透き通った過ち
「っはぁー。あっつい…。」
床掃除を終えて一休みしようと、ラベルレスの炭酸水を冷蔵庫から取り出し、キッチンカウンターに置いた私は、夏期休業に入った夫の健一と、夏休みに入った息子の悠太のいるリビングに目をやった。
「これなんて読むんだ?て、てん…、てんと?」
「テンスだよ父ちゃん。『10日』って意味だよ。」
「テンスって読むのかよ?英語読めるなんて、悠太すげーな!」
今年で小学校3年生になった悠太は、授業の一環である『外国語活動』が大層気に入ったようで、買ってあげた英語問題集も2冊目に突入している。
そんな賑やかな様子にホッとした私は、茹だるような暑さも相まってか、せっかくカウンターに置いた炭酸水を飲むのを忘れ、換気扇を回してシンク周りの消毒に戻った。
手にしたのは、漂白剤を希釈した液体が詰まったスプレーボトルと、マイクロファイバークロス。クロスに液体を噴霧し、掃除がてら気になるところを拭いていく。
「麻美、ちょっと休んだらどうだ?エアコンも調子悪いんだから、ゆっくりしよーぜ?」
忙しなく動き回る私を見かねてなのか、健一が声をかけてきた。確かにエアコンは10年目を迎えたあたりから調子が悪く、今季になって目に見えて冷房能力が落ちている。気になって知り合いの業者に見てもらい、買い替えすることになったが、夏真っ盛りということもあってか秋まで予約の空きがないそうだ。“秋”だけに。
でも、なんだろうなぁ。ここで健一の意見を聞いたら、なんか負けた気がする。
『ケンちゃんも掃除とか家事を手伝ってよ!』
と、一悶着起きそうなセリフが出そうになるが、ここはぐっと堪える。健一は仕事はできるが、家事をやらせると手間が増えるのだ。
具体的には、『洗剤と間違えて柔軟剤を入れる』とか、『空き缶を可燃ゴミで出そうとする』とか、挙げだすときりがない。同棲していた頃から家事に関してはポンコツだったなと思い出して、少し笑いそうになる。
「大丈夫だよ。あと少しで終わるから。」
情けない顔をして謝る若い頃の健一の表情を思い出した私は、にこやかに健一の誘いを断った。
今思えば、ここで休んでおけばよかったと後悔している。
「あれっ?壊れた?」
誘いを断った直後に、スプレーの出が急に悪くなったかと思うと、トリガーが全然戻らなくなってしまった。
台所のシンクへと慌てて向かった私は、スプレーヘッドをボトルから引き抜き、零さないように栓をしたボトルをキッチンカウンターに置いて、トリガーがしっかり動くか素人ながら具合をみてみた。
故障したスプレーヘッドは、数日前にホームセンターで購入した『ペットボトルの空き容器に付けるタイプ』である。ネット通販でペットボトル飲料を箱買いしている我が家としては、空き容器を上手く活用できると思っていたのだが、やはり安物買いの銭失いだったようだ。
スプレーヘッドが壊れたことで、やる気を無くした私は、健一の言う通り寛ぐ事にした。
ちょうど冷凍庫には10時のおやつに家族で食べようと考えていたカップアイスと、昨日作っておいた麦茶があったので、少し早いけど皆で味わおうではないか。
その前に、少しお手洗いに行こう。私は、キッチンカウンターに置いたボトル達の事をすっかり忘れて、トイレに向かった。
「おいおい、台所にペットボトルの水が置きっぱなしだったぞ。冷蔵庫に入れといたけど、夏場はマジ危ないから気をつけろよな。」
トイレからキッチンへと戻ってくると、少し真剣な表情をした健一に注意された。確かに私は炭酸水を出しっぱなしにしたけど、たかが数分くらいじゃないの。
『そんなに言わなくてもいいじゃん。』
