9.革命、破れたり
「えっ……」
「お市ちゃん……?」
「ピッチャーって……なに、それ……!」
尾張ナインのざわめきが、ベンチの空気をざらつかせる。
信長だけが、言葉を発しなかった。
ただ、腰のあたりに置かれた右の拳が――
わずかに震えていた。
マウンド上、キャッチャー・浅井長政が笑う。
「革命児の妹なら、当然これくらいはできるよね?」
お市は何も答えず、ただ目を閉じて、
静かに、深く息を吸った。
一球目――ズバン!
外角低め、ラインぎりぎりを突くノビのあるストレート。
バッター、手が出ない。
二球目――チェンジアップ。
絶妙な間合いの揺らぎに、バッターは空振り。
三球目――インコース、カット気味の球筋。
わずかに食い込む軌道に、判断が遅れ……見逃し三振。
その瞬間、お市は小さく、拳を握った。
観客席の片隅――道三が、目を細める。
そして、7回、8回、9回。
尾張デビルズ、無得点、どころか一本のヒットも出せない。
お市はリリーフピッチャーとして覚醒していた。
反対に、浅井・朝倉軍は的確に追加点を積み重ね、差を広げていく。
まるで、お市の投球がチーム全体の呼吸を整え、
ひとつの“静かな嵐”を巻き起こしているかのように――。
試合終了 ― 衝撃の九者連続凡退
九回裏が終わった時点で、
尾張デビルズは、ついにお市から一度も得点できなかった。
静まり返るベンチに、ただスコアボードだけが
冷酷に事実を刻んでいた。
――7回裏から完封。
それは、ただの敗北ではない。
“革命”が、かつての“影”によって封じられた瞬間だった。
スコアは4対7。敗北だった。
尾張デビルズは、浅井・朝倉軍の“控えメンバー”にすら、完膚なきまでに抑え込まれたのだ。
特に――
後半三回を完璧に封じ込めた、お市の登板劇。
それは、信長にとっても想定外だった。
試合終了のサイレンが鳴っても、尾張ナインはベンチでうつむいたまま、誰も言葉を発さなかった。
信長もまた、静かに立ち尽くす。
グローブを外す手が、わずかに震えている。
そこへ――お市が歩み出る。
ユニフォームの裾を整えながら、揺れる三つ編み。
その目は、戦いの余熱すら感じさせない、冷たい湖面のような静けさをたたえていた。
「姉様の“革命野球”……」
その声は淡々としていたが、言葉の棘は鋭利だった。
「今のままでは、何の魅力もありません。
今日、私たちがしたのは“本物”の野球。
見ましたか? 一流の、完成された野球を」
尾張の選手たちが顔を上げる。
だが、お市の視線は――一人に注がれていた。
「柴田勝家さん」
名指しされた勝家の表情が、こわばる。
「あなたが、お姉さまの可能性を塞いでいるのです。
長政さまとは比べものにならない。
あなたが、あの人の実力を頭打ちにしている」
沈黙。
勝家は、拳を握りしめたまま、言葉を失っていた。
その緊張を破るように、ベンチの前から藤吉郎が一歩進み出る。
「……言いすぎだよ、お市ちゃん」
いつもの調子を抑えた声。
笑っているようで、どこかにじんだ悔しさがあった。
「たしかに、今日は負けた。完敗だった。
でも、そんな言い方しなくてもいいじゃない?」
しかしその直後――
利家が立ち上がった。
「やめろよ……」
低くうなるような声だった。
「私は、勝家さんに憧れてここまで来たんだ……
なのに、なんだよ。“比べものにならない”? “頭打ち”?」
握った拳が震えていた。
普段は陽気な利家の、見たことのない顔。
「お市!、お前が誰の妹でも関係ねえ。
……うちの姉貴分をバカにするなよッ!」
空気が張り詰める。
その間に、浅井長政がひらりと手を振りながら歩み寄る。
「まあまあ、練習試合ですから」
冗談めかした笑みを浮かべながら、両手をひらひらと上げる。
「うちも、これが公式戦だったら出し惜しみなんてしてませんし……
お互い、今日は良い経験になったということで」
...信長は答えない。
ただ、グローブを胸元に抱え――静かに目を閉じた。
その胸の奥で、何かが音を立てて崩れ、
同時に、何かが静かに――燃え始めていた。
革命の炎は、まだ消えていない...
