿と揃いのマフラーは、モリーの金褐色の髪にもよく似合っているように見えた。マフラーの色は、ハワード卿の瞳を思わせる緑――。
彼女の頬が瞬く間に薔薇色に染まった。いつかの夢でのハワード卿との逢瀬を思い出したのだ。
不意に、彼女の肩に小さな重さが加わった。
「モリーちゃん、行方不明になったっていう親父さんの名前、教えてくれない?」
最近馴染んできたロビンの声が、耳元で早口にまくし立てたので、モリーはすっかり現実に引き戻されてしまった。
「どうしたの、ロビンさん?」
モリーが尋ねると、ロビンはもどかしげに首を振った。
「詳しいことは後で話すから、早く親父さんの名前を教えて!」
「フレッド・ジェームズ・ターナーよ、でも、二十年前に行方不明になった父のことを、どうして――?」
ロビンは可愛らしく首を傾げた。
「……あれ、十年前じゃなかったっけ?」
* *
トミーから、主要な廊下にメグが魔法障壁を張ったと知らされたハワード卿は、ウォルター氏改めフレッド・ジェームズ・ターナー氏を部屋まで送った。メグの魔法障壁は、メグが術の起点とするサロンから根のように細く主要な廊下に伸びていき、ターナー氏の部屋に届くとそこだけ部屋全体を包むように丸く膨らんだ。まるで地下茎の先で丸々と太ったイモのように。
これならば急な危険もあるまい。しかし念の為、ハワード卿は目には見えないロビンの分身をターナー氏の側に配置した。
ハワード卿が悪霊を消滅させる浄光灯を手に廊下を巡回していると、ロビンからモリーの父が行方不明になった時期について尋ねられた。
「二十年前で間違いない。彼女が九歳の時だったと記憶している」
「そっか。だけど、あのじいさん、嘘をついてるようには見えないんだよな。名前は、モリーちゃんの親父さんと同じだし、ロケットの女の子もモリーちゃんの可能性が高い。でも、それじゃ、いなくなった時期が合わない。……もしかして姿を消して最初の十年は他の場所にいたということか?」
ハワード卿は慎重に答えた。
「その可能性もあるが、私が危惧しているのは、ロイド教授から昔伺った事例と同じ状況なのではないかということだ」
「どの事例だっけ?」
「ピットヴァイパー男爵の犯罪だ」
ハワード卿が挙げた事例に、ロビンは呻き声とも返事ともつかない声を上げた。
その気分はハワード卿にもよくわかった。能力的には普通の生きた人間でしかなかったピットヴァイパー男爵でさえ、若い頃のヒルダとエズメの二人を散々手こずらせたのだ。
まして今回の相手は自らの妄執を力に変換することの出来る亡霊だ。しかも判断力は決して失っていないらしく、メグ、トミー、ハワード卿が少しでも近付くと、すぐに逃げてしまう。それも、メグの破魔の力や浄光灯の光が及ばないどこか。
――おそらく夜の海の、闇の中に。
* *
この世界には「海の女神の魔法」と呼ばれる魔法がある。それは、禁断の魔法の一つで、別名「他人の夫を奪う魔法」とも言われる。
神話の時代。ある海の女神の一柱が、長い戦いの旅から故郷に帰還する途中の英雄に恋をし、彼を自分の夫にしたいと強く望んだ。しかし当の英雄はその求愛を固く拒んだ。何故ならその英雄には最愛の妻と息子がおり、二人は故郷で英雄の帰りを待っているはずだったからだ。
海の女神はどうしても諦めきれず、その英雄に魔法をかけた。彼が故郷を、妻子をすっかり忘れ果て、自分だけを熱烈に愛するように――。
しかし、魔法が解けると、彼女の嬉しい恋の夢もすっかり破れてしまった。全てを思い出した英雄は、彼女に一切の未練を残すことなく去っていった。
女神自身はその悲しみに耐えきれずに自害したが、彼女の魔法は密かに受け継がれ、時折思い出したように、人々の運命を狂わせる。
* *
ヴィヴィアン・レイクは、とても不幸な女性だった。彼女は裕福な中流階級の娘だったが、若い頃に両親を相次いで亡くし、職業婦人として自立せざるを得なかった。
初恋も悲惨だった。街角で出会った恋人は、自分は聖騎士団員だと言った。男は悲劇の主人公のような顔をして「自分は明日をも知れぬ身だから」と、花婿気取りに振る舞うことを彼女に認めさせた。そして最後には言葉巧みに彼女の貯金を手にして姿を消した。
数ヶ月後。彼女は、恋人の顔写真が新聞に載っているのを見つけた。勇敢な聖騎士団員ではなく、これまでに複数の女性を騙して来た卑劣な結婚詐欺師として。
失意の中、近くの浜辺を彷徨っている時に出会った老婆は、どこか亡き母に似ていた。
その老婆が、ヴィヴィアンの才を見抜き、特別な魔法を教えてくれたのだ。
「良い魔法を教えてあげますよ。男の心を思い通りに出来る魔法をね」