またしても、昔の私なら確実に発言して場の空気をピリつかせていたであろうセリフを、また飲み込んだ。健一は、私のために注意喚起をしてくれたのだ。というのも先日、持参したお弁当を職場の冷蔵庫にいれずに常夏の更衣室に放置したことがあったのだ。
「嫁の弁当を捨てるなんてとんでもない!」という気持ちで完食してしまった健一は、無事に腹を壊して午後はトイレでリモートワークをしていたという笑い話を、同僚の奥さんから聞かされた。本人は、格好つけて私に何も言わなかったが、その事もあってなのか最近は食品の保存環境に少しうるさい。
「ケンちゃんごめんね。次から気をつけるね。」
私は素直に謝りながら、キッチンカウンターの上に置かれた塩素系漂白剤を横目に、冷蔵庫の中にあった炭酸水を一気に煽って――、盛大に噴き出した。
手から滑り落ち、内容物を撒き散らしながら床で跳ねたペットボトルが、今まさに起きたばかりの非常事態を彩る。
煽った勢いが凄まじくて、水を吐き出したわけではない。
想像していた水とは全く違う味、そして刺激が食道を刺激した、無条件反射だった。
口腔内が妙に泡立ち、薬品のような刺激臭と粘膜に刺さるような痛みが鼻腔を埋め尽くし、異物と判断した身体が飲み込んだものを吐き出そうと胃を収縮させる。麻美はたまらず首を押さえ咳き込んだかと思うと、その場で蹲りながら嘔吐した。
朝食と混ざり合った嘔吐物が視界に入った私は、ここで己の過ちに気がついた。私が飲み込んだ物は、炭酸水ではなく“塩素系漂白剤”であったのだと。そして同時に、キッチンカウンターに堂々と鎮座する透明なボトルの中身は、漂白剤ではなく“炭酸水”であることも。
「大丈夫かー?なんか傷んでいたのか?」
そこに健一が呑気な顔をして現れたが、事の重大さを全く把握していないのだろう。健一は昔から鈍感である。
それよりも、粘膜保護や中和の為に水か牛乳をすぐ飲む必要があると考えた私は、咳き込みながらも立ち上がって冷蔵庫の戸を開け放った。ドアポケット、冷蔵室を目玉だけを動かして見渡すが、無い。
そういえば昨日、帰宅中の健一に牛乳を頼んだのに、自分のビールだけ買って帰ってきたんだっけ。健一は昔から私の頼み事や、約束を守ってくれたことがない。
初めてのデートの時も、5時間も遅刻してやってきたっけ。当時の私は気合を入れてお洒落をしてしてきたのに、ヨレヨレのTシャツにボサボサの髪の毛で、「オイッス」と迎えに来た健一の鳩尾にパンチを入れたことは、今でも覚えている。
しかしながら、こんな健一に好意を持ったきっかけが思い出せない。私が大学生の頃には付き合っていたし、高校生の頃に一緒に花火大会にも行ったのは覚えているが、昔からの幼馴染みだったこともあって忘れてしまっているようだ。
『大丈夫だよ。こんなのすぐに治るって。』
今、思い出した。あれは小学校2年生の夏だった。乗れるようになった自転車で派手に転んで、膝頭から血を流しながら泣いていたら、健一が家から出てきて声をかけてくれたんだっけ。健一の家の近くだったから、わざわざ救急箱持ってきてサッと手当してくれたんだよね。あの時から、私は健一が時折みせる信頼できる優しさに惚れたのだと思う。昔からピンチの時“だけ”頼りになる漢だったし。
『大丈夫?水、持ってきたから飲んで。』
そういえば当時の私は、目の前に差し出されたコップ一杯の水を受け取って、口から零れるのを気にもとめずに食道へと流し込んで――、あれ?健一が水なんか出してくれたっけ?あの時は「コーラ飲むか?飲みかけだけど。」って、気の抜けたぬるいコーラをくれたんだっけ。
おかしいな。記憶違いかな。
「ダメだ咳き込んでる…。父ちゃん!救急車を呼んで!」
「お、おう!分かった!あれ!?スマホどこだ!?」
「母さんのスマホあるよ!『緊急通報』を押して119番ッ!」