「充分すぎるくらい、僕のリードに応えてくれていたよ。ま、才能は血筋なんだろうね」
長政はお市に話す。
「ありがとうございます。私は尾張デビルスには戻りません。長政さまとバッテリーを組み続けたい...」
お市は、目線を外しながらも、そう決心した。
「そうだね。少なくとも向こうのバッテリーみたいにならないね。僕は天才だから気持ちもわからないけど。」
遠くから、朝倉義景が眺めていた。
口元には、満足げな笑み。
「革命の妹が、今、ここに咲いたか……」
尾張デビルス、帰りのバスにて・・・
バスの車内には、重たい沈黙が漂っていた。
ただ、エンジンの音とタイヤがアスファルトを滑る音だけが、耳に残る。
誰もがそれぞれの席に腰を沈め、前を見つめるでもなく、うつむいていた。
とくに――
柴田勝家の表情は、青ざめていた。
窓の方に身体を向けているが、その肩は微かに震えている。
唇を噛み締め、悔しさを押し殺しているその姿に、誰も声をかけることができなかった。
空気に耐えかねて、後方の席から声があがる。
「……いや〜、あんなピッチャー反則だよね? あれ、色んなとこからスカウト来るって~」
ふざけたような口調で、藤吉郎が言った。
「革命児の妹って肩書き、ズルいなあ〜。わたしも“信長様の従姉妹”とか名乗ったら覚醒しちゃうかな〜?」
しかし、誰も笑わない。
会話は、宙に浮いたまま落ちた。
「……あれ? ちょっと〜? 無視は良くないって、無視は!」
空気を変えようと、藤吉郎は前の席の竹中半兵衛の肩をつつく。
「ねえねえ、はんべーくん、今日のスライダー、どうだった? わたし、見切ってたっしょ?」
だが、半兵衛は無表情に返す。
「……やめてください。今、そういうの……気分じゃありませんから」
「しょ、しょんぼり……」
藤吉郎の肩ががくりと落ちる。
彼の目が左右に泳ぎ、ついに“最後の砦”を見つけた。
「利家〜! ねぇねぇ、なんか言ってくれよ、親友だろ〜?」
だが、すぐさま返ってきたのは、低く、短い一言だった。
「……うるさい」
「が、がーーーん!!」
藤吉郎は座席に崩れ落ちるように沈み込む。
ふざけたリアクションではあったが、誰も笑わなかった。
「お前、ほんま今は黙っときや。」
蜂須賀小六がそう諭す。
前方の席――
信長はずっと、窓の外を見ていた。
口は固く結ばれたまま。
バスが揺れても、身体ひとつ動かさない。
目に映っているのは、ただ流れる景色ではない。
あのマウンド上で投げる、お市の姿。
あの言葉――
「姉様の革命野球に、今は何の魅力もありません」
拳を握るでもなく、ただ静かに、じっと思考を深めている。
その顔は、もはや怒りや悲しみではなかった。
**「革命とは何か」**を、真剣に問い直している顔だった。
そのすぐ隣――
斎藤道三が、黙って信長の横顔を見つめていた。
隣席に座るその瞳には、冷静で、しかしどこか満足げな光が宿っている。
「……良い表情になったな、うつけ。いや、“革命児”」
彼は声に出さず、そっと心の中でつぶやく。
そして、信長の肩越しにバスの窓の外を見やりながら、ふっと息を吐いた。
この敗北が、信長の“革命”を本物に変える起点になるのなら――それは敗北ではない。
バスは夕暮れの街道を、静かに走り続ける。
「今のままでは、か。」
革命決意時から支えてくれた妹であるお市に言われた言葉を反芻しながら、帰路に就いた。
革命の敗北は、新たな“問い”の始まりだった。