先生
従業員入口から店に入ると、香の強いランプ油と、酒や煙草の匂いが鼻をくすぐる。
私はいつも通り、奥の控室でメイクの最終チェックをして、鏡の前で一度だけ深呼吸をした。
ドレスの紐を結び直す。
髪を指で梳いて、顔回りの毛流れを整える。
笑顔を作って、脳内で直近の話題をいくつか思い浮かべておく。
「よし」
フロアに出ると、もうそこそこお客様が入っていて、店は程よくざわついていた。
賑やかすぎず、静かすぎず。
このくらいが一番、仕事がしやすい。
すれ違う従業員たちに挨拶をしながら、自然な笑顔のまま足を動かす。
自分のお客様を見つけたのでそのまま同席させてもらい、軽く会話をしながら場を見てバカラに参加する。
指名制度はあるけれど、元居た世界のキャバクラなんかと違ってマムが女の子を付けるのは団体客かVIPだけなので基本は自分から接客してお客様を捕まえなきゃいけない。
カジノ内で適当にお酒を持ちながら雑談して回ったり、ディーラーをしたりして指名の声がかかるのを待つ。
最近はもう、考えなくても体が覚えている。
その夜、マムに呼ばれたのは最近よく来てくれる騎士様が帰ったすぐ後だった。
「香奈、あんた奥の席に付きな」
奥――とびきりの上客か、少々癖のある客のどちらか。
一番奥の個室に居たのは、グレーの髪をした五十代半ばほどの男だった。
背筋は伸び、服は地味に見えるが上質で小物の品も良い。
笑みは柔らかいが、目だけがやけに鋭いのが気になった。
「初めまして。今日は君が付いてくれるのかな?」
声は穏やかで、低い。
「はい、香奈と申します。今夜はよろしくお願いいたします」
形式通りの挨拶をすると、男は楽しそうに目を細めた。
手の甲にキスをされ促されるままに上等なソファに座れば、そのすぐ横に男も座った。
一連の動作がスムーズで、こういった遊び場には相当慣れてそうだ。
「この店で一番綺麗な子を、と頼んだんだ。香奈ちゃんほどの美人さんが来るとは思わなかったけどね」
と言ってニコニコしている。この店では私は中の下くらいなのにこのおじさんだいぶ適当こいてんなーと思いながらこっちも適当に合わせて会話を広げる。
綺麗どころを頼まれてマムが私を一番に出すわけない。
小物のセンスを褒めたり軽い世間話をしていたら、向こうから普段の仕事の話が出た。
「私は――まあ、ただの学者だよ」
「学者様、ですか?」
「うん。魔術院で少しばかり偉い立場にいてね」
少しばかり、という言い方に、逆に余裕が伺える。
内心で探りつつ、表情は崩さない。
「難しい話は嫌われることが多くてね。だから、ここでは“ただの女好きのおじさん”で通している」
「ふふ、何それ」
男はうちの店で一番上等なワインを、嗅いでから一口含み、満足そうに頷いた。
グラスを置いた男は、ゆったりと背もたれに身を預けた。
「香奈ちゃんは、ここに来てどれくらいになる?」
「半年ほどになります」
「へえ。……もっと長くいるように見える」
これは誉め言葉?小慣れすぎって事?真意がいまいち分からない。
私は曖昧に笑って、ワインを飲む。
「手つきが落ち着いている。 視線も、言葉も、急がないけれど決してただ大人しいわけでも無い」
「仕事柄、ですかね」
「それだけじゃない」
男はグラスを回しながら、目線を合わせてくる。
「君は、よく人を見ている。 それができる子は、案外少ない」
「そう言われるのは初めてです」
「そうか。なら、私が最初だ。君の観察眼があれば、魔術師になったら大成するだろうね」
冗談めかして言うが、目の奥は冷めている。
あからさまに値踏みされているのが分かっても大していやな気はしなかった。
その後しばらくは他愛のない話をした。
好きな酒の話、ある法律家の失脚、伯爵の寵愛を受ける謎の多い新妻の噂。
