29.崩れの予兆
六回裏 尾張デビルズの攻撃
一条谷球場のスコアボードに、両軍の名前と「2-2」の数字が並ぶ。六回表を守りきり、試合は再び振り出しに戻った。信長と久秀が浅井・朝倉打線をねじ伏せ、流れはわずかに尾張へ――。
涼しい風が吹き抜けるマウンドを、お市が悠然と見下ろす。その裏、尾張ベンチは攻撃前の高揚と緊張に包まれていた。打席には、二番セカンド・池田恒興が立つ。ベンチ前でキャッチャーマスクを外した久秀が、ぽつりとつぶやいた。
「……これくらいでいいじゃろ」
マネージャーの森蘭丸がスコアブックから顔を上げた。
「えっ、もう交代なさるのですか?」
久秀は涼しい顔で、柴田勝家にマスクを差し出した。
「交代じゃ。後は勝家に任せる」
「え!? もう代わるんですか!?」
ベンチの空気が一瞬ざわめく。
「十分じゃろ。同点にしてやったし、これでわしが抜けて負ける様じゃ、まだまだじゃ」
久秀の声は淡々としているが、その奥底には鋭い意図が宿っていた。信長は一瞬だけ久秀の目を見たが、やがて短く頷く。
「……承知した」
勝家がマスクを受け取ろうとしたその瞬間、久秀が低く告げる。
「きっかけはつくってあるからな。信長の力を引き出すのは、お主次第じゃ」
その言葉に、勝家の手が止まる。
「……比叡山の時の、あの信長さまの……」
久秀は口元にわずかな笑みを浮かべ、ベンチ奥へ腰を下ろした。
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マウンド上、お市がゆったりと振りかぶる。氷のような視線が打者を射抜き、白球がしなやかに走る。
打席には二番、池田恒興。――だが、池田恒興の表情には、わずかな自信があった。前回の打席で、ほんの小さな糸口を掴んでいたからだ。両手をぶんぶんと回し、いつもの天真爛漫な笑顔で構える。
(前の打席で見つけたタイミング……今度は足でもぎ取ってやる!)
一球目、外角低めのストレート――ミットが小気味よく鳴る。見送りストライク。
二球目、内角寄りへの直球。詰まった打球が一塁線へ転がる。
お市がマウンドを駆け下り、素早く捕球。一塁送球――しかし恒興の俊足が一瞬勝り、「セーフ!」のコール。
「やったぁー! セーフセーフ!」
恒興はグローブを叩く一塁手の前で、ぴょんぴょん跳ねて喜ぶ。
その無邪気さに、尾張ベンチから笑いが漏れた。……ただし、打球は詰まった内野ゴロ。決して捉えた当たりではない。足でなんとかもぎ取った出塁だった。
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三番、前田利家。
初球からフルスイング。空を切る音だけが響く。前のヒットは偶然とわかっているからこそ、――お市のボールは、そんな甘くない。今度は正面から打ち破りたい。
初球、外角スライダー。空振り。
二球目、高めストレート。振り遅れのファウル。
カウント0-2。お市がわずかに口元を上げ、渾身の高めストレート。
空振り三振。
「……まぐれは続かないわ」
お市が低く吐き捨て、視線を切る。その声が、利家の背中を刺す。悔しさを噛みしめながらベンチへ戻った。
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四番、柴田勝家。
久秀からマスクを受け取った時の重みが、まだ手に残っている。――あの日。練習試合で、お市の投球の前に手も足も出ずに完敗。試合後、信長から突きつけられた言葉。
「お姉さまのピッチングを引き出せないのは、あなたのせいです」
その一言が、鋼のように心に刺さった。あれから今日まで、彼女は誰より早く球場に来て、誰より遅くまで残った。配球の研究、ミットの構えの位置、投手の癖――すべてを自分の血肉に変えるために。
だからこそ、この公式戦でお市から打つことが、自分の使命だった。
初球、外角直球。
強く踏み込むが、ボール半個ぶん外れた位置。芯を外され、三塁側へのファウル。
(甘くはない……だが、この程度で退くか)
二球目、真ん中低めへの速球。全身の力を乗せた渾身のスイング――しかし空を切る。ミットが乾いた音を響かせ、スタンドが一瞬静まり返った。
三球目、外角低めいっぱいの直球。
勝家は見極めに徹する。ボール半分は外れて見えた……が、審判の右手が上がった。
「ストライク、スリー!」
見逃し三振。勝家は一瞬唇を噛むが、すぐに顔を上げ、ベンチへ戻る。
(……まだ届かぬか。だが、あの時よりは近づいた。次こそ――)
その瞳には、確かな闘志が燃えていた。
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五番、竹中半兵衛。
状況は二死一塁。役割は明確――チャンスを広げること。だが、彼の視線はお市のフォームを細かくなぞっていた。
(――リリースの瞬間、ほんのわずかに腕の振りが緩んでいる。球速は1キロ程度落ちているか……回転数も微妙に低下している)
「さきほどのようにはいきませんからね……」
初球、バットを短く持ち、正確なミートでセカンドとセンターの間に落とす。的確な打撃でヒット。その間に恒興は二塁へ進む。半兵衛は冷静に一塁で呟き、ベース上からさらなる変化を探っていた。
ツーアウト一・二塁。
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六番、木下藤吉郎。
バットを肩にのせ、にこにことお市を見つめる。
(んー……なんか、さっきよりも球威が落ちている感じがするんだよなぁ。風の匂いも違う気がするし)
理屈ではなく、肌で感じる微妙な変化――それが藤吉郎の武器だ。初球、外角低めカーブ。
「おぉ〜、曲がる曲がる〜」
と口にしながら見送りボール。
二球目、真ん中速球。タイミングを外され、ファウル。
三球目、内角直球。ひょいと体を引きながらも当て、またファウル。
その後もその選球眼で、ボール球を見極めなど、観客のざわめきの中、七球目――やや高めの直球をすくい上げた。打球は三塁ファウルゾーンへふらりと舞い、義景が落ち着いてキャッチ。
「いや〜やっぱりお市ちゃん強いなあ。でも……なんか次は当たりそうな気がするんだよねぇ」
屈託のない笑顔でベンチへ戻る藤吉郎。その背を、お市が静かに目で追っていた。
スリーアウトチェンジ。六回裏、尾張は得点ならず。だが、久秀の残した“きっかけ”は、確かに次の展開へと繋がっていた。




