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風に贈る名 ― ミリエル異譚 ―

挿絵(By みてみん)


草原は、静かだった。


鳥の鳴き声も、町の鐘の音も届かないこの地で、風だけが彼女の名を呼んだ。

いや、正確に言えば――名を呼ぶように吹いた、というべきか。


少女は、名を持たなかった。

誰にも呼ばれたことがなく、誰にも贈られたこともない。

ただこの草原に、いつからか存在していた。


人々はこの地を通り過ぎるたび、噂した。

「風の精霊だ」「見捨てられた神の娘だ」「名を奪う魔女だ」と。

だが、彼女は誰にも祈らず、誰をも呪わなかった。


ミリエル。

それが、風の中に時折混じる音――彼女自身が、密かにそう呼ぶようになった名だった。


けれど、それは誰にも知られていない。

世界に登録されていない名。

貨幣にも記録にも届かない、ただの“音”。


それでも彼女は、その名を胸に抱いて、草の上に立ち、空を見上げていた。


名はないが、心はここにある。

それが、彼女の証だった。


 


◇ ◇ ◇


 


ある日、草原にひとりの男が倒れていた。


服は血に染まり、背負った荷は焼け焦げ、何より――その目は空白だった。


ミリエルは彼に近づいた。

彼は動かず、名を呼んでも反応はない。

だが、ミリエルにはわかっていた。

この男は、名を失った者だ、と。


「あなたの名前は、もうこの世界にないんでしょう?」


ミリエルはつぶやいた。


その瞬間、男の瞳が、わずかに動いた。

風が揺れ、彼の髪をなびかせる。

彼は息を吐いたようだった。


ミリエルは、彼の手をとった。

冷たく、傷だらけのその手に、自分の手を重ねた。


「なら、私が名を贈る。あなたに名が必要なら――これは、ただの“音”じゃない。」


彼女は草の上に座り、目を閉じ、風の中で言葉を紡いだ。


「リオネル。

あなたは今日から、そう呼ばれる。

その名が、あなたの傷を全部癒すわけじゃない。

でも、あなたがここに“いた”という証にはなる。」


リオネル。


男は、自分の胸をおさえた。

何かがそこに灯ったようだった。


 


◇ ◇ ◇


 


数日後、リオネルは草原を去った。


どこへ行くのか、何を求めているのか、それは彼自身にもわからないという。


「俺が名を思い出した時、君のことを探すかもしれない。」


「思い出さなくていいのよ。私が贈ったのは、記憶じゃなく、存在だから。」


ミリエルは笑った。

誰にも見せたことのない、やわらかい笑顔だった。


風が吹いた。

彼の背中を押すように、やさしく。


ミリエルは、ふたたび独りになった。

でも、以前とは違っていた。


かつては風に名前を教えてもらった少女が、

今は――風のように、誰かに名前を贈った。


そして、ふと感じた。

自分の中に、確かに存在する音がある。

“ミリエル”――誰にも贈られていない、けれど今や誇れる名前。


 


◇ ◇ ◇


 


名前は、呪いになることもある。

けれど、誰かがあなたを“存在”として呼んだとき、

それは祈りになる。


私は今日もここにいる。

誰にも呼ばれなくても、

誰かのために、名を贈るために。


 


――風に贈る名。

これは、ミリエルという少女が残した、小さな詩である。



――この物語の舞台、アポリアの本編はこちらから: アポリアの彼方1

https://ncode.syosetu.com/n0540kn/


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