こちらが探らなくても、向こうから少しずつ話題を投げてくれてとても話しやすい。
「そうだ」
ふと思い出したように声を出し、わざとらしくない程度に首を傾げる。
「今更ですが……なんとお呼びすればいいですか?」
男は一瞬だけ考え答える。
「ここではあまり、名前で呼ばれたくないかな」
「では、おじ様?」
「それは勘弁してほしい」
「学者様?」
「堅すぎる」
少し考えてから、男は肩をすくめた。
「……そうだな。 “先生”でいい。昔から、そう呼ばれてきた」
「先生、ですね」
口に出してみると、しっくりくる。
「うん。悪くない」
それから少しして、男は懐中時計に目を落とした。
「もう一時間か。楽しいと時間が早い」
「もうお帰りですか?」
「ああ。長居はしない主義でね、とくに初めて会った日は」
立ち上がると、テーブルに小さな袋を置く。
「今日はありがとう。 楽しい夜だった」
「こちらこそ、ありがとうございました」
袋の中身を確認しなくても分かる。
相場より明らかに多い。
「また来るね、香奈ちゃん」
それだけ言って、先生はあっさりと店を出て行った。
――気に入られた、と思う。なんでかは分からないけれど。
VIPルームを出てフロアに戻ると、視界の端でエミルの姿が見えた。
よくいる席。いつもの笑顔。
でも、グラスを持つ手は少し震えていた。
「……エミル?」
顔見知りのお客様だったので、挨拶がてら近づいて行って小声で声をかけると一瞬だけ顔色を曇らせてから、すぐに笑って同じく小声で返してくる。
「なに?香奈」
「ちょっと飲みすぎじゃない?」
「平気平気。今日、飲ませてくる方が続いてたのよ」
そう言っている間にも、横のお客様に勧められてだいぶ強めの酒を口に運ぼうとする。
――だめだ、これ。
「この席、混ざってもいいですか?なんだか今夜は飲み足りなくって」
上座に向かってそう声をかけると、エミルは何か言いたそうな顔をしたがお客様は気前よく頷いた。
「香奈ちゃんなら大歓迎だ!どんどん好きなの飲んでいいぞ」
「ありがとうございます。失礼します」
自然に彼女のグラスを手に持ち、代わりに自分の持っていたノンアルを置いてエミルから1番遠い席に向かう。
「香奈、早速一杯いただきまーす!」
このテーブルについているお客様全員によく見えるように、お酒を掲げてから一気に煽った。
流石に度数が強い。でもさっきまでは殆ど飲んでなかったおかげもあり、お店が閉まるまではなんとか持ちそうだ。
これであとは適度にゲームに負けておけば標的は私に向くはず。
「ありがと」
口の動きだけでそう伝えてきたエミルの笑顔は、いつもより少しだけ弱々しかった。
……でも、不思議だった。
いつもの彼女ならこの程度の酒、顔色ひとつ変えずに笑って飲み干す。
最近風邪気味だったせいだろう。明日のランチは行かないことにして館内でゆっくりさせよう。
私は順調に強いカードを捨て、弱い手札を作っていく。ほどほどの塩梅で負け役を引き受け、場の視線を自分に集める。
エミルはいつも通り笑っていたが、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
ランプの光に照らされてグラスの氷が解け、水面を揺らす。
笑い声と、社交場の匂いと、夜の熱。
この店の女の子たちは誰もが少しずつ無理をして笑っている。
それはとても当たり前で、特別なことじゃない。
そうやって、私はまたひとつ見ないふりを覚えたまま夜の続きを演じる。
この店の夜は、まだ終わらない。
◇ ◇ ◇
先生は週一くらいのペースで店に来た。
必ず奥の席を指定し、指名してくれる。私がエミルと仲良いことを知ってからは、二人纏めて席に呼んでくれることもあった。
相変わらず長居はしないけれど、話す内容は少しずつ深く難しくなっていった。
政治の裏話。王城内の派閥。古魔導理論の新説。
