30.破られる均衡
六回裏は、まるで五回裏をなぞったかのような展開だった。お市から出塁には成功するものの、あと一本が出ずに無得点。ベンチの空気は、じわじわと重くなっていく。
――前の回はあのプライドの塊で知られる滝川一益が、珍しく謝罪の言葉を口にしていた。それだけ、この場面の重要さは全員が理解している。
そして六回裏の今。
同じくチャンスを生かせなかった藤吉郎が、けろっとした顔でベンチに戻ってきた。その姿を、蜂須賀小六がすかさず捕まえる。
「おい、藤吉郎。おまん、流れわかっとるやな?」
「あ〜……ふふ〜ん。当たり前なのだ♪」
そう言うと藤吉郎は、ベンチに対しにやりと笑い、やたら芝居がかった動きで手を合わせ大げさに頭を下げた。
「おお〜っと! 申し訳ありませんでした〜〜! いやぁ〜私が悪うございましたぁ〜!」
なぜか腰をくねらせ、顔芸まで添えてくる。その瞬間――
「……お前、ふざけてるのか」
クールな滝川一益が、静かに立ち上がった。冷たい声音で、鋭く突き刺す。目は笑っていない。完全にマジ切れの目だった。藤吉郎が
「あ、いや、これはサービス精神で……」
としどろもどろになったところで、今度は竹中半兵衛がすっと間に入り、淡々と告げる。
「ここが正念場なのですから、本当にに真面目にやってください」
その落ち着いた声に、藤吉郎は肩をすくめ、しゅんとうなだれる。藤吉郎の肩が一気にしぼんだ。
「……はい」
しょんぼりとうなだれる藤吉郎を、最後に小六がバッサリ斬る。
「今回も、全部お前が悪いな」
「えぇぇぇぇぇ〜!?」
情けない声がベンチに響き、重い空気の中にわずかな笑いが混ざった。
七回表 浅井・朝倉ベースボールクラブの攻撃スコアボードに「2-2」が灯るまま、試合は終盤へ突入する。バッターボックスに立つのは――五番、お市。緑のユニフォームの背番号背番号「1」を背負う浅井・朝倉のエースが、今度は打者として打席に立つ。艶やかな黒髪がヘルメットの下で煌めいた。
バットを肩に預けた姿は、投手としての鋭さとはまた違う、冷ややかな威圧を放っていた。
スタンドがざわめく。浅井・朝倉にとって、この回が勝負の潮目になることを誰もが悟っていた。
マウンドには織田信長。捕手は――柴田勝家。
松永久秀に代わり、後半戦を任された尾張デビルズの正規バッテリーがついに顔を揃えた。
お市は打席に立ち、わざと時間をかけてバットを立てる。
そして、冷ややかな笑みを浮かべながら言い放った。
「……何も変わっている様子はありませんね。やはり、あなたではお姉さまの力は引き出せない」
その挑発に、勝家の瞳が一瞬ぎらりと光る。だが口を開かない。マスクの下で奥歯を噛みしめ、ただ無言でお市を睨み返す。強く噛み締められた奥歯がわずかに軋む。返す言葉はない。ただ、沈黙と眼光だけが、挑発に応じる唯一の答えだった。信長は何も語らず、金色の瞳を細めてセットポジションに入る。球場の空気が一瞬、凍りついた。
――初球。外角高めへの直球。
お市は動じず、バットを止めて見送る。ストライク。
――二球目。低めに沈むスライダー。
鮮やかな軌道に、お市のバットが一瞬しなり、空を切る。空振り。
「……ふん」
お市の口元がわずかに歪む。だが瞳の奥には余裕が残されていた。
――三球目。インコースへの渾身のストレート。
信長の腕がしなり、白球が唸りをあげる。お市のスイングは……届かない。
「ストライク、スリー!」
バットの風切り音だけを残し、お市は三振に倒れた。
球場の歓声が爆発する。だが、お市はヘルメットの庇を指先で軽く押さえ、悠然と歩き出す。
すれ違いざま、わざと勝家に聞こえるように――低く、凍りつくような声を残した。
「その程度では……私たちの本気には到底適わない。いずれ打たれるわ。――原因は、捕手のあなたです。」
その言葉は勝家の胸に重く突き刺さり、マウンド上の信長の表情にわずかな影を落とした。
背番号「1」の背中が悠然と去っていく。打席を去る背中から漂う気配は、ただの凡退者のものではなかった。まるで――この三振そのものが、浅井・朝倉ベースボールクラブの反撃開始の合図であるかのように。尾張ベンチに緊張が走る。勝家の喉がごくりと鳴り、信長は金色の瞳を細く光らせた。
七回表。試合はなお同点。
だが――静かに、確実に。戦局は、嵐の前の気配を孕み始めていた。