またしても飲み込んだ漂白剤を床に吐き出し、咳き込む度に皮が剥けたような痛みが喉を撫でる。陽炎が立つ様にぼやけた視界の中で、聞き覚えのある二人の声が遠くに聞こえている。瞬きを数回繰り返すと、私のぼやけた視界は、周りで慌ただしく動き回る人影を映していた。
「ストレッチャー乗せるよー。いち、にの、さんっ!」
「大丈夫ですかー?もうすぐですよー?」
「麻美ッ!大丈夫か!?」
「お母さん!もうすぐ着くよ!」
救急隊員と家族の声が、いつまでも耳に残っていた。
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「んじゃ、いただきまーす!」
「いただきまーす!」
「んっ、いただきます。」
あれから2週間が経った。幸いにも誤飲した量が少なく、更に水で多少希釈していたこともあり1週間程度の入院で済んだが、まだ喉の奥がヒリヒリとしている。
誤飲した原因は、当たり前だが私がペットボトルに希釈した漂白剤を入れていていた事だ。しかも零さないようにとペットボトルのキャップまでしたので、一見すると炭酸水と見分けが全く付かなくなっていたのも要因の一つだろう。
その後、健一が取り違えて冷蔵庫に漂白剤を入れてしまった事を謝罪してきたが、健一は全く悪くない。私の自業自得である。むしろ、家族に迷惑をかけたので私が健一と悠太に謝ったが、二人とも「無事で本当によかった」と、わんわんと泣き出して余計に申し訳なく思って私も泣いてしまった。
流石に白昼に救急車が駆けつけたのは近所でも話題になってしまったらしく、健一と悠太に加えて、私の友人や近所の方々、パート先でお世話になってる方だけでなく、健一の職場の関係者やママ友達、更には私の両親だけでなく、健一の両親も見舞いに来てくれた。
「そんな大げさな…。」と思ったけど、私達家族は色々な方々に支えられているんだなと改めて思い知らされた。
今日の夕飯は、健一が作ってくれた『蕎麦』だった。
私が病院に運ばれてからは、健一も家事に協力してくれるようになり、現在は私に教わりながらではあるが、料理も作ってくれるようになった。当たり前だが、健一が今まで家事をしてくれなかったのは、『やり方を知らなかったから』かもしれない。実際、やり方を教えてからはミスすることも無く家事をこなしてくれている。
漂白剤の誤飲という一件で、色々な事を学ぶことになった。漂白剤を別容器に入れた事もそうだが、健一の助言を意地を張って聞き流していた事もあると思っている。健一が言うには、「重大事故が起きる際には、29件の小さい事故と300ものヒヤリ・ハットが起きている」そうだ。これをナントカの法則と言ってたが、難しい事は私には良くわからないので忘れてしまった。
「今日はな、麺つゆを出汁から作ったからな!市販品とは一味も二味も違うぞ〜!あっ、麦茶を忘れてたわ。」
自慢げに語る健一が、思い出したように麦茶を取りに行った間に、悠太と健一と私の器に麺つゆを注ぎ、蕎麦を掬い上げる。それを私の器に浸して一気に啜って――、また盛大に噴き出した。
「麻美ッ、どうしたんだ!?大丈夫か!?」
鼻から出てきた蕎麦や、噴き出した麺つゆを手で拭っている所に、キッチンから健一が光の速さで駆けつける。悠太が不安そうに、器に注がれた麺つゆを舐めると、呆れ顔で健一に真実を告げた。
「父ちゃん…、これ『麦茶』だよ?」
「えっ!?うわっ、マジじゃん!同時に作ってたから間違えちゃったんだ…。」
息子からの指摘に困惑した表情を浮かべた健一を見て、私は思わず愚痴を零した。麦茶だけに。
「もう“誤飲”は…、勘弁してよぉ…。」
さて、今回のホラーのテーマが“水”ということで、“誤飲”をテーマに優しいホラーを描いてしまいました。
少しだけでも、現実的な怖さを感じで貰えれば幸いです。