私は聞き役に徹し、時々相槌を打ち、先生の話が終わってから感想と分からない箇所について質問する。
どんなに噛み砕いて説明してくれても、難しすぎて多分半分も理解できていない。
初めて聞くことばっかで頭パンクしそうだし貴族の名前とか出されるともう無理。
まるで授業みたいだったけれど、先生はそれを心地よく思っているらしかった。
そして何度か――
店の後、アフターとして魔術院に招かれるようになった。
王城のすぐ近くに建つ、白い石造りの建物。
夜は人通りも少なく街の喧騒が嘘みたいに遠い。
研究棟の奥にある私室は、たまにしか使わないという割には生活感に溢れていて、大量の本と書類と飲みかけの薬草酒が無造作に置かれていた。
そういう場所で数回、大人の関係を持った。
情熱的というよりは、静かで、淡々としていて、終わった後はカモミールティーを淹れてくれて、他愛のない話をして眠る。
◇ ◇ ◇
その日も同じだった。
薄いカーテン越しに朝の光が差し込み、私は先生の部屋で身支度を整えていた。
お出かけ用のドレスの皺を出来るだけ伸ばし、髪をまとめ直す。
「おや、もうそんな時間か」
「うん。今日はお昼にエミルとご飯を食べて買い物行く約束してるから」
先生はぬるくなった珈琲を置き、コートに袖を通しながら穏やかに頷いた。
「楽しんできなさい。本当に君たちは仲が良いね」
「よく言われます」
軽く笑って、一緒に部屋を出る。
そのときだった。
「……院長?」
廊下の先から驚いたような声がした。
振り返ると、魔術院のローブを着た若い男が立っていた。
書類を抱えたままこちらを見て固まっている。
一瞬、空気が止まる。
「あ、いや……失礼しました」
男は慌てて視線を逸らし、咳払いをした。
「お迎えに来たのですが……その、もう起きていらっしゃったとは」
「ご苦労さま」
先生は何事もなかったように答える。
男は私の方をちらりと見て、少し気まずそうに言った。
「……あの。そちらの方は」
「知人だ」
それ以上は言わない。
でも、男はどこか興味深そうに私を見てから、ぽつりと言った。
「院長、この方は魔術は学ばれないのですか」
男は続ける。
「これだけ魔力はあるのに、流れが安定していません」
魔力がある、その言葉に思わず先生を見上げる。この世界では大多数の人間には魔力は無いはずだ。
先生はほんの一瞬だけ目を細めた。
「……気づいたか。」
「え?」
「いや。何でもない。」
男は深く突っ込むことなく、「では、先に第三会議室に向かっていますね」と言って先に行った。
残された廊下で、私はしばらく立ち尽くす。
「……今の、どういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ」
先生は私を見下ろした。
「君には、魔術の素養がある」
「冗談でしょ」
「冗談ならこんなことは言わない」
胸の奥が、少しだけざわつく。
魔術。
この世界で生きていく上で、確かな力。
魔術が使えるようになれば、冒険者ができるかもしれないし王城......は派閥争いが激しそうだからちょっと嫌だけど、魔術院とか伯爵様のとこで雇ってもらえるかもしれない。
私は一度、息を整えてから言った。
「……教えてください。魔術。ちゃんと頑張って覚えるしお礼も何か考えるので、お願いします」
先生は、しばらく私を見つめてから、静かに笑った。
「面白いことを言うね、香奈ちゃん」
その笑みは、いつもの女好きのおじさんのものではなく、
魔術院の院長としての――
抜け目ない、研究者の目だった。
「後悔しても、知らないよ?」
「それでも」
はっきりと頷く。
私以外の四人は、皆それぞれの道を決めて進んでいった。
ずっと立ち止まっていた私も、ようやく進む先を見つけた気がした。




